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インチキ霊能師しおりの祈祷暦   作者: あかさたなは
7/7

6 すずかぜいたる

 葉月。

 やっとこさ訪れた盛夏の見晴らしは、あれもこれもきっぱりと色が濃ゆい。生命に彩られて躍動感があり、ことごとに力を強く感じる。

 反面、なんとなしに、耳が塞がれたようにくぐもった静寂があり、遠くで唄うセミの鳴き声のみが微かに鼓膜に届きつく。きつい陽光は眩しく照りつけ、反って辺りを白く霞ませた。それらは軽い眩暈とともに、幼いころの思い出か、幻想かなにか、どこか現実とは違う世界への変転を夢想させる。

 現に、薄手の黒いキャミソールに丈の長い黒のカーデガンを羽織、黒のワイドパンツに黒のサンダルと、平常通り黒尽くしの葵さんでさえ、甚だしい陽射しを浴びて、身体が透けてしまいそうだ。向こうであがる陽炎と重ねると、その存在の正確なのかも不安になる。

 周りには、ひとっ子一人見つからない。

 かっきり青いとしか云いようのない空に、これまた白いとしか云いようのない雲が、時間の流れをせき止めるが如くむくむくと山脈を作っている。 

 しかれども、僕の知っている思い出の中の渡辺家は、そこにはなかった。

 小さいころ、いわゆる幼なじみとして、日ごと遊びに行った懐かしいたたずまいは見えない。頭には瓦を乗せ、足には石垣を履いたモルタルの屏に囲まれ、真新しい日本家屋が顔を覗かせている。

 その様子も返照し、どこかぼやけてますます頼りない。

「何年か前に建て替えられたらしいですね」

 僕の不自然な表情を見てか、葵さんは云いながら黒いメットを取った。

 とたん、現実に引き戻され、もともとそこにあったはずの様々な音があちこちから飛び込んでくる。半音を下げる救急車の音や、カタカタと電車が線路を踏みしめる音、甲高いバイクのエンジン音、どこか雑踏の足音や話し声。どれも見えないところから聞こえてくるのに、ぼんやりした夢の中から押し戻されたと気づくには十分な雑音だった。


 暑い。


「昔からでかかったですけど」

 僕は、夏の幻想の薄気味悪さをいささか楽しんでいたので、その余韻に浸りながら機材を担ついで門の前に立つ。

 葵さんが呼鈴を鳴らした。さっきより鮮明なセミの声が暑さを煽る。

「はい」

「加茂神社のものです」

「どうぞ」

 インターフォンごしで、葵さんと澪ちゃんのおっちゃんとのやり取りがあり、僕たちは門の中へ踏み入った。

 小さいがよく手入れされた陽当たりのいい庭がある。が、どこかしら雰囲気が暗い。

 なぜだろうとは知れないが、雑草が生え放題で、ゴミが散らかされ、陽当たりの悪いじめじめした庭を見ているような心持ちだ。

 玄関前で待つ葵さんは、二階のカーテンの締め切られた窓を見ている。あの辺りだと澪ちゃんの部屋だと思うが人のいる兆しがない。

「よう来てくれはりましたなぁ。どうぞ入ってください」

 まだ色褪せていない昔ながらの引戸をガラガラとひいて、澪ちゃんのおっちゃんが迎えてくれた。何日も空いていないのに少しやつれた風骨だ。

 こちらから連絡する必要はなかった。あれからしばらくして、澪ちゃんのおっちゃん、ようするに渡辺さんから祈祷依頼の連絡が入ったのだ。

「失礼します」

 葵さんに続いて中に入る。玄関は広くて板の間があり、二階へ上がる階段が見えた。

 空気が重く、なにやら臭う。

「渡辺さん、少し空気を入れ換えましょうか」

 葵さんは、あがると「失礼します」と云って、左にある客間へ入り、縁側の引戸を開け始めた。

「はぁ」

 戸惑いながら、渡辺さんと僕も、葵さんと同じように各部屋の窓を開けてまわった。

 僕の気に掛かったのは、各部屋のあちこちにいろいろな寺社のお札が貼られていることだ。大小さまざまで斜めや横、重ねて貼られたものもあり、とても気味のいいものではない。こないだお邪魔したときにはもちろんなかった。

 葵さんは、誰になんの了解も得ずお札を剥がした。

「うえ!」

 お札が貼られていた壁を見るなり、僕は思わず声をだした。

 そこには、あきらかに血で書かれた文字が「許さん」とある。達筆だ。

 夏の怪談が流行る理由が腑に落ちる。確かに、この暑いのに背中に悪寒を覚えた。

「知らんまにそんなんがあちこちに出てくるんですわ」

 渡辺さんは、いたずらのばれた子供のようにばつの悪い顔をする。もう慣れてしまっている加減か、気色を変えるようなことはない。

 葵さんは、お構い無く次々にお札を剥がしてまわる。剥がしたあとには、やはり血で塗られたような茶色い文字で「死ね」「滅べ」などと記されていた。

「こんなんしたらあきませんよ~」

 おろおろと露骨に困った顔をする渡辺さんに、葵さんは一言だけ云った。

「は、はぁ」

 渡辺さんは、それでもなにか云いたそうだが、僕もお札に手をかける。

「ちっ」

 不意に舌をうつような音を聞いて渡辺さんを見たが、相変わらず人の良さそうな愛想笑いをしていた。家屋にあがってから、ずっと何かに見られている気分もあわせて思い過ごしたようだ。

 ひととおり剥がし、客間の机のまわりに敷かれた座布団に腰をおろすように云われた。渡辺さんがお茶を用意して、湯飲みを並べ、僕と葵さんの向かいに座る。

「早速なんですけど、お話をお伺いしてもいいでしょうか?」

 机に剥がされたお札の厚い束を置いて、葵さんがよそ行きの声でおっとりと尋ねると、渡辺さんがうつむいたまま話をはじめた。 

「二年になりますかな。例の事件をきっかけに澪が躁鬱を患いまして、ほんまに困り果てとるんです。妻にしても、突然家をでて行方も知れず、先生、ほんまになんとかしてください! 澪に普通の生活をさせたりたいんです!」

 渡辺さんは、珍しく取り乱して頭を深々と下げた。

「例の事件? といいますと?」

 僕には、それが加茂神社で起こった死亡事故だとすぐに合点がいった。ところが、葵さんにはおよそ分別いくはずがない。

「加茂神社で二年前にあった災害の二次的な事故ですわ。ご存知でっしゃろ?」

 聞き返されたのが意外だったのだろう。渡辺さんは目をぱちくりと瞬かせた。

「その件は僕の方がよう知ってます」

 あわてて僕が両手を机に載せる。

 葵さんは、「そうなんですか?」といった面持ちでこちらを見て小首を傾げた。

「まだ、職員が常駐してへんころの話ですし、葵さんは、あんまりご存知ないかと思いますが、地震で荒れた境内を復旧しようというボランティアがありまして、そのとき、落ちてきた狛犬の下敷きになって、一人亡くなってはるんです。ボランティアを呼び掛けたのは澪ちゃんやったんで、たぶん責任を感じたんやと思います」

 うまい具合に葵さんをやり込めたとは思えなかった。なにか隠してるな。くらいは察知しているだろう。

「では、渡辺さんはその事故で亡くならはった方が澪ちゃんを苦しめてると?」

 意外にもとくに僕の話に踏み込んでくることはなく、葵さんは渡辺さんの表情の変化に注視していた。

「いや、それしか考えられんのですわ」

 渡辺さんは持っていた手ぬぐいで額の汗を拭いた。

「澪ちゃんの躁鬱だけですか?」

 至極落ち着いた様子で、渡辺さんや僕を観察しながら湯呑みを両手で口に運ぶ。もはや葵さんには味方として認識されてはいないことをヒシヒシと感じる。

「せやから、この、壁に文字が浮かんだり、妻が行方不明になってもうたり、私も随分痩せましたんや。なんや食欲ものうて、夜も寝られんのですわ。なんしか澪が心配で心配で」

