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第四話 生活

 今年もまた、あの日がやってくる。

「おはようございます、哲也さん」

 全身ずぶ濡れで玄関に立つ史奈。

「おかえり、史奈」

 白いワンピースは細い体にぺったりとまとわりつき、ライトブルーの可愛い下着の上下が見えている。可愛いへその形まで丸見えで、ドキッとする。

 なるべく見ないようにしてタオルを渡し、玄関に置いた着替えを指差してからベランダへ向かう。

 去年は八十センチほどだった水位、今年は二メートルを超えた。一階はもう使い物にならない。

「びっくりしたよ。出てきたら水の中だもん。溺れるかと思った」

「そりゃ大変だ」

 ベランダにいる俺に向かって史奈が語りかけてくる。背中で答えていると後ろに気配。抱きつかれた。

 冷たいのは水に濡れていたから、ではない。

 背中に感じる柔らかな膨らみ、少女の体。恋愛感情と入り混じった背徳感。

 解放されたので振り返ると両手を広げて目を閉じて史奈が立っていた。

 抱き寄せてそっと口づける。

「愛しているよ、史奈」

「わたしも、哲也さん」

 そのままお姫様抱っこをしてライティングデスクへ移動する。机には1年分の日記が置かれている。

 史奈を抱きかかえたまま椅子に座る。彼女はノートに柏手を打って、それから読み始めた。


「そういえば……」

 史奈はノートを読みながら小さく言う。

「ん?」

「哲也さんは、お仕事何しているの?」

「文筆業ってことになるかな」

 大学に入って、バイトでルポライターのアシスタントみたいなことを始めた。そこから編集部に付き合いができ、今はエッセイを書いている。だから俺に編集者がついているというわけだ。

 彼はいつもここに来るたびぼやく。先生ももっと内陸部に引っ越してくださいよ、と。だが、ここを離れる気はない。

「ふーん……てっちゃ……哲也さん、読書感想文とか上手だったもんねえ」

 苦笑いで答えるが、史奈は俺の日記を読んでいるところなので見えてはいないだろう。

「そういえば、これ、出版したの?」

 ノートを指差しながら聞かれた。

「……ああ、不定期連載という形で雑誌に載っている」

 ライティングデスクの引き出しの中から掲載誌を取り出し、付箋を貼ったページを開いて机に置く。

「だあれ、これ」

「俺らしいぞ」

 史奈の指差した先には線の細い、甚平を着込んだ髭面でメガネの男性像が描かれていた。そしてその肩にしなだれ掛かり、右手で男の頬を撫でている半透明のロングドレス姿の美女が描かれている。

「この美人さんは?」

「お前だ」

 ケラケラ笑う史奈。

「私こんなにスタイルよくないよー!」

 胸と尻が強調されたその姿は、史奈とは明らかに違う。史奈は――この形容が正しいかは別問題として――健康的で、スレンダーだ。共通点は黒いストレートロングくらい。

「ね、哲也さん」

 イラストと同じようにしなだれ掛かり、吐息混じりに話しかけてくる史奈。

「ね、やっぱり胸の大きい娘のほうが好き?」

「史奈が好き」

 キスしてやる。

「ずるいよーもー」

 頬をふくらませる史奈を目を細めて見ていたらキスされた。

「お返しだもんねー」

 目を見開いて史奈を見る。キラキラした笑顔の史奈。不意に笑いがこみ上げてきて、大声で笑ってしまう。

「そうか、お返しか。そりゃあいい」

 抱きしめて、唇を軽く触れ合わせるだけのキスを繰り返す。

 ほのかな甘い香りが冷たさとともに俺の中いっぱいに広がっていく。

 しばらくそうしていると、史奈が俺の唇をペロッと舐めた。

「こら」

 離れて叱る。小さくなる史奈。頭を撫でてやる。

「だって、だって」

「お互い、辛くなるぞ」

「……そう、だね」

 史奈はしばらく考えてから小さくうなづく。

「うん、頭のいい子は好きですよ」

 抱き寄せて、くっついて椅子に座る。冷たい、柔らかい体を感じる。

 史奈は俺の首に腕を回して、ギュッと抱きついている。まるで、俺の存在を確かめるかのようだった。


「あ、そうだ。これを買っておいたんだよ」

 淡いグリーンのワンピースタイプの水着。サイズは多分あっている、だろう。編集者に買わせて持ってきてもらった。

「んー、私着れるかなあ?」

 俺から水着を受け取ろうとする。床に落ちる。

「あー……だめか……」

 まあそうなるかもな、と思っていたのでさほど落胆はない。落ちた水着を拾い、タンスにしまう。

「ね、哲也さん、いいこと考えたんだけど」

「却下」

 即時却下したら史奈がふくれた。

「ちょっとくらい聞いてもいいじゃないの!」

「どうせその水着に縁を持たせるために俺が着ろ、とかそういうやつだろ」

「……はい……」

「絵面考えてみろ。おかしいだろ?」

 しばらく考え込む史奈。突然吹き出した。

「あっはっはっは! ダメだ、おかしすぎるー」

 しばらく放っておく。史奈は笑い転げている。まあ、箸が転んでもおかしい年頃になろうかという少女だ。

 そう、本当ならもうすぐ不惑であるはずの、少女。

 俺が沈み込んでいると史奈は不意に笑いをやめ、下から俺の顔を覗き込む。

「ごめんね、哲也さん。変なこと想像しちゃって笑い転げちゃって」

「……ん? ああ、違う。そうじゃない。計画が変わったからどうしようかな、と」

 とっさに嘘がつけるようになったのは大人になったからなのだろうなと思う。そこでも少し沈み込みそうになるが、笑顔を見せる。

「ま、泳ぐ必要はないわな。二人でくっついて、ずっと話をしよう」


 史奈が戻ってくると、だいたいいっつもくっついてキスをして手を握って抱きしめて過ごす。その間にこの一年にあったことを話す。

 去年の十月の台風の話を面白おかしく聞かせた後のまったりとした時間。史奈は頬を俺の胸に擦りつけてくすくす笑っている。

「鍛えてるんだね―」

「なんでも独りでこなしているからな」

 史奈は胸から顔を離して、俺を見上げる。その瞳にはためらいの色が見える。

「ん?」

「怒らないで、聞いてね」

 ここで史奈は目を伏せた。

「あのね」

「怒るぞ」

 びっくりした表情で俺を見上げる史奈。

「どうせ『私のことは構わず、もう引っ越ししたら?』とか言うつもりだったんだろう」

 目を見開いて俺を見て固まり、そして小さくうなづく。

「馬鹿かお前は」

「馬鹿って言うほうが馬鹿なんですぅ」

 口を尖らせて文句をいう史奈。

「黙れ馬鹿娘」

 少し乱暴に抱き寄せる。

「痛いよ!」

「痛いようにやったからな。悪いことを考えた子の罰だ」

 額と額を軽く合わせた状態で静かに言う。史奈の目が泳ぐ。

 そっとキスする。

「もう、俺はお前と二度と会えないと思っていた。この奇跡と幸福を自ら手放すなんてことはしたくないんだ」

「……ごめん、ごめんね……」

 もう一度そっと抱き寄せてキスをする。

「今、目の前に史奈がいる。俺はそれが最高に幸せなんだよ。だから、大丈夫。愛しているよ、史奈」

 史奈は泣きながらこくんとうなづいた。


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