第三話 告白
史奈は毎年七月十三日にやってきて、十七日に帰る。
今年もまたその日が近づいてきた。
俺は初めて彼女が来て、そして帰った三年前のあの日から日記という名のラブレターを書くようにしている。
彼女が戻ってくるまでの間、狂わないようにするために。
不思議なことに、史奈はなにかしらの縁のあるものなら掴むことが出来た。例えば、俺の体、あるいは俺が普段使っているペンや日記用のノート。
彼女は戻ってくるとまず俺に抱きつき、キスをした。
「なあ、史奈、下半身すごいことになっているぞ」
いつもの白いノースリーブのワンピースだがびしょ濡れでぺったりと張り付いている。白いものだから透けてライトブルーの下着の形があらわになっている。
「てっちゃんのえっち……でもてっちゃんならいいか」
タンスからタオルとTシャツ、バミューダパンツを出して渡す。
「体拭いて、着替えろ。あっち行ってるから」
俺はアパートの小さなベランダに出て外を見る。きらめく水面に建物が生えている。見慣れた、異様な光景。
「着替えたよ!」
呼ばれて部屋に戻る。
「別に見ててもいいのに」
いたずらっぽく笑う史奈。
「見てたら恥ずかしくなるくせに」
額を軽く人差し指で突く。クスクスと笑う。
俺が椅子に座ると、その膝の上に史奈も座る。そして俺の日記を読む。それが初日のルーチンだ。
昼。採れたての野菜のサラダを俺が食べている間、横に立ってニコニコと俺を見る史奈。
ふと思いついたことを言ってみる。
「なあ、食べてみるか?」
「私、食べられるのかなあ?」
「俺が作ったんだ。縁はあるだろう」
史奈は俺が普段使っているフォークを掴む。トマトに突き刺す。そして口の中に入れる。
「んーっ! 甘くておいしい」
「そうか、よかったな。じゃあこれからは二人で食べるか」
「でも、てっちゃん、フォーク一本しかないよ」
しばらく史奈とフォークを見る。
「まあ、こうすりゃいい」
史奈からフォークを受け取ると、膝をポンポンと叩く。
「?」
首をかしげている史奈。
「ここに座れ」
「えー」
恥ずかしがりながら俺の膝に座る史奈。プチトマトを刺して史奈の口元に持っていく。
「はい、あーん」
「え?」
「あーん」
史奈は恥ずかしそうに口を開く。そっと差し入れる。
もぐもぐとしている史奈を見ると、うつむいてふるふると震える。こくん、という音のあと、小さく言う。
「恥ずかしいよ……」
「そうか?」
史奈は俺をキッと睨むとフォークを奪い取る。きゅうりに少し乱暴に突き刺して差し出してきた。
「あーん」
平然と口を開け、食べる。
「うー……てっちゃん余裕……」
「そりゃあ、まあ、もう四十に手が届くからな」
とはいえ、可愛い彼女が膝の上に薄着で乗っている。気をつけないと色々と危ない。
「なあ、史奈」
「なあに?」
「下、だいぶ水が来ているだろう?」
水位は年々上昇の一途。しかも加速している。更に夏は酷くなる。
史奈が初めて来たときの道路の冠水はまだ三センチほど。翌年は十センチだった。去年三十センチを超えた。今年はついに八十センチを超える勢いになった。
堤防は決壊していない。海の水の量が増えすぎているのだ。
地球温暖化によって南極の氷が溶けたから、ではない。海水温が上がり、結果体積が増える。さらに上昇した海水温は豊かな水蒸気を生み出し大量の暴風雨を発生させる。
雨は大地を削り、海の領域を増やす。こうして陸地は減り、街は水没していく。
「そうだね、びっくりしたよ」
「お前、どこから湧いてくるんだ?」
「ひっどーい、虫みたいに言わないでよ!」
むくれた史奈の頭を撫でる。
