魔王はメイドの心を誘惑する
「さよならだ、ナーガ」
頭上には丸く満ちた紅い月が二人を睨んでいる。
霧の隙間から月の光が体を照らすと床に彼女が首から下げていた、ペンダントがこぼれ落ちる。
「……縁様。ナーガは魔王様のメイド。お姿が元の世界に戻られても、私は一生、貴方様のメイドです。ナーガは忘れません……。例え新しい魔王様が現れようとも……」
ナーガは床に落ちたペンダントを両手で拾い、大切そうに握りしめると、それを地下の宝箱に入れ鍵をかけてしまった。
「ナーガが大切にお守りしますわ」
これは、彼女と300年前に姿を消した魔王の話である。
***
300年前ーー……。とある、暑い夏の日。魔獣が住む塔は魔王が不在だった。魔王がいないのなら、この塔にいる魔獣で一番力が強い奴が指揮を取るのが当たり前なのだが、だれもが争いを嫌い、その役割はナーガに押し付けられた。
「はいはい、皆さん!
お部屋から洗濯物を持ってきて下さい!」
ナーガが手を叩くと、眠い目をした魔獣たちが部屋から毛布やら洗濯物やらを抱えて部屋から出てくる。
彼女は黒いワンピースの上から洗い立ての白いエプロンを被る。後ろでエプロンのリボンを結ぶと頭にはカチューシャをつける。
可愛らしいふさふさの耳が二本、カチューシャの下からぴょこんと跳ねた。耳の横の二つの角から首の下までカチューシャが取れないように、軽く蝶々結びをする。ナーガは羊のメイドだ。
魔獣たちの中でも手が器用な者が、樽に水をいれて石鹸をつけて、汚れ物を両手でごしごしと洗う。
洗った洗濯物は力の強い者が絞り、塔の窓から木に紐をくくりつけ干したり、丈夫な木と紐を使って物干しを作って干した。
「いい感じよ」
空高く洗濯物が鯉のように尾びれをばたつかせ、ゆったりゆったりと空を泳いでいる。
ナーガは一段落したらお茶にしようと思い、塔の門からドアを開け中に入ろうとした。
「……!」
しかし、そこには、見知らぬ男性が門の前で血だらけで立っていた。
絹のように細く、肩まである綺麗に伸ばされた黒い髪の毛。鷹の目のように鋭い眼光がこちらじっと見つめている。
彼はその場に倒れ、地面には腕から大量の血が溢れていた。
黒いパンツに黒のベスト、中には黒いワイシャツを着ている。
首元は開いていて隙間から痩せ細った鎖骨が見える……。
彼は、まさか……。
「この人が新しい魔王様だというの……?」
ナーガは血を出して倒れている彼を放置してはおけず、仲間たちに助けを求めると、彼を空いてるベッドへと運んだ。
深く裂けた腕を止血する。強く包帯を巻くと包帯に血がじわじわと滲んでくる。
「どうしょう……血が止まらないわ……」
彼の唇からは血の気が引き、顔色は真っ青だった。
ナーガは彼のもう片方の手を握り、ひたすら祈った。
「お願い……」
彼はうっすらと目を開ける。
「……大丈夫」
彼はナーガの頬を撫でる。
そのうちに腕の血は止まっていた。
「よかった……!」
ナーガが呟くと彼は瞳を閉じ、また、深く眠った。
それは長い長い疲れを取るように……深く。……深く。
部屋には、魔王の噂を聞いた魔獣たちが様子を見に入ってくる。
「みんな聞いて、魔王様が現れたわ。
のちにすぐ敵が現れる。
そう、魔王様の血を狙いにねーー……」