 僕の知っている渡辺さん、澪ちゃんのお父さんは、もっと頼りがいのある人物だった。きちんと叱ってくれる大人と云うか、子供心にも信頼できる大人だという理解でいた。

 最近でも、思慮深く、やさしく、カッコいい大人だという印象を崩さずにいた。

 しかるに、ここに座る渡辺という老人とは、まるで別人のようだ。弱々しく、疲れ切っている。

「とりあえず、二階を拝見しましょうか」

 拉致があかないと考えたのだろう。葵さんはすぐに二階へのぼった。

「澪、加茂神社の方が来てくれはったで」

 渡辺さんが澪ちゃんの部屋の扉を叩く。この屋敷で唯一の洋間のようだ。

 返事は聞こえず、しばらく沈黙した。

「入ります」

 葵さんは云うがはやいか、扉を開けた。

「くっさっ」

 僕はつい声を出してしまう。云いようのない匂いと生暖かい空気が、葵さんが開いた扉の向こうから押し出されてきた。中は、もちろんひどいありさまで、脱ぎ散らかされた服があちこちに散乱し、食べかすやゴミがここそこに積まれている。足の踏み場もないとはよく云った。

 そんなゴミの中に、澪ちゃんは三角座りをして頭を膝にうずめていた。膝を抱える左の手首には、これ見よがしに包帯がまかれている。

 葵さんはすぐさま澪ちゃんを通り越して部屋の奥へ行き、カーテンをたたみ窓を開く。窓の下はさっき見た庭がある。葵さんは注意深く庭を見ていた。

「澪」

 渡辺さんが澪ちゃんの肩をゆするが、澪ちゃんはなんの反応も見せない。

「あ、そっとしておいてあげてください」

 渡辺さんの行動を見て葵さんはそれを制した。

 葵さんは澪ちゃんの横にしゃがみ、右手を澪ちゃんの額に、左手を後頭部に当て、ぼそぼそと耳元で囁いた。渡辺さんが見たら、なにか呪文を唱えているようにも見えただろう。

「さぁ、いつごろからどんなことがあったんか、詳しく教えてくれるかな」

 葵さんは澪ちゃんの隣に、自分が座れるだけのスペースを作るため、ガサゴソとゴミを押しやって、澪ちゃんと同じように三角座りをした。澪ちゃんはまさに操られたように頭をこくっと一つ動かすと、寝言でも云っているように眼を半分閉じたまま語り始めた。それを見て、自分が何度聞いても相手にもしてくれなかったのにと渡辺さんは小声で僕にこぼした。

「小二ん時。鹿児島のばあちゃんちで過呼吸の症状がはじめて出たん」

 澪ちゃんの答えは簡潔だ。

「原因はなんやと思う?」

「ばあちゃんがしてくれたじいちゃんの話」

 葵さんの質問に、最低限の情報しか示さない。必然的に葵さんの質問の回数は増える。

「どんな話?」

「じいちゃんが戦争で死んだ話」

「おじいちゃん、戦争で亡くならはったん?」

「うん」

「どうやって?」

「飛行機に乗って、船にぶつかったって」

 特攻だ。僕はすぐにそう思った。何年か前に流行った映画や小説で興味を持った。

「それから症状はどうなっていったん?」

「そのときからしばらくでんかった」

「次に出たのは?」

「何年か前の夏」

「二年前やろ」

 澪ちゃんの答えの後に、渡辺さんが口をはさんだ。

「そう」

 澪ちゃんはまたこくっと頭を落とした。

「あの事件がきっかけやな?」

 今度は渡辺さんが続けて聞き始めた。

「わからん」

「なんでやねんな。それしか考えられへんやろ?」

「わからん!」

 澪ちゃんは両耳をふさいで頭を膝へうずめた。

「渡辺さん、そっとしといてあげてください」

 葵さんは立ち上がり、一とおり仕事を済ませた様子で部屋を降りた。すぐに僕にカメラを設置するように指示をすると珍しく庭へ出ていった。僕はもちろん澪ちゃんの部屋にカメラを用意する。もう一台は一番血文字の多かった仏間に置いた。

「ありがとうございました」

 渡辺さんは深々と頭を下す。

「また明日、機材を取りに来ます。ご祈祷はそれからになります。焦らずにやりましょう」

 僕は渡辺さんにそう云った。


「何か隠してますよね」

 神社に帰るなり、葵さんの鋭い視線とともに棘のような言葉が飛んできた。

「隠すつもりはないんです」

 僕は正直にそう云って、あらためて隠す必要なんかないなと自分で納得をした。

 葵さんは僕の言葉に嘘がないことで安心したのか「そうですか」と隣の部屋へ着替えに行った。

 着替えが済むと、例のごとくちゃぶ台を挟んでの作戦会議をはじめる。

「どう思います?」

 聞きたいことは僕の方でたくさんあったが、さきに質問されてしまった。

「澪ちゃんのことは、よく知っています。やっぱり二年前の事故のことを自分の責任のように感じてると思います。それがきっかけとなって症状として表れていてもおかしくはないかと」

 葵さんは僕の話を受けてしばらく黙り込んでしまった。

「その事故って云うのがなぁ~」

 云いながら伸びをする。

 僕はじっと葵さんを見る。

「なんですか?」

 伸びをした後そのまま両手を後ろへ着いてこちらを見た。

「この事件について、詳しく話しておこうと思って」

 僕は少し真剣な面持ちで両こぶしを握って机に置いた。

「いや、いいですよ」

 葵さんは両手を後ろへ着いたまま、疲れた様子だ。

「なんでです?」

「重要性を感じないからです」

 僕の質問を即答で返してくる。だが、今回は引けない。僕には、確かめないといけないことがある。

「だめですよ。聞いてください」

 いつになく怖い顔をしていたであろう僕の顔を見て、いつもと様子が違うことを汲んだ葵さんは、両手を膝の上に戻し、姿勢を正した。

「では。どうぞ」

 もういつものように涼しい顔をしている。

「二年前の夏です。震度三くらいの地震がありましたよね。震度三程度なら何回も地震ありましたから、覚えてないでしょうけど」

 僕は葵さんの表情をつぶさに観察しながらゆっくりと話を進めていく。

「そうですね。私も覚えていません」

 そんなはずないんですよ葵さん。その言葉が喉まででかかった。

「震度三でも、なんの耐震対策もしていなかった老朽化したこの加茂神社は、倒壊の危険に直面しました。取り壊すかというところまで行ったんです」

 葵さんは膝の上で袴をつまんで折り目を押したり伸ばしたりしている。

「ボランティアが集まって耐震工事を、町内のあの田中工務店さんが先頭になってやったんです。それを呼びかけたのが、当時高校二年生だった澪ちゃんです」

 葵さんの様子が明らかにおかしい。いつも冷静でおっとりとしていて、人の話は真摯に聞くのに、今はそわそわしてこの場から逃げ出したいといった印象だ。

「念のために聞きますけど、葵さんはこのボランティア、参加されてませんよね?」

 葵さんも神社の関係者であることは二年前も変わらないはずだ。

「私はそんなんあったんも聞かされてません」

 葵さんは下を向いたまますぐに答えた。

「そうですか。実はこの工事中にボランティアの一人が、倒れてきた狛犬の下敷きとなって亡くなられました」

 僕は葵さんの眼を見て話している。葵さんは視線を合わせるのが嫌なのか眼を伏せる。

「土御門隆助さんといいます」

 葵さんはビクッと身体を震わせた。

 僕は少し黙って葵さんの様子を伺った。

「この方は、青年実業家で、当時三十三歳。貿易関係の会社を経営されていて、国内でも国外でも熱心にボランティアをされていたそうです」

 僕は、どういう訳かとても胸が苦しかった。そのつまったものを吐き出そうと、一息に云った。それでもまだ下を向いたままの葵さんに、もう一言付け加えた。


「そっくりですよね。葵さんの彼氏に」


 葵さんは小刻みに震わせた声でやっと返事をした。

「な、なにを云ってるんですか、そんなん、ようあることですよ」

「そうですか」

「そ、そうですよ」

 僕はどうしてか、冷たい返事をした。

 ここまで動揺している葵さんを見ても、まだ僕には確信が持てなかった。それはそうだ。彼氏が事故で死んでしまったことを受け入れられずに、自分の過去を改竄して記憶しているなんて、現実ではなかなかあることではない。それも聡明な葵さんがだ。

