貿易都市アレグロ7
その日の夜に【薬草大全】のページを読み進めようとしたディムロは、かなり難しい問題に当たっていた。
「まさか……」
『まさかちょこちょこわからない文字があるとはな……』
ディムロが使う文字は、古い。【火の一族】が暮らす集落は外部との交流がほとんどなく、その知識は伝えられては行くが、残念ながら更新がされない。一応、たまに見つかった外部の【火の一族】の子孫によって多少の更新はされるのだが、当然抜けはある。
「今の文字が使われているとさっぱりわからんな!」
会話やシンプルな日常の文字は問題がない。そもそも識字率とて、そう高いものではない。街中でも、ほとんどの店は文字ではなく絵で看板を作っている。だが、【薬草大全】のような専門書となると、話は別であった。
「こういうとき、頼りになるのはやはり冒険者ギルドかなと思ったので」
「はぁ……」
というわけで、翌日。ディムロは困ったときには泣きつけ、と言わんばかりに、馴染みの受付嬢に声をかけていた。今日も今日とて、早朝をとっくに過ぎた時間にギルドに現れたディムロに訝しげな顔をする受付嬢。実はディムロは今、馬の蹄亭で早朝の火入れもやっているので、時間的に冒険者達が依頼の取り合いをしている時間には間に合わないのだが。
「んー……一番シンプルなのは、文字が読める人とパーティを組むことだと思います。お金もかかりませんが、報酬分配を決める必要があります。それに、街中だけでの依頼は、あまり他の冒険者にいい顔をされません」
「なるほど。通りで街中の依頼が残るわけだ」
冒険者の役割は様々なものがあるのだが、最も期待されている役割はやはり魔獣の間引きである。危険な生物が闊歩する外を行き、命を賭けて戦う。それは日々を普通に過ごす人々にとって、貧乏くじであり、誰かにやってほしいことなのだ。ゆえに、都市は冒険者を優遇する。街中の依頼だけ請け負う冒険者は、そもそも役割をはき違えている、と堂々と言う者もいる。
「ああ、でも。1人だけ、心当たりがいます」
受付嬢が、何かに気付いた様子で指を1本立てた。
「……ふむ?」
「奇人変人の類いですが、まあある意味お似合いだと思いますし。精霊術士は珍しいので、気に入ってもらえるかもしれません」
「奇人変人……お似合い……?」
ディムロには自分が変人であるという自覚が全くなかった。
「彼女はこの冒険者ギルドの資料室に引きこもっています。今日もたぶん来てたと思うので、探してみてください。そこから先は、あなた方にお任せします。大量の資料を読み込んでいるので、ディムロさんの要望にはぴったりだと思いますよ」
指さされた資料室への道に目をやり、ディムロは頷く。確かに、読書に造詣があるに越したことはない。組んでみたはいいが、専門書は読めませんでしたでは目も当てられない。
「助かった、まずはその人を当たってみるとしよう」
肩にイギマを乗せ、片手に【薬草大全】を抱えたまま、ディムロは資料室に向けて歩き出した。
それを見送った受付嬢は、内心で『もしかして、この街の奇人変人全員と知り合うことになったりするのでは……?』と少しだけ未来を心配した。
資料室は、カビ臭かった。貴重な紙に描かれた巻物もあれば、乱雑に積まれている木板もある。独特なインクの匂いと埃っぽさが鼻をつき、ディムロは思わず口元を覆う。誰も手入れしなくなった納屋がこんな感じであった。
呼びかけようにも、これだけ埃っぽい空間では口を開くことすら躊躇われた。
(これは資料室、というよりは倉庫のようだな……)
確実に資料ではないだろうガラクタやネジ、金槌などが放棄されているのを見て、ディムロは顔をしかめた。いくつか存在する棚の向こうに、カンテラの明かりが見えたので、ガラクタを避けながらそちらに突撃する。
床に投げ出されたガラクタや木板に四苦八苦しながらたどり着くと、そこには木板の山の上にカンテラを置き、一心不乱に巻物を広げている少女がいた。
「あの、すみません」
「……」
呼びかけには無反応。ディムロは先日のアーバとのやりとりを思い出し、しばらく待ってみることにした。カンテラだけが光源となる薄暗い空間に、沈黙が降りた。
「……」
「……」
紙が擦れる音だけが響く。
「……」
10分ほど経ち、少し疲れてきたな、と思ったディムロが僅かに身動ぎをする。やがて巻物を読み終わった少女は丁寧な手つきで広げた巻物を戻していく。そして次の巻物を探すため、ため息を吐きながらそばに置いてあったカンテラを持ち上げ、その中のろうそくの残量を見て顔をしかめた。
残りが少ないから、補充しに行かなければ――と、顔をあげ。
暗闇の中に浮かび上がった男の顔と、牙をむき出しにしてあくびをしている蜥蜴の顔を見て。
「きゃあああああっ!!」
「『うおわっ!?』」
盛大な悲鳴をあげたのだった。
「大変申し訳ありませんでした……」
「大丈夫だ、誤解は解けたので……」
女性の悲鳴、というのはこうも威力があるのか、とディムロは疲れた顔で呟いた。あのあと、何事かと思った受付嬢、そして野次馬に現れた冒険者たちが資料室に突撃。暗闇の中にオロオロと立ち尽くすディムロと壁際に背中を貼り付けて首を横に振る少女を発見した。
