第二話 再会
その日は朝から嵐になった。
しばらく太平洋上をウロウロしていた台風嵐雲はその名前の通り大嵐となって日本にやってきた。
学校は早々に休みが決まった。普通ならラッキーと思うが、今はちょっと事情が違う。
『てっちゃん、怖いよ』
史奈からのメッセージ。半泣きのスタンプとともに送ってきた。俺もビビってはいたけど、笑った自撮りを送る。
『大丈夫だ。なんならうちに史奈んとこ全員避難するか?』
『もしものときはお願いね』
ここで目が覚めた。またあの夢だ。頬に手をやると濡れていた。あれから二十年経つが未だに心の整理はつかない。
そう、このときはこれが最後のやり取りになるとは思わなかった。
高気圧に押されて赤道付近でたっぷりと水蒸気を喰らい成長したアータウは、九月十八日に日本へ上陸。一級河川の堤防を決壊させ俺の住んでいた街を水没させた。
幸いにして俺の住んでいたアパートは大家がかなり金を掛けていたらしくびくともしなかった。それでも二階の途中まで水没し結構な被害が出ていた。
そして史奈の家は流された。あの時、俺が迎えに行っていれば。俺の家なら平気だった。
桑名家は三人全員が流され、亡くなった。史奈の両親は天涯孤独だった。家族ぐるみの付き合いだったのだが、そもそも親が子供の頃から仲が良かったのだそうだ。天涯孤独となったとき、もしものときのための保険受取をうちにしていた。うちももしものときの受取を桑名家にしていたくらい仲が良かったのだと後から聞かされた。
うちの両親は史奈とその両親の葬儀を行い、墓を用意し、さらに史奈たちの位牌を新しく買った仏壇に置いた。その俺の両親もつい先月事故で死んだ。
両親はすでに引っ越したが、俺は今もまだあのときの家に住んでいる。史奈がいなくなったことでポッカリと空いた心の穴は埋まることもなく、そのまま時だけが流れている。
いや、違う。周辺はかなり悪化している。温暖化の影響が出てきて、水位は上昇している。人口減もありインフラ整備が追いつかず、このあたり一帯のメンテナンス放棄を決定してもう十年になる。
アパートの大家は国から金を貰って所有権を譲渡した。家賃は払わなくていいというのを確認した上で俺は居住権を維持してそのまま住んでいる。
そう、首都はすでに静岡へ移動している。
なんせ夏の満潮時には道路は塩水で冠水してしまう。当然水道も電気も止まっている。このアパートにも住民は俺しかいない。そもそもこの近辺にはほとんど人は住んでいない。
冠水しているということは物流も止まる。なので自給自足生活をするしかない。アパートの屋上に太陽光パネルがあったので電気はこれで供給される。土と肥料、あとコンポストも作ったので屋上に畑を作った。
魚はちょっと行けば簡単に釣れた。
肉を食べたいと思わなくなっていたのでこれだけあれば十分だった。
電波時計を見る。七月十三日、午前七時。まだ凶悪な日差しは照りつけてはおらず、とはいえ蒸し暑い。
屋上へ移動して雨水タンクから水をひとすくい、顔を洗う。
だいぶ離れた建物の屋上に動く人影が見える。俺と同じ物好きがまだこの地域にいるということだ。ご挨拶として屋上に置いてある旗を拾い、振る。向こうも気がついたようで旗を振ってきた。
満足して畑の様子を見る。ナスとトマト、きゅうり。今年もいい出来だ。
今日の分のトマトときゅうりを収穫し、部屋に戻る。
軽く飯を食って、史奈の位牌を見てぼーっとすごす。ここ数ヶ月はこんな感じだ。以前は……以前はどうだっただろう。もう思い出せない。
こんな環境だ。野良猫も野良犬も人も周囲にいないので窓も玄関も開け放している。その玄関の方から、軽やかな足音が聞こえてきた。
客……こんな放棄地に?
