表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

夏の風物詩を退治しに行った話。

作者: ハチワレ

世界は広いものである。

しかし、地球の直径はせいぜい四万一千キロメートル程度であり、人間の一生で何度も地球を一周できる程度には歩いている距離でしかない。知人の原付は総走行距離で言えば20万キロメートルを突破しており、高校時代から大事に乗り続けられた結果、異様なほどの長寿を記録している。

私は車も、それを操縦するしか気も持ち合わせてはいないので、普通の自動四輪免許を所持していると原付免許がおまけで付いてくるという話を鵜呑みにしているし、実際そうであるらしい。

しかし、私は多分に一生車を操縦することはないだろう。運転という言葉を使わない理由は、そんな一言で片付けられるような所業には思えないからに他ならない。両手の幅よりも広く奥行きもある四角い機械をハンドル一つで自在に操るというのは得てして理解不能である。自転車ですらどうして乗れているのかろくに理解していないような節があるというのに、サイドミラーを見ている間にフロント部分に何か潜り込んでいたらどうするのかなどの不安を創造するだけで車の運転は私には不向きだと思った。ただでさえ道を歩いていて対面からスマホを凝視しながら猛然と向かってくる相手を避けることさえギリギリという私に、意識感覚を延長するように金属でできた機械を操縦するという所業はまさに神の領域である。

かくして、私は幅の狭い歩道では自転車を押して歩き、人混みでは常に誰かの後ろをついて回るコバンザメ的生活を送っているわけで、先ほども見知らぬ80代ほどのおばさまに、振り返るや否や

「じろじろ見てんじゃねえよ、気色悪い」

と吐き捨てられたばかりである。辛い。辛過ぎてちょっと泣けた。

人間、やめよっかな……。

ただ買い物に出ただけなのになぜそこまで言われなければならないのか。

私のTシャツのTO ENJOY LIFEの文字がさらに悲しみに拍車をかけているように思うが、自分で選んだので誰に奴当たるわけにもいかないところが虚しい。

FBIと書かれたキャップを後ろ前に被り、くるぶし丈のパンツに足元はサンダルなのだが、それでも十分に暑い。

涼む目的もかねて入った百円ショップで聞いたことのないメーカーの如何にもカップヌードルを手本にして作成いたしましたので味は保証します感丸出しのカップ麺二つとうまい棒を輪切りにしたようなコンセプトのスピンオフ的なスナック菓子を袋詰めしていただき、金額に消費税をプラスした代金を支払い、店員から改めて品物を受け取って店を出た時、ふと端末が震えだしたので私は店の中に戻った。

外は暑かったし、先述の対向者とのすれ違い下手な私は歩きながら電話をする自信が無かったのである。このご時世にラインの無料通話ではなく正式に電話がかかって来ることに驚き、郷里の両親の危篤を知らせる者かと焦ったが、見知らぬ番号だったため違う戸惑いを覚えた。

「あ、もしもし」

相手が女性であることは声のキーとトーンで分かった。ただ、不躾である。

「どちらさまでしょうか?」

「あの、柴野学の妹ですけど?」

ですけど?と言われてしまった。まるでこちらから電話を掛けたかのように相手は不機嫌な声であった。先程の叔母様のトンボの様なサングラス越しの鋭い眼差しが蘇り、微かな吐き気がした。

「そうですか。柴野学の妹がなぜ私の電話番号を知っているんでしょうか?」

「1時間で2000円あげるから、ちょっと来てください」

最後の最後で電話の相手が年上の他人であることを思い出したのか、ヘアピンカーブ並みに敬語を使われたので私はどうしたものか困惑するばかりである。

柴崎は先述した様に原付で地球五周を成し遂げた(つわもの)である。27歳であり、ビジネスマンとしてあしながスーツでビシッと決め込み、先決で染め上げた様なビッグスクーターでビジネス街を弾丸のごとく疾走するという奇抜な通勤スタイルを実践している猛者である。

