第4話「毛玉のような何か」
「――はぁ……っ…はぁ……っ…はぁ……っ!!」
日の傾く十ヶ崎市の住宅街。
顔面を蒼白させて必死に走る一人の少年がいた。その様は、何かから逃げているようにも取れる。
後ろで束ねた紺碧の髪が向かい風に激しく揺れる。
その姿は誰が見ても見紛うことない、輝その人だった。
輝は住宅街をしばらくダッシュで駆け抜けたあと、手近な路地裏へと駆け込んだ。
住宅の塀と塀に挟まれたその場所は、未だ午後三時過ぎではあるが、光がほとんど入らず薄暗い。
奥には、誰が捨てていったか数個のゴミ袋が、ゴミ置場に忘れ去られたように乱雑に置かれている。
輝は、手近なブロック塀に手を添えて息を整えると、
「はぁ……はぁ……これはヤバイ……!」
焦燥感に埋め尽くされ、やらかしたと片手で顔を覆った。
ドクン、ドクンと動悸が耳の中を駆け抜けていくのが分かる。
額から滴る汗は、全力で走ったことによる代償か、それとも精神的焦りからくる冷や汗か。
「……マイム、どうしたらいい……?!」
輝はすがるように、誰もいない空間に向かってその名前を呼んだ。
「落ち着いてくださいテル。まだ完全に知られたわけではないです……」
落ち着きのある、中性的で包み込むような優しい声が、輝以外に誰もいないはずの路地裏で聞こえていた。
「……透矢との距離感、もう少し気を付けた方が良いかもしれねえ」
輝が惜しそうに呟く。
路地裏の隙間から再び生暖かい風が吹いた。輝の藍色の髪が弄ばれて、額から体を丸めた龍のような模様の傷痕が、くっきりと露になった。
*
十字路で、突然輝に置き去りにされた形となった透矢。
やはり聞かないべきだった。と心の中で反省し、そのまま一人帰宅した。
玄関のドアは、鍵がかかっていた。知恵から預かっていた合鍵を取り出し、ガチャリと開ける。
「ただいま」
しかし家の中はシンとしていた。
知恵はまだ買い物から帰っていない。咲夜は今日が始業式だったので、午前で帰宅しているはずだが、どうやら出かけているらしい。
リビングのテーブルの上に合鍵を放ると、透矢は二階へ上がっていった。
自分の部屋へ入ると、ベッドの上にカバンを放り投げ、ブレザーを脱ぎ捨ててネクタイを緩める。知恵が見たら、みっともないと呆れること間違いない。
「ふぅ……――――?」
ベッドに腰を落ち着け、深いため息を吐くと、何気なく部屋を見回した――刹那、透矢は気付く。
机の上から訴えられる、とてつもなく強烈な違和感に。
「……なんだこれ」
透矢は机の上に存在している、怪しい何かに恐る恐る近寄った。
その何かをとても分かりやすく説明するとしたら、まず赤い、そして、なんか丸い、である。
サッカーボールほどの大きさの赤くて丸い何かが、透矢の机の上に置かれていたのだ。
しかも、
「……なんかフサフサして……るな」
赤い何かは、やけにフサフサと毛羽立ち、毛皮で覆われているようだった。
「……咲夜のやつ、勝手に俺の部屋入ってこんなもん置いていきやがって……」
咲夜の忘れ物、もしくは忘れていった何かだろう。
透矢は小さくため息を吐くと、その毛玉のような赤い何かに手を伸ばした―――
「―――!?」
――しかしあまりの衝撃に、思わずギネス記録並みの勢いで手を引っ込めた。
人間は、あまりに驚くと声すら出せなくなってしまうという通説を、透矢はこの時十五年間生きてきて初めて実証した。
透矢が手を伸ばした刹那、その毛玉のような何かは、毛を逆立たせる猫のようにブルリ、と震えあがったのだ。傘に振ってきた雨粒に驚いたときのト〇ロのように、まるで生きているかのような感触があった。
透矢は、手を引っ込めた姿勢のまま固まった。
「………なんだ……これッ」
透矢のSAN値が危うくファンブルするところであった。
しかし恐怖心と共に湧き上がってきたのは、なぜかその正体を探りたくなってしまうという好奇心だった。
もう一度、今度は両手でその毛玉に触れてみる。
そしてまた衝撃。犬でも愛でているような感覚の襲うその毛玉の表面は、膨らんだりしぼんだりしていた。手で触れると、その感覚が余計にはっきりする。
つまりこの毛玉―――
―――呼吸をしている。
つまり生き物か何かということだ。
ごくり。透矢は生唾を飲み込んだ。意を決すると、透矢はその毛玉を持ち上げてみた。
「―――――……うぢゃッ! ……うぢゃっはっはっは!」
「ぬぉわッ!?」―――ゴスッ。と後頭部に鈍い衝撃。
突然、甲高い笑い声が透矢の部屋に響く。
透矢は驚きのあまり飛び退き、そのままのけぞって盛大にずっこけた(ついでに後頭部がベッドの縁に思い切り叩きつけられた)。
「いッ……た……ッ」
後頭部を両手で押さえてしばらく悶える。
濡れた目元を拭うと、例の毛玉をもう一度確認するため、ふらりと立ち上がった。
「……え……?」
もう色々なことが一度に起こりすぎて、訳が分からなかった。
もう一度机の上を確認した時、そこにあった例の毛玉は、既に毛玉ではなかった。
「すぴー……くぅー………」
紅葉のように色づいた燃えるように赤い毛並み。小さな手足の先は薄いベージュ色をしている。
大きな三角形の耳をした、小さいドール人形くらいのサイズの狐のような生き物が、三本に分かれた尻尾に包まって幸せそうに寝息を立てていた。