4 はすはじめてひらく
よく晴れた京都ほど、気持ちが踊ることを僕は知らない。
待ち合わせの時刻より一時間早く着いて、ゆっくりと鴨川に下りる。
京都の朝は遅い。店なども十一時くらいから開きだし、観光客もそのころから一気に増えだす。それまでの時間はとても静かで、鴨川沿いにもほとんど人が見えない。それでも、祇園祭の期間に入っているので何処と無く雰囲気があわただしい。
僕は、鴨川沿いを三条方面へ歩く。待ち合わせは出町柳だ。二、三駅手前の祇園四条で下車し、ゆっくりと歩くことにした。川床が並びいかにも涼しげで京都らしい。
中学生の頃、模試かなにかで京都へ来て以来、僕は京都のとりこになった。なにがどういいのか、口では云いあらわすことができない。
やはり伝統ある町並みと、歴史ある風情がそう思わせる。そう云うと身も蓋もなくなる。そういった言葉では、やはり表すことができないなにかが、この町にはあるのだ。
あれから、なにか嫌なことがあったり、気分を変えたいとき、僕は自然とここへくる。
北山を正面に見て、並木の美しい鴨川沿いを歩く。
うそみたいに澄んだ空に、真緑の山。柳や桜の木が、青々と、そしていきいきと迎えてくれる。鴨川のせせらぎも透明で、耳あたりのいい音を奏でている。
クマゼミの少ない年に当たるのだろうか、遠くで聞こえるアブラゼミやミンミンゼミの鳴き声が、反って涼しげに聞こえる。アオサギや、カルガモ、カラスなどの野鳥もたくさん憩い、ここだけは、時間がゆっくりと流れているようだ。
ときおり犬を散歩させる人、走る人、読書する学生にすれちがう。
神を信じられない人は、この神の都に一度来てほしい。きっと、偉大な意思を感じざるを得ないだろう。僕は、葵さんを思い浮かべてそう思った。
鴨川沿いを延々と北へ上ると、やがて『鴨川デルタ』と云われる高野川との合流点にあたる。ここが出町柳だ。
時間にして三十分ほどだろうか。毎日走っている僕にはまったく苦にならない距離だ。それだけ景色が美しい。
約束の時間にはまだ二十分ほどあった。僕は読みかけの文庫本を取り出して川沿いに腰掛ける。くしくも京都を舞台にしたチープなミステリーだった。
僕は、これほどゆったりと読書ができることにとても幸せを感じていた。
スマホが乾いたギターの音でスナフキンのテーマを奏でる。
「はい。ついた? 駅までいくわ」
僕は、駅まで澪ちゃんを迎えにいく。まったりとした一人の時間はそうして終わりを迎えた。
「せっかくのお休みやのに、私なんかといていいん?」
澪ちゃんは会ってすぐそう云った。
「なに? 澪ちゃんは嫌なん?」
「めっちゃうれしい!」
澪ちゃんは力強くそう云った。素直な子だなと思う。うらやましい。
「体調はどうなん? 身体痛くないの?」
僕は澪ちゃんの症状がとても気になっていた。全身が痛くなるなんて尋常じゃない。
たまに起こす腹痛でも、そのときは死んだほうがマシだと思うもんだ。たいがいは前の日に食べ過ぎたとか、お腹を冷やしたとか、思い当たる理由があって、二度としないと強く誓う。この痛みさえ取れれば幸せだと思う。
喉元過ぎれば熱さ忘れるの言葉どおり、治ってしまうと誓いも痛さも忘れ、なお、痛みのないことの『幸せ』をも忘れてしまう。そうしてまた眼の前の美味そうな料理にしこたま食らいつく。
人は、失くしてから、与えられていた幸せにはじめて気づく。そして、まだ持っている幸せに気づかないまま、失った幸せをことさら嘆く。
でも、澪ちゃんの誘いにのったのはそれだけが原因ではないようだ。なぜだか僕は、とても人恋しかった。
「最近はないんやけど、これからの時期がいつもひどいん。ちょっと心配してはいる」
「これから?」
「毎年、八月ごろが一番ひどいん」
澪ちゃんはそれほどつらくないように話す。気を使っているのだろう。