彼を採用したIT企業の面接に私もどうこうしようかと思ったこともあったが、就職活動で250社の採用試験を受験し、全てにお祈りメールをいただくという偉業を成し遂げた私にはもう社会に居場所など無いような気さえしており、どうせ似たようなものだろうと思っていた。

「面接の時ヘルメット持ったままでさ?そしたら面接官の人事部長がバイク乗る人でめちゃくちゃ盛り上がっちゃって!で、気がついたら採用だったね」

なんだそりゃあと言ってやった。当然ながら筆記試験、集団面接、ディベートなどの関門を突破した先にある個人面接での話である。ディベートと言っているが、実際にはもっと堅苦しい名前だった筈である。就職希望者を集めて一つの議題について賛成と反対に別れ討論する、もしくは各自の意見をグループとしてまとめるといった実践的なあれである。私も参加したが、面接官へのアピールのためだけに積極的に司会者役を買って出ようとして失敗すると痛々しいし、かと言って私のようなうなずきロボットを採用するわけもない。結局確かに役に立ちそうだなと思われる若者たちがその会社への乗車券を手にしていたように思う。実際今はあっていないので知らないのだが。

脱線したので話題を戻すことを閑話休題という。

柴野学の妹を名乗る女性は不機嫌と焦燥の混じった声で言う。

「取り敢えず来てくれませんか?兄に電話したら今仕事だから暇なやつに頼めって言われて」

なるほど、これは別れた彼氏に復縁を持ち掛けられ、ストーカー紛いの事態に陥っているため、今日1日だけ彼氏を装ってくれないかという相談だなと確信するだけの十分な要素を会話の中から読み取った私は返事を返そうと息を吸い込んだ。

「ゴキブリ退治して欲しいんですけど」

私は盛大な溜息を吐き出して、頭の中から様々なデートプランのフォルダーをゴミ箱へ移動させた。

「断る」

「えーっ、中尾さん暇なんでしょ?無職のポンコツって言ってたじゃないですかぁ」

そんなことは一言も言っていないし、なにより柴野の妹に会った事など数回しかない。彼の家に行った時に偶々鉢合わせ、それこそ「じろじろ見てんじゃねえよ、気色悪い」と目で言われたくらいだ。そんな奴に助けを求めるのだから、想像以上の事態なのだろうと思ったのだがこの有様である。

「無職のポンコツであるからといって金に困っているという認識は少し短絡的過ぎると思うがね?」

「あのー、2000円で来てくれるんですか?くれないんですか?」

私は熟考すること2秒で返答した。

「家の場所はどこかね」


ゴキブリとは御器を被るという言葉から来ているらしい。我らが無脊椎動物のご先祖さまが陸に上がり肺呼吸を始める前から地球上をわがもの顔で闊歩していた昆虫につけるにはあまりに庶民的でいかに昔から台所のお供的存在であったのかが窺えるが、柴野からの受け売りの無駄知識であるため信用度は極めて低いので、酒の席で勢い余って自慢話として繰り出さないように気を付けている。

最寄り駅から徒歩5分。

学生用アパートというには些か凝り過ぎた外観と、必要なのかよく分からないエントランスにはステンレス製と思われる筐体の郵便ポストが八区切りされており、このアパートが8部屋で、102号室の住人の個人情報が大々的に流出していることを窺わせる大量の宅配ピザや宅配寿司のチラシが斬新な生け花のようになっていた。

