第9話「心のかくれんぼ」
*
――朝が来た。
枕元に置かれたスマートフォンがけたたましく鳴り響く。
「……ん」
スマートフォンの画面を横にスワイプさせて、アラームを止めた。
時計の示す時刻は午前六時二十分。その時刻を確認すると、透矢はベッドから重い身体を引きはがした。
カーテンを開けて、体にエンジンを掛けると、階下へと降りていく。
高校生になって二日目の朝が始まった。
(今日は輝のアドレスちゃんと聞いておこう……)
そんなことを考えながら、リビングに入る。
キッチンでは、いつもの如く知恵が朝食の支度をしているところだった。
知恵は、ちょうどリビングに入ってきた透矢に気が付くと、
「ああ、透矢。おはよう」
「うん。おはよう母さん」
お互いにいつも通りの朝の挨拶を交わした。
「ちょうど朝ごはん出来たところだから、準備できたら食べちゃってね」
「はいはい」
そういうと知恵は、慌ただしく仕事の支度を始めた。
市内の中学校数か所で家庭科の非常勤講師を兼ねている彼女は、土日を除いて平日はほとんど家にいない。毎日どこかしらの学校で家庭科の授業が入っているのである。
週末以外で知恵と会話が交わせるのは、長期休みや、行事の日を除いて、こうした朝だけに限られる。
透矢は、見慣れた朝の母親の様子を尻目に、自分の支度を始めた。しかし数分もすれば、もう制服姿である。
その時、ちょうど支度を終えた知恵がリビングから顔だけ覗かせると、
「咲夜起きてきたら食べるよう言っといて。じゃあ母さん行ってくるから」
「うん、行ってらっしゃい」
「――あ、そうだ。咲夜に鍵かけていくように言っといてね」
「はいはい、分かったよ」
言い残して知恵が家を出て数分と待たず、咲夜がリビングに降りてきた。
「お……咲夜。起きたのか」
「……うん」
いつもの如く、不機嫌である。今にも刺されそうなテンションだ。
しかもはしたなく首元がよれよれに広がった部屋着が、オフショルダーにもよく似て、妹ながらなんとも危うい姿である。
そんな姿とは対に、手元に重ねているのは丁寧にたたまれた制服とブラウス、スカート、そして―――
しかし、二歳しか変わらない兄妹間ではすでに見慣れた物。幼いころは風呂に入るのも一緒だった透矢は動じない。
「……お前も早く準備しろよ。遅れるぞ……」
「……うるさい。ウチの勝手」
「……はいはい」
透矢を盛大に論破しつつ、シャワーを浴びに風呂場へと向かった妹、咲夜。
そのあとすぐ、透矢も朝食を食べ終えた。ということで歯を磨きに行きたいが、妹はまだシャワーを浴びている。
「咲夜ー。兄ちゃん歯ー磨きたいんだけどー」
お湯の流れる音がうっすらと聞こえてくる厳重に閉じられた引き戸越しに、透矢は声を掛ける。
聞こえたのか、すぐに妹の声が返ってきた。
「――今なら別に入っていーよ」
「オーケイ」
シャワーを浴びていくらか目が覚めたのか、割と口調の機嫌がよくなっている。
と、いうことで安心して洗面台を使うことが出来る。
咲夜はまだ風呂場の中でシャワーを浴びているようだった。
顔を洗って歯を磨き終えると、肩をちょいとつつかれた。ブレザーの肩にお湯が滲んで薄いシミを作った。
「ごめん、タオル取って」
「――はい」
風呂の引き戸の隙間から伸ばされている、細い腕の手元にバスタオルを手渡す。
これはそろそろ出るべきか。そう判断した透矢は早めに風呂場を後にすることに。
「んじゃ俺、先に行くぞ」
「はいはい。行ってら」
風呂場の引き戸からモザイクのように映し出される咲夜の声を確認すると、洗面所を後にして部屋にあるカバンを取りに二階へ戻る。カバンを持ってくれば、準備は完了だ。
「―――っと、忘れてた」
思い出すと、慌てて仏壇へと向かう。
