第1話「はじまりの朝」
時はおよそ一時間ほど遡る。
十ヶ崎市北部にある閑静な住宅街。家々が数世帯ごとに碁盤の目のようにブロック塀や垣根で区画され、車通りはそれほど多くない、ごく一般的な住宅街の景色である。
その住宅街の一角に、最神家はあった。
「透矢ー? そろそろ起きなさーい」
階下から、母親の呼び声がする。
部屋に明かりは無く、カーテンの隙間から差す朝日だけが、ぼんやりと薄暗く部屋の輪郭を映し出している。
まるで母親の声を待っていたかというばかりにタイミングよく、枕元に置いたスマートフォンからアラームが鳴る。
覚醒しかけた胡乱な意識には、少々耳障りである。
「……ぅ……ん……」
透矢は重い瞼を薄くこじ開けると、不快そうに寝返りをうち、けたたましく鳴るアラームを止める。
そして時計を確認。午前六時二十分。
小さくあくびをし、鞭を打って動きたがらない体をベッドから引きはがす。カーテンを勢いよく開けると、突然流れ込んだ日光が目に痛い。
ぐい、と背伸びをすると少しは体にエンジンがかかる。そして部屋を出ると階下へと降りる。
最神透矢、十五歳。今日から晴れて高校生となる少年だ。
中学時代の成績は、上でもなく下でもなく、中より若干上といったところだ。特技や趣味もこれといって持っておらず、かつてはサッカー部に所属していたが、女子とも見間違える華奢な体躯の性か、三年間補欠止まりという微妙な成果。彼は、他人に自慢できる特徴を何一つ持っていない。
―――否、決定的な特徴は一つだけある。しかしそれが彼にとって自慢できるものであるかは別として、という条件付きではあるが。
彼の決定的な特徴。それは彼の父親、最神和也から受け継いだ天然の赤毛を持っていること。
しかし、今時珍しい赤毛は公的な空間ではどうも悪目立ちしてしまう。小学校時代は、所持するボキャブラリーの少ない無邪気な同級生から、「透矢の髪、赤い、ヘンだ!」と何の悪気もなくストレートに言われて傷つき、中学時代は不良生徒のレッテルを貼られ、肩身の狭い思いをしてきた。
当然、友達はほとんど出来た覚えはなく、こうして唯一持って生まれた自分の個性のおかげで、自分に自信の持てない内気で女々しい人格が確立してしまったのだから皮肉である。
「おはよう、母さん」
ダイニングへ向かうと、見慣れた背中に朝の挨拶。
「おはよう透矢」
火の掛けられたコンロの上のフライパンからは、ジュウジュウと脂が跳ね、香ばしい匂いが漂う。目玉焼きを焼いているらしい。
中を物色しようと、冷蔵庫を開けたタイミングで母、知恵が言う。
「悪いんだけど……咲夜のこと、起こしに行ってくれない? あの子、朝弱いからきっとまだ寝てるわ」
「えぇ……マジで?」
透矢が嫌そうに顔をしかめる。
「お願い」
しかし逆らい続けるわけにもいかないので、仕方なく冷蔵庫をパタン、と閉めて再び二階へ。
透矢の二つ下の妹、咲夜は、今年で中学二年生である。
しかし、そこそこの年齢になるとなかなか扱いが難しくなってくるのが女の子という生き物で。
思春期に入ったか、この頃おませな咲夜への接し方が分からないのが透也の悩みのタネである。年の近い兄である(むしろ兄であるためか)透矢にすら、話口調がとげとげしい。
二階の廊下を挟み、透矢の部屋の向かい側が咲夜の部屋だ。
ドアの前に立つだけで、どうも憂鬱な気分になる。
透矢は恐る恐る部屋のドアをノックする。コンコン、と乾いた木の音がした。
「さ、咲夜ッ……?」
妹相手にもかかわらず、なぜか声が上ずった。
