風の音符
東京の冬は寒いなぁ。
おかしいな。温度はそんなに違わないのに。
川野さんは、寒さに、東京に、夢破れそうになっていました。
ポン・・・ポロロロン
コロコロロン・・・・タ、タン
その後の長い沈黙。
音楽院に通う男性、川野さんが、ピアノの前を行ったり来たり。
この部屋は、時間貸しのスタジオなので、もう少ししたら、出なければなりません。
今の季節同様にか、それ以上に懐も寒いので、時間の延長も出来ません。
そんな中、思ったように作曲できない苛立ちがつのります。
「違う!違う!
作りたいのは、こんな曲じゃないんだ。
こんなに寂しいだけの、曲じゃあないんだ!」
コンコンコン。
ドアをノックする音。
「時間過ぎていますよー。延長しますかー?」
スタジオの人の間延びした、苛立ちを逆なでする声がしました。
この人も知っているのです。
延長はしないだろうという事を。
「はい!わかりました。今出ます!」
怒鳴り返しても、彼が悪いわけではない事は分かっています。
それでも、川野さんは曲のできない苛立ちが、抑えられずにいました。
スタジオのお金を払い、ドアを開け、冬の風が吹き荒ぶ中に身を投じます。
東京は寒い。
川野さんは実家を思い出していました。
川野さんの実家は、人も気候も穏やかな南の方です。
もちろん、地元でだって寒い日や、雪の降る日だってあります。
それでも、川野さんは、寒さに身を縮めました。
コートのポケットには、実家の母親からの葉書が入っていました。
数か月ごとでしょうか、川野さんの体を心配し、
頑張れと綴る短い言葉の書かれた葉書が届きます。
年賀状から、二か月近く経つのか。
川野さんは思いました。
田舎から音楽を学びたいと、出た人はありませんでした。
そんな中母親だけが、自分が一番やりたいことを、選びなさいと、
決して裕福ではないにもかかわらず、院まで行かせてもらっているのです。
母親の苦労に応える才能が自分にはあるのか。
それが、最近とても苦しく、辛く、重く、圧し掛かっているのです。
前も見ずに、ずんずん歩いていたので、誰かと勢い良くぶつかってしまいました。
「てめぇ。ちゃんと前を見ろや。クソ野郎が!」
容赦のない罵声が飛びます。
余りにも、育った環境と違いすぎる、人混みも、足早に歩く無表情な人たちも。
川野さんの、自分自身のせいだとしても、そういったことが哀しく、むなしくなり、立ち止まってしまいました。
後ろから、ドンと、強く人と当たり、抱えていたカバンが落ちました。
その瞬間、クリアファイルに入れていた、楽譜の譜面が飛び出し、あろうことか、飛び立ちました。
譜面が、ファイルから風に連れられ、一列に並ぶ白い鳩のように飛んでいきます。
「待って!待ってくれ、お願いだから」
大切な曲です。
提出の期限も迫っています。
「待って!」
譜面を追いかけ、走り出しました。
暗い冬の夜空を、譜面は意志を持ったように舞い、つむじ風に巻かれてクルクルと回ります。
ポロロロロン
コロコロコロコロ・・・・ン
川野さんの曲です。
楽譜が風に踊りながら、曲を奏でます。
哀しい
寂しい
切ない
むなしい
曲。
こんなに遠くに来てしまった。
大切な人を置いて出てしまった。
価値はあるのか。
そんな言葉を紡いでいます。
そして、川野さんが書いた最後のところまで来ました。
譜面では、ここまでしか、ありません。
ポーーーン。
ピアノの音が止まります。
ここからの曲が、ないからでした。
ポロポロポロポロポロロ・・・
コロココココ
少しの間、止まっていたピアノの音が、再び始まりました。
ポロコココ
コロ・・・ポポン
さっきとは曲の感じが変わりました。
明るく、颯爽と始まりました。
ああ、そうだ。
東京に出ると決めたときは、こんな気持ちだった。
ポケットの葉書が指先に触れました。
元気かい。
頑張りなさい。
納得するまで、夢をあきらめないで。
こっちは、だいじょうぶだよ。
身体には気を付けて。
風邪をひくんじゃないよ。
いつもの言葉を思い出しました。
言葉は、たいてい同じです。
季節の事
身体を心配する言葉
励ます言葉
そして、
川野さんの夢を、川野さん以上に、信じてくれている言葉。
寒く凍っていた心が、譜面に書き出せなかった音を聞き、ほぐれていきました。
ああ、そうだ。
こんな曲が書きたかった。
頭でっかちになっていた。
違うんだ。
もっと、単純で良かったんだ。
それに、伴う技術なら、しっかり学んだはずなんだから。
川野さんは、飛び出していった譜面を全部拾いあげ、
順番に並びなおし、そして、そのまま、アスファルトを机に、屈みこむように
音符を書き出しました。
今も頭で鳴っている音符を追いかけて。
哀しくも優しい、懐かしい曲を、ただただ、追いかけて譜面に書き綴りました。
なぜ、独りだと思っていたか。
独りならば、ここに来れないはずじゃないか。
自分は、とても恵まれていたんだ。
夢を諦めた人を知っている。
でも、たくさん、足掻いておいでと、送り出してくれた人が居るじゃないか。
川野さんは、少し暖かくなった風に、譜面を遊ばれるのを抑えながら、涙で視界が滲みそうになりながら、楽譜を描き続けました。
風は、つむじの向きを変えて去って行きました。
その日の夜の天気予報では、春一番が吹いたと言っていました。
風は南から、母親の思いを乗せて飛んできました。
川野さんだけでなく、沢山の人への思いを運んでいたのかも知れません。
それに、気付いた人。
気付かずに通り過ぎた人。
川野さんは、まだ頭の中の曲を追ってペンを走らせています。
その曲は、明るく、未来を詠うものでした。
春一番が吹いても、まだまだ寒い日が続きます。
それでも、地元の風が吹いたように、川野さんは感じました。