「でも、この日、葵さんもボランティアに参加してたはずなんですよ」

 ここまで来たらもう仕方がない。今更終わることはできまい。

 僕は伊藤から渡された資料の中にあったボランティア名簿を葵さんに差し出した。そこには、「土御門隆助」のすぐ下に「葵しおり」と書かれている。特徴のある筆跡からも、葵さんの直筆であることは間違いない。並んで書かれているということは、一緒に来た可能性を表している。

「なんですかこれ」

 葵さんは気色を失って少し白くなっている。

「当時のボランティアの方の名簿です。受付で来た順に書いてもらったそうです」

 葵さんはしばらく名簿を眺めていた。少し身震いしたかと思うと、強い口調で云った。

「確かに、私の彼は土御門隆助です。この署名も私が書いたものです! でも、隆助は今カンボジアに出張していますし、私はボランティアには参加していません! なんの嫌がらせですか!」

 僕はそれ以上何も云えなかった。本当に忘れているのか。演技なのか。事実が違うのか。どれも選ぶことができなかったからである。

「すみませんでした」

 僕は素直に頭をさげて「今日の検証の話を聞かせてください」と続けた。

 いつも切り替えの早い葵さんも、さすがに切り替わらず、少しイライラした口調で会議ははじまった。

「私は二年前の事故に焦点をあわせてません」

 間をおいて、やや大きなため息をついた。自分を落ち着かせているようだ。

「ちっちゃかった澪ちゃんにしたら、おじいちゃんの死に方は、どうやったって心に残ったんでしょう。それが二年前の夏になんかのきっかけで思い出された」

 その推理は、僕には違和感があった。確かに、澪ちゃんのおじいちゃんが憑依しているのは間違いないだろうが、発症した時期と、澪ちゃんのショックを考えると、あの事件がきっかけになっていると思うのが普通だろう。

「私が催眠をかけて答えてもらったので、あれは深層心理からの答えだと思われますし」

 やはりあの呪文のような仕草は催眠術だったのだ。でなければ、鬱の澪ちゃんがあんなに簡単に答えてくれるはずはない。

「やけど、きっかけについて渡辺さんが聞いたとき、澪ちゃんは否定も肯定もしなかったですよね?」

 僕の反論についてはなんの答えも返って来はしなかった。

「光琉くんは、第二次世界大戦についてどう思います?」

 突然の質問に、僕はその意図を量りかね、答えに躊躇した。

「光琉くんが澪ちゃんのおじいちゃんやったら、どう思います?」

 葵さんはすぐに、僕が質問の意味を理解していないことに配慮して、質問を変えた。

「悔しいと思います」

「なにが?」

 口をついて出た素直な答えに、葵さんは質問をかぶせた。

「なんでって、あの当時国民はなんで戦争してんのかも、勝ってんのか負けてんのかも、ほとんど真実を知らんかったわけでしょ」

 葵さんは、いつものように両手を膝に乗せ、じっとこちらを見ている。これといって話を遮る風はないので、僕は続けて話す。

「実際は侵略戦争やったわけやし、多かれ少なかれ虐殺や慰安婦の問題なんかもあったし、そんなことのために命を捨てさせられたわけやから……」

 そこまで話すと葵さんは口を開いた。

「ずいぶん偏った視点ですね」

 葵さんは視線を落とす。やはりさっきのことが関係しているのか、とても不機嫌に見える。

「まあいいです。結局、光琉くんも、澪ちゃんのおじいちゃんは無念だと思うんですよね?」

「そうですね。澪ちゃんもそう思ってると思います。やから発症につながったんですか?」

 そもそも僕は、いまだに葵さんの仕事に対するスタイルを理解することができないでいる。僕たちのやっていることは、あくまで「祈祷」であり「厄払い」であり、それはとりもなおさず「除霊」なのだ。そうであるならば、今回の澪ちゃんや渡辺家にも、なんらかの文字通り不成仏霊がとり憑いていると考え、それを祓うのが仕事だ。

 葵さんは違う。澪ちゃんにも、渡辺さんにも、心になんらかのわだかまりがあり、それが心身の不調や身の回りの不幸を自ら招いていると考え、催眠療法やカウンセリングを用いて治療しようという。そして、その方法が功を奏したのを、僕はわずかな期間にたくさん見てきた。

「それはおかしくないですか? 確かにおじいちゃんのことを考えたらそうかもしれませんけど、あの時澪ちゃんは、おじいちゃんのことより事故のことの方が気になってたはずですよ。自分が云いだしたボランティアで来てくれた人が亡くならはったんですから」

 僕は答えてくれない葵さんを置いて、話を継いだ。

 澪ちゃんのおじいちゃんであれ、土御門隆助であれ、渡辺家になんらかの不成仏霊がいるのは違いない。ただ、僕の考えでも、葵さんの考えでも、本人がもっとも気にしている人物が重要であることは何ら変わりがない。それがどちらなのか。

「事故で亡くなった方は、澪ちゃんを恨んでいるでしょうか……」

 葵さんはふと吐く息に乗せて小さくそう云った。

「それは…… でも、もっと生きていたいと思ってはったんとちゃいます?」

 

 次の日。

 検証したビデオには、澪ちゃんの部屋で無数のオーブが映りこんでいた。

「なんでっかこれ?」

 渡辺さんは画面を横切る多くの白い玉を見て、新鮮な驚きを表した。

「オーブと云われています。霊的なエネルギーだとも云われていますし、水蒸気が映りこんだとも、ほこりや羽虫が映りこんだとも云われています」

 僕はごく簡単な説明をした。

 しばらく画面を放っておくと、なにやら「ごわっ」とうめき声のようなものが聞こえた。

「なんでっかこの音は?」

 渡辺さんも画面に張り付いて離れない。僕は少し巻き戻してもう一度再生する。やはりどこからか「ごわっ」という男の低い声が聞こえる。

「なんですかね」

 正直僕にもわからなかった。発情した猫の声だと云われればそうともとれる。それはそうだが、その音が、スピーカーから聞こえるのではなく、耳元でするような聞こえ具合なのが気味が悪い。

 ひとわたり確認をすます。それ以上のものは何もなかったが、十分だろう。

「では、祈祷の日程はあらためてご連絡いたします。澪ちゃんの様子からしても、できれば加茂神社の方で執り行いたいと思っています」

 葵さんに伝えるように云われていたことを説明して、僕は機材をもって加茂神社に帰った。


 葵さんの見解はだいたいの予想がついていた。オーブについては以前云われたとおりだ。澪ちゃんの部屋は異様に湿気ていたから、水蒸気だと云われてもおかしいとは思わない。謎の声についても、隣の犬のゲップだとか、猫の声で済まされるだろう。