あたりがしばらく沈黙する。すると、部屋の中からもぞもぞと布のようなものが擦れる音が聞こえてきた。
「……起きてる、何?」
嘘つけ今起きたろ、とは怖いのでとても言葉に出来ず、心の中でツッコミを入れる。
普通に喋る分にはそこそこ可愛げのある声も、このようにトゲが生えてしまえば不思議と威圧感が増してしまうので非常にもったいない。
「……ああ、起きてるならいいんだよ。か、母さんが呼んで来いってさ。早く降りて来いよ?」
「分かったから、よう無いんなら早く行って」
「……はい」
思わず敬語がこぼれた。
妹の前ではいつもこれである。朝の苦手な咲夜は、この時間帯特に機嫌が悪い。透矢は、逃げるようにして階段を下りていった。
「どう、咲夜起きてた?」
戻ると、朝食の準備はすでに整っていた。手を洗いながら知恵が問う。その顔には、やや苦笑が浮かんでいた。
「たった今起きたね。そのうち下りてくるよ」
言いながら、冷蔵庫から牛乳を取り出す。コップに注ぐと、一気に飲み干した。
「そう。……朝ごはん出来てるから食べちゃいなさい。今日が初登校の日なんだから、遅刻するわけにもいかないでしょう」
「分かってるよ」
そう言って、透矢はマイペースに朝食を食べ始めた。
かくして、最神家の朝は始まる――しかしそこに父、和也の姿は無いのだった。
朝食を終えると、登校のため支度をする。
寝ぐせが目立っていた赤毛はしゃんと整い、部屋着姿だった服装は、今はしっかりと校章のエンブレムが胸元に施された新品のブレザーになっていた。
しかし玄関の隅にある姿見で、透矢は赤い髪をやけに指先でこねくり回している。
「どうした?」
横から声を掛けたのは知恵だ。
「……髪の毛、また変な目で見られないかなって」
「なーに言ってんの。大丈夫よ! 良く似合ってるぞー、うちの人そっくり!」
「中学の入学式の日も同じこと言ってた気がする」
うちの人、というのは和也のことで間違いないのだが、透矢としては、どんな振る舞い方をしていれば赤毛でも堂々と生きていくことが出来るのか、全く理解できない。
父が生きていたら聞いてみたいほどである。しかし、その願いも到底叶わないのだ。
もしかすると、父も同じ悩みを抱えて生きていたのかもしれない。そう考えると、少しは気が楽になるように思えるのだった。
「ほら、行く前に報告」
知恵が軽く背中を叩く。
「分かってる」
母に従い、リビングへ戻る。リビングの奥は敷居で区切られ、そこから先が六畳一間の和室になっている。
最奥には、仏壇があった。遺影に納められた父は、生前の凛々しい微笑みで、リビング全体を見渡しているように見える。
透矢はその前に正座し、表情の変わらない父の顔を見据えると、鈴を鳴らして手を合わせた。風鈴のように甲高い音が、朝の最神家に柔らかく響いた。
透矢がこの時、父に何を語ったか。それは彼にしか分からない。
「じゃあ、行ってくる」
「はい、行ってらっしゃい。お母さん、後から入学式行くから」
「分かった」
「ほら咲夜、早く朝ごはん食べなさい!」のろのろと準備の遅い咲夜が知恵に叱られるのを出がけで耳にしながら、透矢は家を出た。
空に浮かぶすじ雲が、東の空へ流れていく。今日は良い天気になりそうだ。
近所の公園に生えた桜の木は蕾がすっかり膨らんでいた。所々開花している辺りから、春の訪れを感じさせる。
滑り台で遊ぶ小さな子どもを見かけたとき、どこからか叫び声が聞こえたような気がして、透矢は思わず肩をびくりと震わせた。辺りを見回したが、景色はいつもと何ら変わりない。
気のせいか。ほっと一息つくと、透矢はまた歩き出した。