「沖縄は台風で大変やのに京都は晴れてよかった! 最近地震とかひどいし、なんもなくてよかった!」
本当にうれしそうに澪ちゃんははしゃいだ。
しばらく北へ歩くと、糺の森にはいる。下鴨神社の参道である。
急に黙った澪ちゃんはなにやらもじもじしている。
「ん?」
僕は気になって澪ちゃんを見る。
「あの…… 手、つないでもいい?」
澪ちゃんは真っ赤な顔でそう云った。
そのときはじめて、澪ちゃんの姿が眼に入ってきた。ベージュを基調にしたインド柄のワンピースに、腕輪をたくさんつけて、首からもネックレスをさげ、茶系のサンダルを履いている。いつもはカールしている髪も、後ろで束ねていた。
かわいかった。申し訳なさそうにするしぐさも、愛らしかった。
僕は、なぜか返事ができなかった。
相手に気を使うということも、人と関わることを疎ましく思わせる。配慮してやったことが余計だと云われたり、遠慮して成さなかったことが指摘されたり、人と関わることは本当に難しい。
いつもはなんの遠慮もなしに腕を組んでくるのに、今日の澪ちゃんはケバケバしくもなく、ナチュラルメイクに、髪も落ち着いた色で、ネイルもしていない。高校のころの澪ちゃんに戻ったようだった。
「あ、いいねん! まだ、そんな感じじゃないやんな。いい!」
澪ちゃんは僕の様子を見て、あわててそう云った。
僕は、澪ちゃんの手を握る。澪ちゃんは驚いて僕を見た。
「まだそんな感じじゃないから、じゃあ練習ってことで」
わざとおどけた風をよそおった。
「うん!」
澪ちゃんはとたんに元気になって、僕の手を振ってスキップをはじめた。
「ここ、めっちゃいいとこやんなー。空気もきれいし静かー」
そう云って深呼吸をする。
「明治天皇陵の参道はもっといいで」
「そうなん? じゃあ今度いこ!」
それからしばらく、澪ちゃんの趣味の話をした。パワーストーンが好きらしく、石の種類や持っている力なんかの話をした。
「これは虎眼石なんやけど、お金を引き寄せてくれるねん。それに邪気を祓う力もあるんやって。こっちはホワイトハウライトってゆって、勇気とか強さをつけてくれるん。否定的な心を断ち切って、潜在能力を引き出すん!」
澪ちゃんはそこまで話すと、ハッとなにか思い出したように一瞬考え込んだ。
「これあげる!」
そう云って、白い石が数珠繋ぎになった腕輪を、自分の腕から外し、僕の左手につけてくれた。
「え? いいの? 高いんちゃうん?」
澪ちゃんはいたずらっぽく笑う。
「それ、浮気防止の力もあるねんて。だから強制」
澪ちゃんは笑って舌を出した。さっきの話を聞いて、今の僕にぴったりの石だと思っていた。
「あ、ありがとう……」
正面に朱色の鳥居が現れた。
右手の手水舎に向かう。
「あれ? 私、重い?」
澪ちゃんは僕が黙ったのを気にしてそう云った。
「ちがうねん。今の自分にぴったりやなと思って、うれしくて」
僕はひしゃくを手に取った。
「あ、澪ちゃんこれのやり方知ってる?」
澪ちゃんは得意げな表情でひしゃくを取る。
「もちろん! 神職の人と付き合おうと思ったら勉強しないと!」
澪ちゃんはそう云ってひしゃくですくった水で左手を洗い、右手を洗い、左手に水をのせて口をゆすぐと、最後にひしゃくの柄を洗った。
「昔の人はすごいね。ひしゃく一杯の水で、手も口も洗って、おまけに次の人のことを考えてひしゃくの柄まで洗うなんて」
しみじみそう云う澪ちゃんを見て僕は笑った。
「僕の見せ場がないやん」
「あ、そうか、ごめん!」
澪ちゃんも笑った。
二人は鳥居の前でお辞儀をし、中に入った。鳥居から境内の門まではまだ少しある。左手に小さな土産屋がある。少しずつ参拝の人も増えてきた。
やがて本殿に入り、二礼二柏手一礼の作法どおり参拝を済ませた。中にはたくさんの神様の社があり、僕は知っている範囲で説明をした。