一応、武装代わりの金属バットを握りしめる。
「着いたー!」
懐かしい声が聞こえる。馬鹿な。
玄関に小柄な人影が見える。ありえない。
バットが手から落ちる。そんな。
「てっちゃん!」
そこには、史奈がいた。中学生の当時の姿の。あの白いワンピースでポニーテールの、史奈が、いた。
人恋しいあまり幻覚を見るようになったのかもしれない。
よりによって、あの当時の史奈の姿を見るようになるとは思わなかったが。
史奈は面白そうに部屋を見回している。
「ふーん、あんまり変わってないね。でも、これは初めて見るな―」
仏壇を面白そうに見ている。
「そうか。それはお前の位牌が置いてある仏壇だ」
「へー、てっちゃん、信心深かったっけ?」
からかうように俺を見る。
「いや、そうでもない」
史奈は俺の顔をまじまじと見る。
「んー、てっちゃん、老けたねえ」
「もう三十五だからな。というか史奈、お前は変わらないな」
「そりゃそうだよ、私死んでるもん」
クスクスと笑う史奈。
「なんで今さら来たんだ?」
「あのね、三途の川ってあるでしょ。その川のこっちが此岸で、あっちが彼岸。今、ここがそうであるようにわたつみは少しずつ三途の川を飲み込んでいるの。だから境目があいまいになってしまったの。でもまだ大きな力を持っているから、いつでも渡れるわけじゃないんだ」
史奈の説明はよくわからない。
「ね、てっちゃん、今日、何日?」
「七月の十三日だな」
「やっぱりね」
腕を組んでうんうんとうなずく史奈。
「何がやっぱり、なんだ」
「東京盆、ってやつだよ。本来のお盆は旧暦七月十五日なんだけど、新暦でやるとすると農作業真っ只中なんで、月遅れ盆だったり、旧暦でやってたりするんだけど、このあたりは農作業が関係ないからって理由で新暦でやるようになったのよ」
史奈はどこでそんな知識を得たのだろう。
それにしてもリアルな幻覚だ。
「てっちゃん!」
「ん?」
史奈が俺の顔を包み込む。親指で俺のまぶたをそっと触る。目を閉じて史奈の冷たい細い指を感じていたら、ひんやりとした感触を唇に感じた。
「感謝しなさいよ。私のファーストキスなんだから」
「いきなり、何を」
「だって信じてないみたいなんだもん。私は、いま、ここにいるの。この奇跡を喜べばいいのよ」
「お前、少し性格変わったな」
俺が呆れたように言うと史奈はにっこりと微笑む。
「あの時、私は遠慮しちゃったから死んじゃったのよね。だから後悔しないように自分に素直に生きることにしたの」
「……ナイスジョークだ。死んでから生きるというのは」
ぷーっとふくれる。
「お、ふぐなだな」
「んもーーー!」
史奈にぽかすか殴られる。すきを突いて抱きしめる。史奈は柔らかく、そして少し冷たい。
「ごめんね、てっちゃん。冷たいでしょ?」
「あー、まあな。でも今は夏真っ盛り。気持ちいいぞ」
しばらく史奈を抱きしめる。あのとき感じた甘い香りがする。
「うー、てっちゃん余裕すぎるー」
「そりゃ、大人だからな」
これが幻覚でもいいかもしれない。
あの時止まった時計を無理やりにでも動かせる、そんな気がしてきた。
抱きしめたまま、耳元でささやく。
「で、お前、今日はどうするんだ?」
「てっちゃん家に泊まっていい?」
耳元でささやき返される。
「あー、まあいいぞ。なにもないがな」
「大丈夫だよ、てっちゃんがいるもん」
耳たぶを唇で軽く挟まれた。
肩を掴んで引き剥がす。
「何しやがる!」
「恋人に甘えただけだもーん」
「あのな、お前と俺と、もうどれだけ歳が離れていると思うんだ」
「それでも、私はてっちゃんの恋人だもん」
涙目の史奈の頭を軽く撫でる。
「……そうだな。恋人だった……じゃない、恋人だな」
「うんっ!」
俺に飛びついてきた史奈を抱きとめ、そっとキスをした。