「早く来てください。そして早く帰ってください」

最早何をしに来たのかよく分からないが、ゴキブリ退治以外はするなと言いたいらしいことは分かる。承知の上である。しかし、である。

「業者に頼むとか、男友達でも誘えばよかったんじゃないか?それこそ夏休み真っただ中だというのに」

「その喋り方どうにかなりませんか?」

敬語をどうにか保ってはいるが、本当に気味悪がっているのが表情で分かる。

「今更フランクに話せと言われてもねぇ。黒い侵入者を退治したら帰るからそれまで我慢してくれ」

「わかりました」

柴野の妹は苦虫を嚙み潰したよう奥歯をギリギリさせながらそういうと自分の部屋へと先導する。ドアを開けると私は仰天した。あまりにも整っていたためである。

なるほどねぇ、と言う表情でもしていたのだろう。キッと睨まれたので言わぬが花と思い私は失礼しますと言ってから部屋の中へ入った。

「で、その闖入者はどこに?」

「キッチンの所」

細長い廊下の突き当りが居住スペースであり、右側はバス、トイレである。ベランダへ一続きになっている窓に背を向ける形になるようにキッチンが設置されている。大学生には贅沢すぎると言っても過言ではない部屋だった。結婚できない男が住んでいそうな部屋だった。ならば私が住むべき広さではないか?内心でブツブツと呟きながら私は適当に周囲を確認する。目に見える範囲には黒い影は見当たらない。まあ、3センチ以上のすき間があれば黒い御仁は入居を諦めると聞く。結局のところ住みよい環境を与えているのは人の方なのだと思いつつ、私は干されているまな板などを勝手に退ける。

「触っても大丈夫です」

「いや、触ってはいけないと言われるとは思っていなかったけれど……」

「誰かがいたっていう痕跡を残してほしくないんですよ」

犯罪でもするのか?と思ったが、差し詰めこの後意中の異性でも来るのだろう。その時に害虫が壁で忍者ごっこでもされていては台無しである。と言って見知らぬ男がTO ENJOY LIFEと書いたTシャツを着ていたりしたら、ゴキブリどころの話では無いとも思うのだが……。

「その心配だけは絶対ないです」

まるで汚物を見る様な視線だった。私は世間からどんな扱いを受けているのだろう?

「新聞紙は……雑誌か何かはあるかい?」

私は何となく手でスイングする仕草をして見せると、眉間に寄った皺が深くなった。

「壁汚したくないんですけど」

「とは言われても、生きたまま捕獲というのは難易度が」

そんなこと言ってねーよ、と言う代わりに舌打ちをされた。このまま回れ右をして2000円を手に帰ってやろうかとも思ったが、流石にそこまで私もクズではないのでグッとこらえた。

ものを退かさずにというのは難しい。はい、これ。と差し出されたのはゴキブリ退治に最も効果のあるスプレーだった。その証拠に商品名にプロを冠している。スプレーを冷蔵庫と床、壁のすき間などに噴射する。少し待ったが何ら変化は見られない。シンクの下の物入れを開けて、中に大量のカップ麺、緑のどん兵衛と赤いキツネを発見したがそれは見ないことにして粛々とそれを退かしたがやはり黒い御仁には会えなかった。

「そんなところにいないから」

「なら居場所を教えていただきたい」

「そこらへんだって」

そう言って指さした先には、ゴミ箱があった。足で踏んで開くタイプの、一つでありながら左右で別々にふたを開けることの出来る分別タイプだった。ゴミ箱の中まで見ることはないだろう?ん?違うけ?おい、と言わんばかりに視線が背中に視線が突き刺さり続けているので私はゴミ箱を開ける事無くそれを少し退かした。そこに御仁はいた。しかし、それ以上に私の背筋にサブいぼを量産したのはその壁と床だった。真っ黒くカビが生えている。床と壁のすき間を黒く浸食し、フローリングの溝から湧き出したように、そして壁に張り付き広がるようにして黒カビはその侵略地を広げている。ふと振り返ると部屋の主は居なくなっていた。ホラーではなく、ただ単にビュンッ!とドアを抜けて外へ出ていったのだった。

いなくなったのでは勝手に帰れないではないか?