すわ狼藉か、と武器に手をかけた冒険者たち。ディムロがよそ者であることが災いし、このまま犯罪者になってしまうのか――と思われたそのとき。
「ウィニ、貴女の口から経緯を説明しなさい」
頭痛を堪えるように頭を揉み込んでいた受付嬢の一言が、場の人間を一気に冷静にさせた。ディムロが狼狽えるばかりで、決して抵抗の姿勢を見せなかったことも幸いした。じゃあまあ、被害者の主張を聞いてからでも良いか、と冒険者達が武器から手を離し、当のウィニと呼ばれた少女が悲鳴の訳を話す。
夢中で資料を読んでいたが気付いたら目の前に男とよくわからない蜥蜴がいてびっくりしただけだと。
「やれやれ、人騒がせな」
「まったく、俺らも暇じゃないんだぜー」
「よっしゃ、口直しに飲むぞおめーら!」
好き勝手に騒ぎ立てる冒険者たちに、受付嬢が一言、
「昼間から飲んだくれておいて暇じゃないとは?」
と刺し、どうやら我らが受付嬢は機嫌が悪いらしいと察した冒険者たちが蜘蛛の子を散らすように資料室から撤退。ウィニとディムロは資料室から出て、きちんと話をしてきなさいという受付嬢のアドバイスの皮を被った命令に従い、冒険者ギルドから少し離れた場所にある軽食店で向かい合って座っているのだった。
「えーと、改めまして、ウィニと言います。本日はどのようなご用でしょうか……」
すっかりしょげてしまったウィニが、注文した紅茶を飲みながら恐る恐るディムロを見た。
「恥ずかしい話、私はあまり文字を読むのが得意ではない。これを読むのを手伝ってほしくてな」
どさり、と机の上に投げ出された【薬草大全】を見て、ウィニは目を輝かせた。
「それは【薬草大全】! 不親切な内容と難解な効能説明で薬師の人間すらあまり読まない、まさに薬草のことしか考えてないと言われている本! 著者は自分を実験台にして効能を確かめていた【薬草狂い】! 貴重な本ですよ!?」
淡い灰色の目を輝かせ、覗き込むように身を乗り出してくるウィニに、ディムロはタジタジと体を引いた。
『やはり奇人変人の類いではないか……』
イギマが呆れたようにため息を吐く。内心ではイギマに全力で同意しながらも、ディムロはつとめて表情には出さなかった。それに――ディムロは諸々の事情で、変な人間には耐性があるのだ。
「そうなのか。実はこれは、薬師のアーバから預かったものなのだ。勉強してこいということなのだろうが、あいにく専門文字が読めなくてな……」
「そういうことならお任せください! めちゃくちゃ得意分野です!」
「パーティ、とやらを組んで欲しいのだが」
きょとん、と首を傾げ、ウィニは何かに気付いたように体を強ばらせた。先ほどまでの勢いはなりを潜め、代わりに自信なさげな態度を取る。
「あ、あの、もしかして、私の職業……お聞きじゃないですか……?」
「職業?」
変だな、とディムロは首を傾げる。あの受付嬢はパーティを組む話の流れでウィニを紹介していた。まさか冒険者ではない、とかそういうオチだろうか?
「あの……私、ネクロマンサーなんです。だから、みんな私とはパーティを組みたがらなくて……」
そっと差し出されたウィニの左手には、髑髏のマークが刻まれていた。その紋様を眺めたディムロは、傾げた首を反対側に倒した。
「……ねくろまんさー、とはなんだ?」
今度はウィニが首を傾げる番だった。
「し、知らないんですか!? あのあの、絵本とかで敵で出てくる人です! 骸骨とか死霊とかを従えて戦う職業なんですけど!」
ああ、とディムロは傾げた首を元に戻して頷いた。
「それなら知っている。死霊術士のことだろう?」
「……た、確かに、昔はそう呼ばれていたみたいですけど……今はネクロマンサーと呼ばれてるんです……」
そうなのか、と腕を組んで深く頷くディムロ。同じ職業や技術でも、今と昔では呼び名が違う――そういうこともあるだろう、と。
「で、ウィニが死霊術士だとパーティを組めないのか? 冒険者登録していないとかか?」
「いっ、いえ……冒険者登録はしてますし、パーティも組めます……ただ、その……」
「その?」
なぜこんなことを自分で説明しなければいけないのだろう、と泣きそうになりながら、ウィニは言葉を吐き出した。
「縁起が悪い、とされているんです……冒険者は命を賭ける仕事なので、死者と縁が深いネクロマンサーとは、みんな組みたがらないんです……」
そういうこともあるのか、とディムロは頷いた。やはり知らないことが色々とある。常識が欠如しているのは仕方がないが、こうして知ることができて良かった。集落に居た頃には気付かなかったが、どうやら自分はわりと知識欲が強い人間らしい、と自分に対する理解も深まった。
「私は全く気にしないぞ。ほら、死霊術士と精霊術士じゃ、一句しか違わない。あ、ちなみに私は精霊術士だ」
机に指で『死霊術士』、『精霊術士』と書いて笑う。
「……古い、コトバだ」
呆然と呟いたウィニはディムロの顔を見て、そこに一切の嘘や邪気がないことを感じ取り、灰色の瞳を潤ませた。
「こんな私でよければ、お願い、します……」
「こちらこそ、よろしく頼む」
精霊術士と死霊術士。世にも奇妙なパーティが誕生し、やがて彼らは色々な意味で有名になっていくのだが――まだ誰も、その細やかな始まりには、気付いていなかった。