 案の定、葵さんは映像を確認してそう意味づけをした。

「そう云えば、壁に浮かぶというあの血文字はなんですかね?」

 機材をしまいながら、僕は葵さんに聞いてみた。

「澪ちゃんの落書きですよ。左手首に包帯巻いてましたよね。リストカットの後でしょう。その血で書いたんでしょうね。筆跡鑑定と血液型を調べればすぐにわかることなんですが」

 うすうすそう云うだろうなとは思った。もちろん僕らには筆跡鑑定も血液型の検査もできない。澪ちゃんに、あんな古風な文字が書けるんだろうか。

「ご祈祷の準備をしましょうか。予定通り明日、本堂の前に祭壇を組んで執り行いましょう」

 そう云われて席を立とうとしたとき、めまいを感じた。いや、地震だ。大きな揺れが、地響きとともにしばらく続いた。

「葵さん!」

 僕は、バランスを崩して倒れそうになる葵さんの手をつかんだ。思いのほか揺れは強く、葵さんの手をつかんだ僕もバランスを崩す。仕方がなく、葵さんを引き寄せ、胸に抱くような格好になったところで揺れは治まり始めた。

「ごめんなさい!」

 葵さんは突き放すように僕から離れた。顔がわかるくらい赤いが、怖かっただけかもしれない。


『非常に不安定な状態です。日本中のどこで大きな地震があっても不思議ではありません』

 つけたテレビでは、連日の地震について専門家がなんの救いもない解説をしていた。

『日本のあちこちで小さな火山が活動を活発化していますし、いずれ大きな火山活動につながる恐れも十二分に考えられます。かつて経験のない非常に危険な状態と云えます』

 

「光琉くん?」

 祭壇を組む僕に、葵さんは低い声で話しかけてきた。

「どうしたんですか?」

「その事故で亡くなった方って、ほんまに土御門隆助っていうんですか?」

 僕は返事に困った。

「…… はい」

「そうですか……」

 しばらく沈黙が続く。僕はなるべく作業に没頭し、いやな間を埋めようと思った。

「でも、隆助さんとは別人ですよ。隆助さんは今カンボジアですから」

 葵さんは自分に云い聞かせているようだった。

 動揺しているのは僕かもしれない。あんな葵さんを見たのははじめてだ。よく考えると、いつも弱さも隙も見せなかった。本当に記憶がないのだろうか。どこか混乱しているように見て取れる。だとしたら、彼、土御門隆助は葵さんの彼氏で、すでに死んでいることになる。

「私、ボランティアにいったんですかね? 署名してるってことは……」

 葵さんはうつむいて力なく、独り言のようにつぶやく。

「二年も前のことですもん。忘れてますって。僕なんか昨日の晩飯も覚えてないのに」

 わざとおおげさな笑顔を作っておどけて見せる。

「なんですかそれ~」

 葵さんも笑顔を見せてくれた。

「それよりこれ手伝ってくださいよ。ここどうするんでしたっけ?」

 僕ひとりで十分できる仕事だったが、ひとりではできない風を装ってそうお願いした。

「それ、前教えたやんか~」

 葵さんに笑顔が戻った。


 祈祷当日。濃い青をした空の遠くで、真っ白な入道雲がごくゆっくりと流れている。

 昔に比べれば随分と少なくなったセミの声も、この晴れた夏の一日を無駄にすまいと暑さを醸す。ほかにも、さまざまな雑音が、反って夏の静寂を演出していた。

 今日も暑い。風に揺れる木漏れ日はめまいを誘い、少し油断すると、耳鳴りとともに異世界へでも引きづりこまれそうな錯覚に陥る。

「こんにちは」

 祈祷は昼からだ。小さな本堂の前にテントを張って日よけを作り、その下に祭壇を組んである。まだ朝の八時をまわったばかりのころ、どこから嗅ぎつけてきたのか、伊藤がやってきた。

「今日、あるんやろ?」

 嫌な顔をするわけにはいかない。

「なにがですか?」

 伊藤は大きなカバンを右肩に担ぎ、左腕を受付にのせて顔を近づける。

「とぼけんなや。祈祷や」

 どう対処したものかと思案していると、横から葵さんが一言放つ。

「本日は関係者以外は立ち入りを禁じています。お引き取りください」

 伊藤は、全く動じる様子がなく、その大きな鼻をふんと鳴らして、口元に嫌な笑いを浮かべた。

「そういう訳にいくかい。あんたらの神社の過失で日本中がえらいことになっとんやで。説明責任があるんと違うんか」

 伊藤の言葉を聞いて、受付の奥に姿を隠していた葵さんは、クスクスと笑った。

「なにがおかしいねん!」

 もちろん伊藤は激昂する。

「伊藤さんともあろうお方でも、そんな非科学的なことをおっしゃるんだと思いまして」

 葵さんが受付に立ち、伊藤の前に来た。伊藤を見る葵さんの眼は、もう少しも笑っていない。自分で盗んでおいて、盗人猛々しい。そう思って当然だ。

「立ち入り禁止ですから、見学なら境内の外からどうぞ」

 葵さんの強い言葉に、さすがの伊藤も「ふん!」と鼻をもう一度鳴らし、しぶしぶ鳥居の外へ出ていった。それでも、元来ゴキブリのような男だ。鳥居の外に三脚を設置すると、カメラを取り付け撮影を開始したようだった。

「撮影禁止とも云ってきましょうか?」

 僕は葵さんに聞いてみたが「どうせ野鳥を観察してるとかなんとか云われるだけですよ」と取り合わない。それもそうかと放っておくことにした。

「クソ野郎」

 ごく小さな声で、葵さんの言葉が聞こえた。

「いやいや葵さん、それはまずいでしょ」 

「ですよね」

 二人は顔を見合わせて笑った。


 十二時半、渡辺さんと澪ちゃんがタクシーに乗って神社へやってきた。澪ちゃんが行かないと云わないように、検証の時に一応葵さんが催眠をかけておいたという。その甲斐があってか、澪ちゃんも来るには来れた。

「今日はよろしゅうお願いします」

 渡辺さんはかぶってきた帽子を取って深く頭を下げた。

 澪ちゃんは、惚けていてなんの反応も示さない。

「こちらこそ。暑い中よう来てくれはりました。中で冷たいお茶でもどうぞ」

 迎えて出た葵さんは、二人を受付の中に入れた。伊藤のカメラを配慮してかもしれない。

 