鈴を鳴らして、遺影の中の和也に手を合わせる。――今日もどうか見守っていてください。
父親が、精霊術師であるかどうかは、あえて考えないようにした。母の言葉にも寄り添いたいが、父が精霊術師だという可能性がぬぐえなかったからである。
「……よし」
すべての支度を終えると、透矢は家を出て高校へ向かった。
昨晩の精霊との一件など、すでに忘れかけていた。
*
高校に向かう道すがら、透矢は住宅街を歩いていると、見覚えのある背中を発見した。
同じ高校の制服姿に、後ろで束ねた紺碧の髪。彼以外ありえない。
「輝!」
透矢は、後ろからその背中に叫んだ。
不意に後ろから声が飛んできて驚いたのか、その背中がびくん、と大きく震えたのが遠めからでも良く分かった。
透矢は、ダッシュでその背中に駆け寄った。
「――お、おう、透矢か。びっくりするなー」
透矢が隣に立つと、輝は安堵した様子で苦笑いした。
「悪い悪い。まあ、その髪だから輝しかいないだろうな、って思ってな」
「……だよな、こんな髪だもんな」
輝は昨日のように垂れた目を更に垂れ下がらせて笑った。
すると、透矢は思い出したように、
「……そうだ、輝。昨日はごめん。いきなり頭の傷の事聞いたりして……」
「……」
やめろ、掘り返すな。もうその話はしないでくれ。
輝は胸の内でそう叫んでいた。これ以上、透矢との関係に溝を掘るようなことは絶対にしたくない。してはいけない。だからこそ、精霊術師であることは隠し通さなくてはいけない。
しかし、しかしなぜ。
――お前はそうやって無意識に溝をえぐりに来る。
まるでここぞとばかりに傷口に塩を塗られているような気分だった。
「もう、良いって。気にすんな。昨日の事は気にしてないから」
「……そっか」
しかし輝の警戒とは裏腹に、透矢はそれ以上額の傷について言及してくることは無く、精霊や精霊術師をにおわせる発言なども一切してくるようなことはなかった。
透矢も、昨晩の精霊ヒートとの一件については、あえて言わないことにしていた。傍からすれば、あまりにも突飛でバカげた話だ。信じてもらえるわけない。そう思っていたから。
――そんな互いに互いを隠しあう彼らの姿を、後ろからひっそりと見つめる影がいたとも知らずに。
「……うちゃー、これは結構めんどくせーことになってるな……――へっきし!!」
*
――夕方。
日は西へと傾き、校舎の窓から移る景色はすべてが黄金色に染まって見える。
そして、今日はいよいよ部活見学が始まるのである。
「ねえ、テニス部行かないー?」「うーん、私は吹奏楽部行ってみてからにしようかな」
「おい、サッカー行こうぜ!」
夕方のホームルームを終えた一年B組。
それぞれが、思い思いの部活へ足を運ぼうと胸を高鳴らせて校内をうろついている。新しい場所へ足を運ぶワクワクとした感情。気になっていた本の一ページ目を初めてめくるような、そんな感覚。
透矢はと言えば、特に行く当てはないので、もちろん昨日の約束通りである。
「おーい、輝」
「……ん、お、おう! 透矢」
しかし、透矢は輝の異変に少しづつ勘づき始めていた。
昨日の楽天的な雰囲気はどこへ置いてきてしまったのか、どこか上の空で、そして透矢に対して妙によそよそしい感じがしている。
「……なあ、お前、今日どこか調子悪い?」
透矢は、心配になって問うてみることにした。
「ん、いや? 大丈夫だって。ほら、バスケ部見学行こうぜ!」
「あ、ああ……」
本人が、大丈夫であると言うのだ。恐らく本当に大丈夫なのだろう。
しかし、やはり昨日よりも不自然な気がしてならない。透矢はどこか腑に落ちない何かが心の中で渦巻いていた。
二人、西日で染まる長い廊下を歩いて行く。目的地は体育館だ。