「ここの神社って、光琉くんの神社と同じなんやろ?」
澪ちゃんの質問は、ご祭神がってことだ。
「うん」
「なにか関係あるん?」
その話はしたくなかった。実は関係は大有りなのだろうが、僕はあまり知らなかったからだ。妙な自尊心が、知らない自分を隠したいと思わせる。
「いや、実は僕、その辺のことはまだ知らんねん」
「まだ、一ヶ月くらいやもんね。光琉くん、もう何でも知ってるから何年もやってるみたい」
澪ちゃんはすぐにフォローをしてくれた。澪ちゃんとは、あれからずっとメールのやり取りをしていて、僕が加茂神社に勤めていることもうまく伝えていた。
僕は完全に休日の気の抜けた感じになっていたが、よく考えれば、今までのやり取りからある程度、澪ちゃんの状態がわかるはずだと思った。
「飯くいにいこか。安くてうまい店知ってんねん」
僕は以前澪ちゃんに云われたことを活かして、あえて澪ちゃんの希望を聞かなかった。
「うん!」
二人は京阪電車で三条まで戻り、駅を北東に出たすぐにある定食屋に入った。
「ここのお勧めは中華そばなん。でも、京都名物のにしんそばもあるで」
その古めかしい昔の定食屋さんを見渡しながら、澪ちゃんはあきらかにご機嫌な風だった。
「めっちゃ雰囲気でてる! じゃあ私中華そばにする!」
建物自体はとても古く、テーブルや椅子もくたびれた様子だが、よく掃除をされていて清潔なお店だ。京都は高くてまずい店が多いが、ここは安くてうまい。自慢の店だった。
「じゃあ、僕にしんそばにするから、二人でわけようか」
「うん! もう付き合ってるみたい!」
澪ちゃんのそういう言葉は、なぜかチクチクと僕の心を刺してくる。まだ、他人に深く関わるということを、できるだけ避けたいと思っていたからか。それにしては、頭の中に葵さんのことばかりが浮かんでくる。今日は何をしてるんだろう? 休みの日はどうすごしているんだろう? どんな部屋に住んでいて、どんなものに興味を持っているんだろう?
「ここ、テレビでも紹介されたことあるらしいで」
食べながら僕が云うと、澪ちゃんも口をもぐもぐさせて話した。
「すごいやん。おいしいもんな」
昔ながらの中華そばも、澪ちゃんは気に入ってくれた。にしんそばもおいしそうに食べてくれた。
その後、新京極を通って四条までいき、四条通をとおって八坂神社へ向かった。新京極でも、澪ちゃんはとても元気だった。両側に若い子むけの店やお土産やさんが並び、二人でからあげを食べたり、抹茶アイスを食べたりした。
ふと、勾玉のおみやげが眼に入る。また葵さんのことが頭によぎった。
途中、「誓願寺」という僕のおすすめのお寺による。ここの阿弥陀如来は、とても大きくて優しいお顔をされている。眼に残る金箔のせいで、まなざしに生命が宿っている。
境内の隅の湯船のように大きな鉢は、底の見えない泥でいっぱいだが、皿のような葉がいくつも浮かび、黄緑色の美しい茎がすらりと伸びて、白くて先端のみが薄紅い蓮が、みごとな花をつけている。そのつぼみは命毛に紅墨を蓄えた穂首のようだ。
新京極という賑やかな商店街の中にあっても、静寂がある。パワースポットだ。
澪ちゃんにも同じように説明し、二人で手を合わせる。
「神職の人が仏様に手を合わせるのはいいん?」
澪ちゃんは不思議そうに聞く。
「もともとは神仏習合って云って、神様と仏様はいっしょに祀られてるとこもあったんやで。うちの神社はその名残で今もいっしょやけどね」
そのあとも、たくさんの土産物屋や、店を通り、四条通を歩く。もうすごい人だ。
やがて、八坂神社の立派な門が見えてきた。ここも京都の中でもおすすめのスポットのひとつだった。
「なにがお勧めって、この狛犬と獅子がお勧めやねん!」