 ほどなくしてご祈祷がはじまった。

 祭壇の前に祝詞を唱える葵さんがいて、白木の椅子に渡辺さんと澪ちゃんが並んで座る。その後ろで僕は待機している。ちょうど、伊藤のカメラから二人を隠す位置だ。

 祝詞のあいだ、もう澪ちゃんはうつらうつらと舟を漕いでいた。

「これ、澪! 起きなさい」

 渡辺さんは澪ちゃんに小声で云い、肘でつつく。僕は「大丈夫ですよ」と渡辺さんに耳打ちする。

「それでは、ご祈祷をはじめる前に、少しリラックスをしましょう。私の誘導に合わせて、深い深呼吸をしてください」

 祝詞を終えた葵さんは、深呼吸の誘導をはじめる。渡辺さんも眼を閉じ、葵さんの云う通り深呼吸を始めた。澪ちゃんは下を向いて眠っている。


「さぁ、それでは始めましょう」

 おおぬさを持ち、澪ちゃんの前に立つとバサバサと左右に振る。

「渡辺澪に憑きし悪霊よ、渡辺澪の口を借りてその訳を語りなさい。なにゆえ彼女を苦しめるか」

 いつも、ここからは葵さんとは思えない別人のような気合の入った声色だ。それでも美しい。強い女性の美しさがある。声色も、その姿もだ。

 少しの間、澪ちゃんに変化なかったが、「答えなさい!」と強い口調で葵さんが云ったのをきっかけにし、澪ちゃんの体が前後に揺れだした。

「…… か、かかかか、か」

 例のように、絞りだすような、喉にひっかるような、乾いた声がでる。澪ちゃんの声ではない。

「か、かかかかか、か……」

 まるで、悪霊が澪ちゃんの声帯を調整するかのように、だんだんと言葉が出始める。

「…… お、おの、おのれ」

 澪ちゃんの体の動きが激しくなっていく。僕は後ろから、暴れないように両肩を抑えた。

「おのれ、お、お、おのれ、じゃ、邪魔、邪魔など、など、させ、させん……」

 葵さんは、澪ちゃんが座る白木の椅子の前にしゃがんだ。

「あなたは誰ですか?」

 もう普段のやさしい葵さんに戻っている。

「……」

 澪ちゃんは黙った。動きも止まった。

「あなた、源次郎さんでしょ?」

 葵さんのその問いかけに、澪ちゃんは体をびくつかせて反応し、渡辺さんはおどろいて葵さんを見た。

「そうですよね。源次郎さん」

 葵さんはもう一度聞いた。

「ゆ、ゆ、許せ、許せん」

 乾いた声で澪ちゃんは再び口を開いた。

「何が許せへんのです?」

 葵さんはいつもどおり根気よく、ひとつひとつ聞いていく。

 それでも、でてきたのが澪ちゃんのおじいちゃんなら、質問の答えはわかっている。戦争で死んだ無念。戦争を強いられたことが許せないのだろう。

「許せん」

 澪ちゃんの体に慣れてきたのか、澪ちゃんの体が慣れてきたのか、スムーズに話せるようになってきたようだ。

「許せるか? こんな腐りきった国を! 許せるか!」

 澪ちゃんの見開かれた両眼から、はらはらと涙が落ちる。

「わしらはなんのために戦ったんや! なんのためや!」 

 その叫びは、半ば騙されて戦わされた国民の無念をよくあらわしていた。

「違う! はなせ!」

 澪ちゃんは、僕の手を振り払う。まるで、僕の心に浮んだ言葉に反論するようだ。

「わしらは日本のために戦ったんや! アジアのために戦ったんや! 白人の植民地支配から、日本を、アジアを守るために戦ったんや! わかるかクソガキ!」

 澪ちゃんは、僕の方を身体ごと振り返った。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっている。

「わりゃあ大日本帝国の兵隊を知ってんか! 大日本帝国の兵隊が、どんなに規律に正しく、道徳に篤く、人間として成熟してたか知ってんか!」

 僕は、澪ちゃんの云っていることをにわかには理解できなかった。予想していたこととは全く反対の内容であることに気づいたのは、もう少し話を聞いてからだった。

「われの幼い頭では、戦場にいったら精神状態が保てんくなって虐殺でも強姦でもすると思ってんのやろ! そんな帝国兵は一人もおらんわ! ぼけが!」

 澪ちゃんの矛先は、どういう訳か僕に向けられていた。

「帝国兵は、テロリストとも違う! 民間人を攻撃対象とすることなど、もってのほかじゃ! ましてや原爆を落としたアメリカなどと、この日本という国は格が違うんや!」

 一息も休むことなく、澪ちゃんは叫び続けた。僕はどうしていいかもわからず、ただその場に立ち尽くして話を聞くしかなかった。

「原爆が落とされたのは、戦争を始めた日本が悪いと云う阿保がおる。そんな理屈で何十万人も殺されたんや。

 わかるか? 日本が戦争をはじめたんと、原爆を落としてもいいということは、全く関係のないことなんや。いじめられる理由があるからいじめてもいいとはならんことを、おまえらも学んだはずや……

 そもそも、この国の政治は機能しとらん。選挙で票を取らな政治ができん。そのためには選挙で票を取る政治をせなあかん。

 本末転倒や。そやからいつまでたっても憲法改正もでけん。国を守ることも、汚名を返上することもでけんのや」 

 

 澪ちゃんの言葉からは、次第に力が失われていく。

「もうこんな国いらん。自分らのしたことを勝ったもんにいいように改竄されて、自分らを悪人にして詫びてばっかりや。こんな国、もういらんねん……」 

 涙を滝のように流しながら、やがてうつむいて何も語らなくなった。

 しばらくの沈黙があった。

「ふ、ふふぁははははは!」

 突然、澪ちゃんが空を見上げて笑い出した。それは狂気を帯びていて、見ているものを不安にさせる笑いだった。

「もうええ。もうええ。もう遅い。もう遅いんや」

 自分で納得するように澪ちゃんは何度もうなずく。それを見た葵さんは、何かひらめいたようだ。

「ま、まさか……」

 葵さんは立ち上がった。

「そうや! もうこの国は滅ぶねん。毘盧遮那仏の涙の御利益や! ははははははは!」

 澪ちゃんも立ち上がり、勝ち誇るように両手を挙げた。

「おやじ…… それ、どういうことや……」

 澪ちゃんの隣で事態をおっかなびっくり見ていた渡辺さんが、詐欺にでもあったような惚けた顔で澪ちゃんに聞いた。

「そのままの意味や。毘廬遮那仏の涙を、持ち出す機会を伺ってたんや」

 澪ちゃんは冷たい眼で渡辺さんを見おろした。

「どういうことや。滅ぶてなんや! 澪は、澪はどうなるんや!」

 渡辺さんはものすごい勢いで立ち上がり、澪ちゃんの両肩をつかんでゆすった。

「澪を、澪をもとの澪に戻すゆうたやないか! 澪を普通の女の子にしたるゆうたやないか! 澪を、澪を幸せにしたるゆうたやないか!」

 渡辺さんは澪ちゃんを殺しかねない力で前後に揺さぶる。

「渡辺さん!」

 葵さんが渡辺さんを止めた。僕は、事態を呑み込むのでいっぱいで、動くことさえできないでいた。

「おまえはほんまに阿保やの。情けないわ。こんな腐った国で生きとって幸せも普通もあるか! 澪のためにも滅ぼした方がええんじゃ!」

 澪ちゃんはだらりと両手を提げ、冷たい目線だけを渡辺さんに向けている。口元には嫌な笑みが見て取れる。

「…… この、くそじじい! ようもだましたな!」 

 渡辺さんは葵さんを振りほどくと、祭壇に祭られている剣をひったくり、錦の袋から取り出すと逆手にもって澪ちゃんめがけて振りかぶった。剣の柄頭にひっかかった錦の袋が揺れている。

「渡辺さん!」

 ようやく現状を把握した僕は、放り出されたおおぬさを拾い上げる。抜刀するようにおおぬさを振り、渡辺さんの喉元へ突きつけた。

「落ち着いてください!」

 渡辺さんも、僕の呼びかけに我に返ったようだ。ぼとりと剣を落とすと、力なく砂利に膝をついた。

「澪は…… 澪は……」

 渡辺さんは男泣きに泣いた。

「やっとできた子なんや。どれほど子供ができるのをまったことか。やっと生まれてくれた子なんや。結婚が遅かった分、もう子供は無理かとあきらめたことも何度もあった。それでも生まれてきてくれた子なんや。俺の、俺の宝や。澪は、俺の宝なんや。反対する妻が出ていってでも、澪を救ってやりたかった! 澪を、澪に幸せな、いや、普通の生活を、させたりたかったんや」

