第15話「そこには溝も壁もなく」
『速報です。昨夜未明、十ヶ崎市北区近郊の化学コンビナートの跡地で、男性の遺体が発見されました。遺体は、市内に住む男子大学生、蜂間裕一郎さんと見られています。また、警察は連続殺人事件との関連も視野に――』
透矢の高校入学から三日が経った早朝、テレビのニュース番組から速報で流れた報道内容がこれである。
朝食を食べる手をぴたりと止めて、透矢はそのニュースに視線を向けていた。
「あら、なあにこの事件。市内で起きてるのね……物騒だこと……」
知恵も手鏡片手に頬にファンデーションを塗りながら耳を傾けていた。
仕事が忙しいことも影響してか、知恵は世間の政治やらエンタメやらの情報にはやや疎い。それはまた、当人がそれに興味をあまり示さないことも関係している。
「透矢も気を付けなさい。帰り道とか」
「分かってるよ。つか俺、小学生じゃねえんだからさ」
そう促す知恵の言葉を、透矢は軽く受け流す。
未成年とはいえ、もう透矢も世間からみれば男子高校生なのである。たいそうなことが無い限り、犯罪とやらに巻き込まれるというケースは限りなく低いだろうという寸法である。
とはいえ、透矢が中学生の頃から市内で起きている連続殺人事件も未だ解決に至っていない。現在の十ヶ崎市が安全と言い切ることは出来ない現状にある今、ひとまず心には留めておこう、内心そう思っておく透矢なのであった。
「じゃあ、お母さん行ってくるね」
気付けば化粧も終え、すっかり外出モードに切り替わった知恵。
「行ってらっしゃい」
「ほら透矢、手止まってるぞ」
テレビに釘付けになり、茶碗を片手に持ったまま固まっていた透矢。知恵に指摘されて、ああ、とようやくそれに気づく。
いってきまーす。という玄関からの声が聞こえ、知恵が家を出ていく。
しばしの沈黙。辺りに誰もいないことを確認する。咲夜は二階で未だに寝ているので、後で起こしに行くことにするとして。
「もう、大丈夫かな」
透矢が一人呟く。
「そうだな! いやー、お前の母ちゃんいる間は黙ってねーといけねーからなー。全くしんどいぜ」
テーブルの上でぬいぐるみのように足を広げて座っているヒートが、待ってましたとばかりに喋りだす。
エンジンは朝からフル回転。眠い時以外は、基本的にいつもそんなテンションのヒート。朝に弱い咲夜とは全く正反対なので、少し見習わせたいところである。
「……まあ、家にいる間は何とかなるかな。問題は――」
そういうと、透矢はブレザーの右腕の袖を捲し上げた。
昨日の夜中でなんとか止血に成功したそれ。
精霊術師としての契約の代償として、狐の姿を模した傷跡が、右腕に一生刻まれることとなったのである。
「――これだな……」
精霊術師であることを他の人間に察されてしまうことを避けることになる以上、この明らかにケガでつけたとは説明のつけにくい不自然な傷痕は何とか隠さなければならない。
「隠すにしても、右腕なのがちょっとネックだよな……」
「なんでだ?」きょとんと小首を傾げてヒート。
「だってそりゃ当然だろ? 俺は右利きだし」
「――あ」
―――そう。
体の部位で一番よく使い、また一番目に入りやすい右腕は、傷痕を隠し通すには少々難があるのである。
ブレザーをはじめ、袖の長い服を着る分には、腕を捲ることを控えることを条件に入れればまだうまく隠しやすい。
しかし、夏場や半袖で過ごすことをやむを得なくなる状況ではどうだろうか。
隠し通すには、少々細工が必要になる。
「それに、俺たぶんバスケ部はいるし、半袖で過ごす時間が多くなるからな。それと、この傷痕みられるの結構……――はずい」
「うぉい、それは聞き捨てならねえぞ。もーちっと誇れよ、偉大なるオレの傷痕が右腕に一生ついて回るんだぜ? もっと光栄に思えよ」
「あー悪かったよ、偉大なるヒート様の傷痕なんだもんなー」
そっけない棒読みで流し、早くもヒートの扱いに慣れてきた透矢。
彼のようなタイプは、適度に放っておくくらいが、最も良い距離感を保ちやすい。単純なヒートには最も効果的である。
「フへッ」
大きく鼻息を鳴らし、ヒートは満足げににんまりと口角を上げて胸を張る。
やはり単純である。言い方を変えるなら『ただの馬鹿』である。
その時、ヒートが何か思いついたかのようにポン、と手を打った。ヒートの頭の上で、電球がぴかりと光を放つ。
「そうだ! トウヤ、俺にいい考えがあるぜ」
「どうしたんだ?」
すると、ヒートはふわりと宙に浮かび上がり、そのまま二階へと飛んでいく。
まさか咲夜の部屋に、と透矢は一瞬焦ったが、そんな無謀なことはさすがに彼でもしないだろうとヒートの帰りを待つことを選ぶ。
一分弱の時間を有し、ヒートが二階から透矢の元に戻ってくる。
その小さな手元には、何かが握られていた。
「それは……バンダナ?」
「ああ、そうだぜ。まあ取りあえず腕見してくれって」
「……え、何する気だ」
何となく嫌な予感がして、訝しげな表情を浮かべながら右腕を差し出す。
「いいから、見てろって千葉ロッテだ」
「なにそれ。さむ……」