説明するのにも力が入る。その造形は、ほかにはないリアルなものだ。まるで、生きた狛犬と獅子がそこにいるように思われる。この狛犬と獅子を作った人には、本物が見えていたんじゃないだろかと疑うほどだ。それを見るたびに、半世紀以上、ここから四条通を見渡してきたこの狛犬と獅子に、畏敬の念を抱かざるにはおれない。
「光琉くんていくつなん? 十九の云うことじゃないで~」
その話をすると澪ちゃんは笑った。
そう云えば、葵さんは祈祷の最後に必ず狛犬を登場させる。天から降りてきた狛犬の背に乗って、迷える霊をあの世へ送るのだ。何故だろう。阿弥陀如来ならともかく、狛犬が死者を送るなんて聞いたことがない。本当に不思議な人だ。今までどんなふうに育ってきたんだろう。どんな友達がいるんだろう。どんなものに惹かれ、どんなものに感動するんだろう。
「光琉くん?」
つい考え事をしてしまった僕の顔を覗き込んでいる。
「ごめんごめん」
蘇民将来、猿田彦、事代主、ひとつひとつの社に祭られる神様の説明をしながら、本殿へと足を進める。本殿の手前に大国主が祭られる社があり、縁結びの神様として、そこだけがやたらとにぎわっている。
「ならぶ?」
大国主が縁結びの神様に特化しているというのは、僕には異論がある。それでも、人心を掌握する手段に「縁結び」が効果があるのは一目瞭然だった。
「うん!」
澪ちゃんは「もちろん!」といった風に列にならんだ。
澪ちゃんとよりそって縁結びの神様にお参りすることに、とても恥ずかしい思いをしながら、そこにともに祭られている少彦名の神に、澪ちゃんの病の改善を祈った。
いよいよ本殿の素戔嗚尊にお参りし、おみくじを引いた。
「何番?」
「四番。光琉くんは?」
「九番……」
「死と苦やな」
澪ちゃんは笑う。
案の定、二人とも凶だった。
「明けぬ夜はなし! 静かに朝をまつべし! か。ようするに夜なんや」
澪ちゃんは少しがっかりした様子だった。さきを読んでさらに肩を落とす。
「縁談、迷い起こりて先に進まず…… 光琉くんが迷ってるからかな……」
ぼそっと鋭いことを云う。
「でも、ほら、病気、長引くとも全快すって!」
僕は聞こえない振りをしてその部分を指さした。
「光琉くんは?」
今度は澪ちゃんが僕のおみくじを覗いた。
「縁談、急げば悪し! もう!」
澪ちゃんはそこだけを読んでほっぺたを膨らませた。
「おみくじはね、大吉とか、凶とか、関係ないねん。これは神様からのメッセージやから、よく読んで思い当たることを改善しなあかんねん」
日ごろ、参拝する人に話す話をする。そして自分のおみくじを見返した。
「人の背負いし修行の道を光明とせよ。か」
澪ちゃんはもう一度僕のおみくじを覗いてその部分を読んだ。
「なんか、かっこいいね!」
そう云って笑う澪ちゃんは、本当にかわいいと思った。
そのあとも、高台寺を通って清水の方へ行こうと思っていたのだが、のんびりしていたのでもう六時を過ぎていた。京都は、早いところでだいたい四時ころから店が閉まりはじめる。
「じゃあ、続きはまた今度来よう? 約束やで?」
澪ちゃんは次の口実ができて満足そうにしていた。
「晩飯どうする?」
僕はそう聞きながら、いいところを思いついていた。
「弁当でもいい?」
澪ちゃんは何でもいいと笑ってついてくる。
僕たちは大和大路通まで戻り、そこを北へ折れ、白川ぞいのコンビニに入った。
「?」
澪ちゃんは不思議そうにしている。
「ここで弁当買って食べよう」
僕はそう云って塩だれの豚めしとお茶をかごに入れた。
「なんか、おもしろそう!」
澪ちゃんも、京都らしいということで寿司とお茶を買った。
二人はそのまま二階へ続く階段を上がる。そこはイートインスペースになっている。
「すご~い!」
澪ちゃんも、僕の意図がわかったようで声をあげた。奥のカウンター席は、白川を見下ろせる特等席になっているのだ。