 渡辺さんは地べたに座り込み、頭をおろしてうなだれた。澪ちゃんは、落ちた剣を拾いあげる。

「さあ、毘廬遮那仏の涙、渡してもらおか」

 剣を自分の喉元に押し当ててそう云った。もちろん剣は祭祀用で、斬れるものではないが、銅製であることを考えると、思い切り突けば十分凶器になりうる。

 葵さんも僕も、なにも返事をせず、ただ様子を窺う。

「だんまりか。かまへん」

 澪ちゃんは、そのまま本堂へ駆け寄り、格子戸を外そうとする。

 僕は隙を見て澪ちゃんに飛びかかった。

「はなせや!」

 澪ちゃんはものすごい勢いで僕を振り払う。僕は砂利の上に倒れ込んだ。

「おら! よう考えて行動せえよ!」

 澪ちゃんは、もう一度剣を喉元に充てがい、威嚇して、なんの邪魔も入らないのを確認すると満足そうに格子戸を外した。

「これが毘廬遮那仏か。えらい立派やな」 

 本尊を見て、次に左手を見る。

「なんや、ほんまにもうあらへんやんけ」

 澪ちゃんは肩を揺すってクックと笑う。

「おまえが怖気づいたんかと思ったわ」

 渡辺さんを見てまた笑った。

「これでもう終いや! この国はもう終いや!」

 源次郎、いや澪ちゃんは、天を見上げて大笑いをし、やがて「帰るぞ」と渡辺さんに促して、変わらず柄頭にぶら下がって揺れている錦の袋を引き千切ると、ポイと境内に捨てた。


「…… おまえ、今、なにした?」

 葵さんの低い声が少し間を置いてから放たれた。

 その問いかけに答えるものはいない。

「なにしたか聞いとるんじゃぁ!」

 葵さんの声は、今度は力を持った強い口調で発された。その場にいた全員が、呆然としている。

 葵さんがそう云い終わると同時に、チャンスを窺っていた僕は、もう一度おおぬさを刀に見立てて抜刀し、澪ちゃんの右手をはたいた。

「ごわっ!」

 うめき声をあげながら剣を落とす。


「源次郎さん。残念です」

 うしろで葵さんが立ち上がり、僕の方へゆっくりと歩いてくる。

「そんなものにはなんの力もありませんよ。滅ぶとするなら、私たち人間の生き方が間違っていたせいでしょう?」

 葵さんはもともと毘盧遮那仏の涙にまつわる力を信じてはいない。

「どっちゃでも構わんわ。どうせ滅ぶんや。お前も見たやろ? 教育はリスクを恐れて善悪を教えることなく、報道は金儲け優先で真実を伝えず、政治は選挙対策で正義を貫かへん。そしてなによりも、大衆が本当のことを知ろうとせぇへん。毘盧遮那仏の涙など使わんでも、この国はどうせ滅ぶんや」

 澪ちゃんは、やさぐれた感じでそう云った。

「それでも、今、あなたがしていることは、大日本帝国国民として誇れることでしょうか」

 僕の横で立ち止まる。澪ちゃんの顔に、陰りが見えた。

「あなたが為そうとした道徳も、真実も、正義も、今のあなたからは何も見えません」

「だまれぇえい! この七十年、わしらは忍耐したんじゃ!」

 澪ちゃんは振り返って大声を張り上げた。

「忍耐したことと、信念を曲げることは、なんの関連もない。あなたの説いた論理です」

 澪ちゃんの表情は明らかに力を失い、困ったようにひきつっている。

「さあ、源次郎さん、もう逝くべき世界へ帰りましょう」

 葵さんは僕からおおぬさを受け取り、一歩前へ出た。

「源次郎さん」

 葵さんはまた一歩澪ちゃんに近寄る。

「確かに、私たちは苦い敗戦を経験しました」

 また一歩。

「愛国心も、道徳教育も、いろいろなものを奪われてしまった」

 また一歩。

「でも、日本人は本当に腐ってしまったのでしょうか?」

 また一歩。

「あなたのお孫さんである若い澪ちゃんは、幼いころから社会に対し熱心に貢献されています。ボランティアの活動を必死でされていたのを、あなたもご存じのはずでしょう?」

 澪ちゃんは聞きたくないように下を向く。

「そして、そんな澪ちゃんを、あなたも大切に、頼もしく思っておられるはず」

 澪ちゃんの前で立ち止まる。落とされた錦の袋を拾って懐へしまうと、中から別の何かを取り出した。

「これ、あなたのものですよね」

 葵さんはそう云って、それを澪ちゃんに差し出した。

「澪ちゃんちの庭に落ちていました」

 それは、うちの神社で売られている例のカモノハシのお守りだった。カモノハシのメスには棘も毒もないことから、女の子のお守りとして、葵さんが考案したものだ。滲んだ墨で小さく『澪へ』と書かれている。

「あなたも、澪ちゃんのような日本の若者に、希望を持っているのでしょう?」

 澪ちゃんは、身体を震わせて声を絞った。

「そんな気持ちは、それと一緒に捨てたわ」

「葛藤したんですね」

 葵さんがすぐさま言葉を返す。

「源次郎さん。戦争はまだ、終わっていないんですよ。終わるとすれば、日本人が誇りを取り戻した時です。そして、それをあきらめるのは、降伏と同じではありませんか?」

 澪ちゃんは歯を食いしばって反論した。

「誇りを取り戻す気ぃなんか、今の日本人にはあらへんやんけ! それどころか、誇りが奪われたことさえ気づいとらん!」

「それは違います。今、日本が抱えている様々な問題。あなたが指摘した教育の問題や、報道の問題や、政治の問題は、結局、日本人が誇りを失ってしまったことに起因しているんです。だとするなら、いずれ必ず取り戻そうとする。それが、あなたの愛した日本人でしょう?」

 澪ちゃんは、ガクッと肩を落としその場に座り込んで黙ってしまった。葵さんはすぐにおおぬさをふり、呪文を唱える。

「お別れです。源次郎さん。狛犬の背に乗って、逝くべきところへ帰りましょう」

「結局、毘盧遮那仏の涙は……」

 澪ちゃんは、ふと顔を持ち上げて葵さんを見た。

「それについては心配いらんと思いますよ。葵さんは、はなからそんな話信じてませんから」

 僕は肩をすくめておどけて云った。

「あぁ」

 澪ちゃんはさらに葵さんに何かを伝えたいようだ。だが、迎えの狛犬が来たのだろうか、はっきりとは言葉に出さない。

 葵さんが背中を叩くと、澪ちゃんはそのまま気を失った。

 葵さんは澪ちゃんを抱きかかえる。

 こうして祈祷は終わった。


 渡辺さんは祈祷のあとすべてを話してくれた。

 二年前の事故を機に、澪ちゃんが源次郎を名乗って話をしだしたこと。澪を救いたければ、毘盧遮那仏の涙を持ち出せと云われたこと。反対する澪ちゃんの母は、喧嘩を機に家をでたそうだ。

 台風の日、おっちゃんは加茂神社に忍び込み、毘盧遮那仏の涙を盗み出そうと試みたが、毘盧遮那仏の涙は、すでに持ち出された後だったという。 

 その話を信じない源次郎さんが、あらためて祈祷を依頼し、毘廬遮那仏の涙を奪う機会としようと図ったのだ。


 すべてが終わったとき、伊藤の姿はもうそこにはなかった。いずれ葵さんのことを記事にするつもりでいるんだろう。喰えない男だ。


「二年前のボランティアで、毘盧遮那仏の涙を知ってしまった澪ちゃんが、小二の時から持っていた心の闇、戦争を体験してきた人々とそうでない自分との間にある差に罪悪感を抱き、二年前の事故のように、一生懸命生きても降りかかってくる不運に絶望し、源次郎さんを語ってお父様に毘盧遮那仏の涙を持ち出すように云った。」