私は居間のテーブルに放置されていたノートから付箋を引っ張ってボールペンを走らせ、それを張り付けて粛々と帰る準備に取り掛かる。

あ、そういえばそうだったと私はそこで思い出して、なぜ忘れたのかと自分の記憶力の無さを呪った。

私は触覚を動かしてWi-Fiでも受信しているのではと思わせる素振りを見せる害虫を見る。ふと御仁が格納していた羽を広げたので私はガンマンの如くスプレーを構えるとほぼ同時に噴射した。

さすがプロというだけのことはある。飛んできた黒い影はフローリングの床に落下するとひっくり返って腹を見せたまま動かなくなった。

私は瞑目していると、ふと背後に気配を感じた。

「終わった?じゃあそれ持ってさっさと帰って」

「わかっているよ」

私はその亡骸を回収に掛かったがそこで奇妙なことが起きる。いや、予想通りと言うべきか、腹を見せてぴくぴくとしていた黒鼈甲に楕円の精密機械は突然ばたばた足をばたつかせ始めた。背後でギャー!!!!!という悲鳴が聞こえた。私は再びスプレーをかけて楽にしてやった後、ティッシュで包んで彼女の部屋にあったGUの袋に詰め口を閉じた。

「ありがとうございました、じゃあ、帰って」

「そんなに念を押さなくとも、すぐに帰るよ」

ただ、と私は彼女の方を振り返る。柴崎の常に人を食ったような表情に、ネコ科の動物のような気の強さを内包した顔には相変わらず眉間に皺が寄っていて険しい。

「虫が寄って来るような家はあまりよくないのではないか?安いからと言って借りない方がいいよ?」

「なんでそんなこというわけ?もうさっさと帰ってください」

私は彼女の怒りの視線に真っ直ぐ対峙したが、結局それ以上の義理もないかと、ゴキブリの死骸と中々割のいいバイト代2000円、それになぜか貰ったどん兵衛を百円均一の袋に詰めてもらい、柴崎の妹のアパートを辞した。

柴野に電話をする。

受話器の向こうから聞き慣れた声が聞こえてくる。

「きみの妹に頼まれてゴキブリを退治したよ」

「そうかい。で?」

で?ということはそれ以上のことがあったんだろう?それは解決しておいたんだろうな?という意味を集約している“で?”である。私は答える。

「かなりカビていたから、簡易の物に張り替えて置いたよ。でも、長く住むことは進めない」

カビに塗れた悪霊封じの御札など部屋で見つけては、流石の私でも背筋を泡立たせてしまうというものである。ポストイットで代用したものの、あのままでは長くはもたないだろう。ゴキブリなど気にしている場合ではないと言ってやるべきだったかと思ったが、私のいう事など聞きそうにもなかった。どーせ私は気色悪い無職のポンコツである。知ったことか、である。

「ありがとう。まあ、その辺は僕からやんわり言っておくよ」

柴野はまるで呑気に構えているので、私は少し辟易した。

「悪い虫がつかないだろう?」

「地縛霊を虫よけバリア代わりにするなっ!」

曲がりなりにも家族を札まで貼ってある事故物件に住まわせておくとは……。

「お前も人が悪いな柴野」

「お前を信頼してるんだよ、中尾」

私は帽子をかぶり直した。キャップの中で潰れている耳が苦しさを訴えているが、もう少し我慢してくれと宥める。

「彼女は私のことが心底嫌いらしいね。私に赤いキツネを渡して来た」

と苦言を呈すと、柴野は受話器越しで爆笑していた。相変わらず最低なやつである。

「きみの正体なんてそもそも興味すらないことは見ていて分かっただろう?バレてたら家になんてあげてもらえるわけがないしな。俺が保証するよ」

お前の保証ほど信用に値しないものはないと言って私は一方的に通話を終了した。私は持て余した赤いキツネを102号室のポストの取り出し口から差し入れとして突っ込み、灼熱の炎天下へと家に向かって歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