ヒートの寒い親父ギャグに凍り付く透矢。
そんな彼を全く気に留めることなく、ヒートはバンダナを細長く折りたたむと、透矢の右腕の傷痕を覆うようにそれを当て―――
「これでどうだ」
「うん。ほぼ十割想像通りだった」
出来上がったのは、傷跡を綺麗に覆い隠すように、バンダナが包帯のように巻きあまりつけられている、というあまりにありふれた作品である。
それもバンダナが白いあまり、それはどこか痛々しいオーラを漂わせていて――
「おい、これじゃ俺が拗らせたみたいじゃねーか」
「いやそれ以前に、お前はすでに精霊術師だろ」
「そういう問題かよ!? でも周りの人はそんなこと知らないだろ!」
「じゃあサロンパスでもはるか!? 肌色で少しは目立たなくなるぜ!?」
「じゃもういいよ! こんなのつけなくても隠し通せばいいんだろ」
透矢が勢いよくバンダナを外して放る。
朝から口論を始めたこのコンビ。
ふと、透矢は思い出したように時計を確認する。
時刻はもうすぐ八時になろうとしていた。
「やべっ! こんなことしてる場合じゃ―――」
味噌汁を流し込んで、どたばたと支度を整えると、慌ただしくも仏壇の前ではしっかりと手を合わせ、乱暴に玄関のドアを開ける。
「―――おい、トウヤ置いて行かないでくれよ!」
「え、お前も来んの!?」
後ろから追いかけてくるヒートに対し、振り返って逡巡する透矢。しかし今はそれどころではないので、構わずに走った。
ヒートは、その後ろ姿を追いかけていった。
――階下で兄が慌てふためいていたにも関わらず、布団の中でまどろんでいた妹、咲夜が、その後アラームのスヌーズ機能でなんとか目を覚まし、案の定大遅刻をする羽目になってしまうことになるのは、朝に弱い体質のせいか、はたまた起こすのを忘れていた兄のせいか。
――いずれにせよ、それはまた別の話であるのでここでは割愛とする。
*
いつもと変わらぬ十ヶ崎市、朝の住宅街。
その中を歩いているのは赤毛の少年――透矢。
そしてその隣を、浮遊しながら着いて行く小さな赤い精霊――ヒート。
しかしその精霊の姿を確認できるのは透矢、もしくは他の精霊術師のみであり、はたからは透矢がひとり住宅街の一角を歩いているだけの光景である。
さて、しばらく行くと見つけた。
視線の先に小さく、同じ高校のブレザーを着た男子高校生の姿が見える。
髪は紺碧の夜空のごとき紺色。それが後頭部の辺りで結わえられていた。
透矢はその後ろ姿を追って、足の運びを速める。
「よう、輝」
半歩後ろに追いついて、後ろから声を掛けた。
輝はその声に気が付き、結った髪を揺らして首だけ振り返る。
「おう、透矢」
と返したのとほぼ同時に輝は気が付く。
透矢のすぐそばにいる、ひーととかいう昨日会った精霊の姿に。
「透矢お前、もしかして――」
察して、隠し切れない嬉しさに口角が上がる輝。
透矢はそれにニカっと笑って返し、
「ああ、ヒートと契約した。俺も精霊術師になった」
「俺が精霊術師って知ってたのか」
「ん、いや、こいつから聞いた」そう言って、ヒートを親指で指し示す。
「それにほら」
透矢はブレザーの袖を捲って、露になった傷痕を輝に見せびらかす。
「ちょ、馬鹿。どこで誰が見てるか分かんねえんだぞ!」
輝が慌てて、両手でその傷痕を覆い隠す。そして、挙動不審になったかのようにキョロキョロと辺りを見回す。
「あ、ああ、そうか」
軽率だったと少し反省し、捲った袖を元に戻す。
すると。
「――全く、テルは本当に神経質ですね……見ていてこちらが疲れてしまいます」
そんな言葉と共に輝の陰から現れたのは、輝のパートナーとして付き従う精霊。属性【流水】のマイム。
竜を思わせる爬虫類らしき体躯に、艶めかしい薄い空色の肌を持った美しい陽精霊である。
「あ、お前が輝のパートナーの精霊なんだな……?」
「ええ、陽精霊マイムと申します。以後お見知りおきを」
そういうと、マイムは長い首を深々と下げた。
「全く、マイムは固ッ苦しいんだもんなー。もっと力抜いて行こうぜー?」
呆れた様子で、腕を組むヒート。
「お前はもうちょっと引き締めた方が良いと思うぞ」
「うちゃ!?」
そんなボケてツッコんでのコンビのやり取りが可笑しくて、笑いを上げる輝とマイムのコンビ。
「ねえ、だから言ったでしょう?」
マイムは、前ヒレで口元を押さえながら、輝の耳元にそう囁く。
「ああ、そうだな。お前の言った通りかも」
これには輝も文句なしで肯定の選択である。
そして輝は一呼吸入れて体の空気を入れ替えると、パン、と手を打った。
「よし、それじゃあ改めて挨拶しないとだな!」
「「挨拶?」」と、声が重なる透矢とヒート。
「まあな、昼休みになったら体育館の裏に行こうぜ。精霊術師になったからには、合わせなきゃいけない人がいるしな」
「それって、翔平先輩か?」
「なんだ、それもヒートから聞いたのか。まあな。翔平先輩もだけど、もう一人――お前に会わせておきたい精霊術師がいるんだよ」
そんな風に彼らの会話に一旦終止符が打たれようとする頃には、校門が視線の先に見え始めていた。