 葵さんは後片付けをしながら独り言のようにそう総括した。

「本当にそうでしょうか。僕には、源次郎さんが憑いていたとしか思えません」

『澪へ』と書かれたカモノハシのお守りの、その達筆は、二年前のボランティアの名簿に書かれていた澪ちゃんの丸字とは、まったく異なるものだった。そこには、祖父から孫娘へ向けられた『思い』が確かに宿っていた。


 ――

 

 加茂神社は小さな雑木林に囲まれて、セミの鳴き声で賑やかしい。周りの民家は古くからこの地の人たちのもので、大きくて古いものが多かった。そのせいか、日中はあたりに人影はなく、時間の流れを錯誤するほどだ。

白日夢。

あまりに使い古された言葉なので気に入らないが、僕にはそれ以外の言葉が見当たらなかった。そう、夏のここは白日夢の中にいるような気にさせる。

 ただでさえ神秘的な雰囲気を漂わせている葵さんは、今日は朝から黙りこくっている。そのうえ『夏』に演出されて、本当に美しく見えた。

「光琉くん」

 水をためた瓶がからりからりと光を照り返す。たすき掛けをして涼し気にぞうきんを絞りながら、唐突に葵さんが口を開いた。その声にはいつもの気勢がない。

 柄杓であたりに水を撒いていた僕は、重い水桶を置いてふぅとため息をつき、柄杓を持ったまま額の汗をぬぐう。

「どうしました?」

 葵さんは絞った雑巾で本堂の柱を拭く。しばらく黙ったまま柱を拭いていたが、卒爾、くるっとこちらを向いて立ち上がり、まっすぐに頭を下げた。

「祈祷をしてください」

 なんのことだか困惑する僕を見て、葵さんはきっと口を結んでいた。溜めていられなくなった下瞼から、滴が一筋頬を伝った。

「どうしたんですか?」

 それを見てしまった僕の胸は、何かに強く握られたようにぎゅっと縮こまる。暑さのせいではない汗が、とめどなくあふれ、息がしにくい。

「隆助が…… 隆助が……」

 とたんに葵さんは小さな少女のようにうつむいて泣き出してしまった。その華奢な手で、拭ってもぬぐっても涙がぽろりぽろりと落ちる。

「どうしたんですか? 泣かないでください」

 柄杓も桶も放り出して、僕は葵さんに駆け寄った。駆け寄ったはいいが、触れることもできず、それ以上かける言葉もない。胸ばかりが強く鼓動する。

「隆助が…… 隆助が……」

 なんどもそう云って泣く姿は、よほど幼い子供のようだった。

「隆助さんがどうしたんです?」

 うつむいた葵さんの目線に合わせるために、少しかがんで覗き込む。

「やっぱりあの事故で……」

 えっくえっくと嗚咽で遮られながら、やっとのことで聞き取る。

「隆助は、あの事故で亡くなってたんです!」

 葵さんは、その言葉を口にするのが、隆助さんの死を現実にしてしまうようで怖かったのだろう。最後は思い切って一息で云った。

 なぜ、その事実に行き着いたのか、それまで葵さんがその事実を知らなかったのはなぜなのか、どうして二年前の記憶があいまいなのか、今までもずっと考えてきたそういった疑問が僕の頭で渦を巻き、しばらく返事すらできなかった。

 頭のいい葵さんは、そんな僕の乱脈したのをわかって、懐から何かを取り出し、恐るおそる僕に差し出した。

 それは、土御門隆助が葵さんに宛てた遺書だった。

「部屋を済からすみまで掃除して見つけました。

 私、わからないんです! 隆助のホントの気持ちがわからないんです! どうしても、どうしても知りたいから、祈祷してください!」

 葵さんはうつむいたまま、両手をきつく握ってそう云った。


 僕らはいつも瞑想する部屋の神棚の前に祭壇を作った。

 葵さんは座布団に座る。僕はおおぬさを降って祝詞を唱える。深呼吸をして、葵さんに力を抜くように促す。

「さぁ、土御門隆助さん。葵さんの身体を借りて、真相を語ってください。二年前、いったい何があったのか」

 眼を閉じてうつむいた葵さんの身体が、二、三度ぶるっと震えた。

「すまない」

 関西弁ではない。葵さんの声にしては芯がある。葵さんはうつむいたまま話をつづけた。

「私がやり残したことを、君たちにやってもらわなければならない」

 今までの祈祷とは違い、はじめからチャンネルがあっているというか、言葉に詰まることなく、隆助さんは流暢に語った。

「君たちは、ここの本堂が百年以上開かれたことがないと思っているようだがそれは違う。よくよく思い出してみるがいい。開かなければならない出来事があったはずだ」

 その話を聞いて、僕は自分の馬鹿さ加減を改めて実感した。そうだ。二年前、修復工事の時、どうしたって本堂を開かずには修復できなかったはずだ。

「に、二年前!」

「そう。あの時、本堂を最初に開き、あの書物と毘盧遮那仏の涙をはじめて見たのが、私だ。

 誰も知らなかった。あれを動かしたり、持ち出したりしてはいけないことを。

 私が書物を解読したときには、すでに毘盧遮那仏の涙は持ち出され、中は工事がはじまっていた。

 私は死を覚悟して遺書を書き、毘盧遮那仏の涙に祈った。

 あの書物の最後の部分に書かれたことを、実行しようとしてできずに、私はこの世を去ってしまった」

 最後の部分。カビが生え、劣化して読めなかったところだ。

「あの部分にはこう書かれていた。

『祈りしのちは毘盧遮那仏の掌に戻し、封印を完成させよ』とね。

 あれをもとの場所に戻さなければ、私の祈りは成就しないのだ。

 もう、二年も前に始まった滅びへのシナリオは、クライマックスを迎えようとしている。

 間に合ってよかった。君に託すよ」

 そう云って、葵さんは白と黒の二つの勾玉を差し出した。それらはよく磨きこまれ、今まで見たどんな勾玉よりも美しく見えた。

「こ、これが……」

「そう。これが毘盧遮那仏の涙。二年にわたり、しおりを苦しめてきた張本人さ」

「葵さんを?」

「この子は私が死んだのを知らなかったんだからね。すまないことをしたと思っている」

 冷静な隆助さんの言葉とは違い、葵さんはすすり泣きを始めた。

「でも、もう死を隠す必要はない。君がいるからね。しおりを頼むよ。光琉くん」

 その言葉を最後に、葵さんは大きく嗚咽を始めた。

「隆助! 隆助!」

 葵さんは、嗚咽の合間になんども隆助さんを呼んだ。

 葵さんが落ち着くのを待って、僕らは『毘盧遮那仏の涙』を本尊の手の上に戻した。

 

 翌日の朝、いつも通り神社に出勤した僕は、いつもならもう掃除を始めている葵さんがいないことに気付いた。

 葵さんでも遅れることがあるんだな。昨日は相当疲れたんだろう。そう思っていた。だから、あえて連絡もせず、しばらくゆっくり寝かせてあげたいと思った。

 不思議なことに受付のカギが開いていた。昨日の帰りに閉め忘れたんだろう。確認をしなかった自分にあきれる。また「そんなしょうーもないミスしてたらほんまにあきませんよ」と、葵さんに冷たい眼で叱られるところだ。葵さんより早く着けてよかった。

 僕は、袴に着替えて境内の掃除をし、いつも通り受付を開けた。もっと、細かなところまで掃除をしていれば、このときに異変に気付けていたかもしれない。

 ともあれ、葵さんは夕方になっても現れなかった。無断欠勤だ。僕は後片付けを始める。着替え部屋に積まれている古新聞をまとめようと紐とはさみを用意して、はじめて異変に気付いた。

 古新聞の一番上に積まれているのは、昨日の夕刊であるはずだ。ところが、一番上の新聞は二年前のものだった。あまりに小さな記事で、よく見ないと見落としてしまいがちだが、確かに加茂神社で起きた事故の記事が写真付きでのっている。