「ごめんごめん。でも気にはなっていたんだ」
「家のあった場所の、私の部屋だったところ」
それで腰まで濡れていたのか。
「そのうち、完全に水没するかもしれないな」
「かもね。でも私、息しなくてもいいから平気だよ」
「そりゃあいい」
ピッタリとくっつく史奈。ひんやりとして気持ちいい。首筋にキスをされた。
「ね、てっちゃん」
「ん?」
「大好き」
「そうか。俺もだ。ところで息しなくていいんだよな?」
「そうだよ?」
「じゃあなんで首筋がくすぐったいんだ?」
「息しなくてもいいんだけど、息できるんだよ。じゃないと喋れないでしょ?」
「なるほどなあ」
俺の見ているこれは幻覚なのだろうか、それとも。
未だに確信は持てていないが、でもいいのかもしれない。狂っているならばそれはそれでいいし、そうじゃないなら奇跡の上に生きているという幸せを噛み締めているということになる。どちらでも幸せということだ。
食事が終わり、のんびりと二人で座ってくっついていたときに不意に史奈が口を開く。
「ねえ、てっちゃん、この日記に書いてあった編集者さん、って誰?」
「あー……なんかたまにここに来て、この日記を出版させてくれって言ってくるんだ。読むやついるのかよって思うんだけどさ」
「え、全部読まれてるの?」
「まあな。でも出版する気はない。これは俺の史奈へのラブレターだ。恥ずかしくて世の中に出せるかよ」
史奈は隣でくねくねし始めた。
「えー、世界に向けて私への愛を叫んだっていいのよ?」
「……なるほど、考えておくよ」
史奈は俺の首に腕を回して額をくっつける。
「やっぱりてっちゃんかっこいい」
「てっちゃん、ねえ……」
「なあに?」
「愛称で呼ばれる歳じゃないんでね、ちょっとくすぐったい」
しばらく史奈は考え込む。
「えと……哲也、さん……」
赤くなってうつむく史奈の顎に人差し指を引っ掛けて、くいっと上を向かせ、キスをする。
「愛しているよ、史奈」
史奈の瞳が潤んでいる。抱きつかれた。背中をポンポンと軽く叩く。
「わ、わ、私も、私も、愛して、るっ」
震えた、泣いている声で返事をする史奈。そっと抱きしめる。
「そっか」
史奈が落ち着くまで頭を撫で、背中を軽く叩いていた。
しばらくして史奈が俺から離れる。ふくれながら俺を見る。
「てっちゃ……哲也さん、不意打ち過ぎ」
「お前に言われたくないね」
「そりゃそうだろうけど……」
小さくなっている史奈を抱き寄せる。
「な、何?」
「お互い、愛しているんだ。くっついていたっていいだろ?」
ウィンクする。しばらく呆然と俺を見てから、抱きついてきた。
「そうだね、そうだよね!」
それまで夜は史奈をベッドに、俺は床に転がっていたんだが史奈が真っ赤な顔してベッドに来い、という。
「それは嬉しいけど、何もする気はないぞ」
「え、なんで?」
びっくりした顔で俺を見る史奈。
「あのな。俺はもうすぐ四十だ。お前、十五のまま。どう見ても親子で犯罪。おっけ?」
「だって私死んでるよ?」
「そういう問題じゃない。俺の矜持の問題だ。可愛い恋人と同じベッドで眠れるだけでも十分だよ」
少し不満そうにふくれた史奈。頭を掻きながら答える。
「史奈が嫌いなわけじゃない。大好きだよ。愛してるっていうくらいだからな」
「じゃあなんで!」
「……ここで史奈に溺れたら、次の1年までが辛いんだ……言わせるな恥ずかしい」
抱きつかれた。
「ごめんね、ごめんね、てっちゃん」
「コラ、またてっちゃんになってるぞ。大丈夫だよ。史奈、今はお前がいる」
抱きしめて頭をそっと撫でてやる。ほんのりと冷たい体。
「さ、寝よう。明日はきっとまた楽しいぞ」