『貿易会社代表取締役土御門隆助さん三十三歳、ボランティア中に事故で死亡』

 やっぱり葵さんは、朝、ここにきていたんだ。昨日のことを引きずっていたんだ。

 僕はあわてて葵さんに電話する。

 いったい今、どこで何をしているんだろう。葵さんはどう思ってどんな行動をとるだろう。最悪の場合は? そう考えると、嫌な予感しかしなかった。コールはむなしく続く。やがて留守番センターに接続される。僕は苛立ちながら掛けなおす。何度やっても同じことだった。

 どこにいる? 自分ならどこに行く? 葵さんならどこに? 必死に考えた。

 途中、自分には関係のないことのようにも思えた。もしかしたら寝坊しているだけかもしれないとも、騒ぐほどのことでもないとも思えた。


 それでも、僕は止まらなかった。

 人と関わるとか、関わらないとか、そんなことを延々と頭の中で捻くり回して考えていたのが嘘のようだ。動かずにはいられなかった。関わらずにはいられなかった。


 袴のまま原付にまたがると、夢中で走り出していた。たったひとつ思い当たる場所へ。そこにいてほしいと、心から願いながら。

 さっきまでの夕立で地面は濡れていて、マンホールで滑った僕は原付ごと思いっきり転倒して道路をスライドしていく。

「いってー!」

 声は出るが、そんなことなんかまったく気にならない。泥だらけで、袴にほころびを作り、擦り傷から血を流しながら、原付を持ち上げて再びまたがると、アクセルを思い切り開いた。

 やがて、淀川にたどりついた僕は、堤防の草の上に原付を乗り捨てて走った。

「葵さん!」

 僕は葵さんの後姿を確認したとたん、思い切り大声で叫んでいた。

 川沿いに立ち尽くす葵さんは、その向こうに広がる金色の川と夕日に照らされて、まるで純金でできている置物のようだった。

「葵さん! まって!」

 そのまま葵さんが川の中に吸い込まれていくような気がして、無我夢中で声をだす。

「光琉くん……」

 ゆっくりと振り返った葵さんは、ぼんやりと僕を見つけた。

「葵さん! よかった」

 僕は思わず葵さんを抱きしめた。葵さんは夢から醒めたように眼をパチクリさせた。右手には隆助さんの遺書を持っている。

 

 二人は並んで堤防に座った。ゆっくりと川の向こうに沈んでいく夏の夕日は、何もかも黄金に輝かせていた。川なんて、純金が流れているようだ。

「ここ、二年前に隆助がプロポーズしてくれたところなんです」

 葵さんは唐突に話を始めた。

「カンボジアの出張から帰ったら、結婚しようって…… 私、それも忘れてしまってました。この場所にいるとあたたかい気分になることだけを覚えていて……」

 膝を抱える手にぎゅっと力がこもっている。

「これ、光琉くんも読んでみてください」

 葵さんはそう云って僕に右手に握った隆助さんの遺書を差し出した。

「僕が?」

 葵さんは夕日を見たまま頷いて、また話を始めた。

「私に催眠術を教えてくれたのが隆助なんは前に云いましたっけ?」

 僕は遺書を読みながら首を横に振った。

「その遺書には、私に催眠をかける仕掛けがしてあります。おそらく、それを読んだ私が、隆助のことを忘れてしまうように」

 僕は思わず顔を上げた。

「でも、素人の催眠術がそう簡単にうまくいくわけないんですよね。私は、隆助を忘れず、隆助が死んだことを忘れてしまった。私自身がそう思いたかったからでしょう」

 両手で抱えた膝に顎をのせ、遠くの夕日をみる葵さんの、驚きの告白は続く。

「それでも、心のどこかで隆助が死んだことへの供養の気持ちがあったんでしょう。それ以来、私は髪を切り、喪服代わりに黒ばかり着るようになってしまったようです」

 

『しおりへ

 これを読んでるということは、やっぱり私は死んでしまうんだね。云い伝えは本当だったという訳か。

 しおりに一番伝えたいことは、「ありがとう」ということです。

 しおりに出会う前は、いつも孤独でした。いつも世界と独りで戦っているような気持ちでいました。

 でも、しおりがいるということは、味方がいるということで、それはとてもうれしいことです。人生がやさしくなります。

 言葉ではうまく表わせないけども、しおりは、私のことをこれ以上ないくらい大切にしてくれたと思います。大切に想ってくれていたと感じます。

 それが一番うれしかったです。

 この世は修行。

 私が死んだということは、私の修行期間が修了したってこと。

 しおりは、自分の分が修了するまでがんばれ! しおりには苦労をさせたと思うけど、それも楽しかったと思える人生にしてください。

 私は楽しかったよ。

 しおりといっぱいいろんな所へ遊びに行ったね。

 本当に楽しかったなぁ。

 またあの世で一緒に遊びに行こう。案内するよ。

 でも、しおりはいつもあの世なんか信じないって云い張って、一生懸命科学的に説明しようとしていたね。

 だから、私が死んだら、あの世があることを必ず証明しようと思います。

 天国の存在を知ってもらうために、この世の天国に近い部分、美しい景色や芸術、あたたかい歌や物語、そんなものにしおりが感動するように仕掛けをしよう。

 そして、天国の住人のように親切でやさしい人々に、しおりが好意を持つように。

 最後に、なんの打算もなく人を思いやる心を、素晴らしいと感じるように。

 もし、しおりが、景色をみて美しいと感動したなら、それは天国がある証明です。

 もし、しおりが、親切で優しい人々に好意を持ったなら、それは天国がある証明。

 もし、しおりが、なんの打算もなく、人を思いやる心を素晴らしいと感じたら、それは天国がある証明なんです。

 しおりは云うだろう。そんなのは、人類が滅ばないための種の保存の本能なんだと。

 でも、美しいものを美しいと感じる心は、種の保存とはまるで関係のないことでしょ?

 親切で優しい人々に好意を抱くことも、滅亡しないためとは何の関係もないこと。

 打算もなく人を思いやることなんか、ときには身の危険さえ伴うことかもしれない。

 それは、人間が帰ったあとの天国の世界を表していて、それをしおりが忘れないためのヒントなんだよ。

 反対も同じこと。

 暗闇を怖いと思うことも、人に害をなすものに嫌悪を抱くのも、自分のことしか考えない人をあさましいと感ずることも、それが地獄を表しているからだ。そういう人間になると、そういう世界へ行くことになる。それを忘れないように、ヒントを与えられているんだよ。

 だから、美しいものを美しいと感じる心を大切にしてほしい。人を思いやる心を大切にしてほしい。けして自分のことしか考えない人になってはいけない。

 それだけ心得ておけばなんの心配もない。

 旅行先から先に帰るようなもんで、すぐにまた会える。だから、残りの旅をめーいっぱい楽しんで帰ってきてください。

 眼を閉じて思い浮かべたらいつでも会えるしね。

 本当にありがとう。

 しおりと一緒で、私の旅は最高の旅でした。本当に楽しかった。

 ありがとう』


 葵さんの黒い両の眼から、パラパラとまた涙が零れ落ちた。それは大小さまざまな水晶の玉を一斉にばらまいたかのようだ。やがて水晶の玉は、水筋となって確かな流れを作る。それを葵さんの手が覆い、彼女は声を出して泣き始めた。

「葵さん……」

 僕は何もできずに、ただ声をかけた。

「なんでって、どうしようもなく綺麗ねんもん」

 葵さんの視線の行方には、夕日によって金色に照らされた世界が広がっている。 

 僕らを包むようにやさしく吹く風は、もうどこか秋の香りを含んでいた。 


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