「大満足! 料亭みたい」
そう云って澪ちゃんは寿司をほおばる。
澪ちゃんは、ひととおり食べ終わって、デザートを追加で買いに降り、上がってきた。
デザートは、やっぱり京都っぽいという理由でみたらし団子だった。京都の人は、寿司もみたらし団子も京都っぽいとは思わないだろう。
「私、催眠術とか興味あるねんなぁ」
その澪ちゃんの突然の発言に僕は冷や汗をかいた。よく考えなくとも、僕たちのやってることはインチキなんだ。みんなの前で正直に話せる仕事じゃないんだ。そういう思いが一気に溢れ出てきた。
「催眠術できんの?」
僕は表には一切そういう気持ちを出さず、話を続けた。
「練習はしてんねんけど、なんせ相手がいーひんやんかぁ。あ、練習台になってくれるぅ? 私の部屋でやけど」
澪ちゃんはまたいたずらっぽい笑顔で誘惑する。
「それ、どんな催眠かけられるかわからんやん!」
その日はそうしてずっと笑って過ごした。心にいろいろなわだかまりが残るにせよ、とても楽しい一日だった。ほどなく電車で地元へ戻り、二人は何事もなく家路についた。
「今日一日、死ぬほどしあわせでした! でも、次はもっと遅くまで付き合ってくださいね?」
澪ちゃんはあらたまってそう云うと帰って行った。僕は、澪ちゃんのおっちゃんにメールで報告をした。
『光琉くん、ほんまにありがとう。澪も喜んでます。また付き合ったってな』
すぐにそんな返事が来た。
次の日、僕はいつも以上に気合を入れて仕事に取り組んでいた。
葵さんは夏祭りの準備といって事務スペースにこもっている。
昨年までは、地元の人の協力で秋祭りのみが簡単に行われていたようだ。葵さんは、なんせ経営能力がある。彼氏が社長なのも関係しているのだろうか。今年は屋台も並べて大々的に夏祭りをやりたいと、もうずいぶん前から計画していたらしい。
外は日本列島をなぞるように北上する台風の影響か、少し風が出てきていた。
沖縄、九州を直撃し、本州四国へ向かいはじめた台風のせいで、梅雨が明けても雨が降っていた。
この台風の進路。気にならないわけがなかった。日本全国を揺らす地震、そして予測通りなら日本中を巻き込む台風の進路。
「葵さん、毘盧遮那仏の涙についての文献って、お父様からお借りできないんですか?」
僕が極まってそう聞いたとき、葵さんもいよいよそれを考えていたようだった。
「そうですよね。この台風で夏祭りもできそうにないですし」
葵さんが楽しみにしていた夏祭りは七月十五日。明後日だ。台風のピークは明日の午後だが、明後日だとどうなるかわからない。
昨日から、業者さんや町内会の人との打ち合わせで本当に忙しそうにされていたが、どうやら中止の方向で話がすすんでいるようだった。
僕にできることがないのがとても申し訳なかった。
「光琉くんがいなかったら絶対できませんよ~。ここのことやってくれるから私が動けるんです」
それはよくわかっている。わかっているのに、なにか物足りない。葵さんの彼氏さんだったら、たくさんの人と物を引っ張ってくるんだろうと思うと、とてつもなく悔しくなる。
「もしもし? あ、私。お父さん、あの文献ってどこにある? ほら、毘盧遮那仏の涙。え? ここにあるん? あぁ、ちょっと探してみる。ありがとう」
葵さんはすぐにお父様に連絡を取ってくれた。文献はどうやらここにあるらしい。
「あの、父が云うには、こないだこっちに持ってきたらしくって……」
葵さんはそう云いながら受付の下の棚を探った。
「あ、これですね」
葵さんは、あっさりと棚の下から文献を取り出した。それは端を紐でくくられた本になっている。表紙の劣化は激しく、ハゲがあって題がわからない。
「意外といい加減な扱いなんですね……」
なんの蓋いもなく無造作に棚の下にしまわれているのを見て、ついそう思った。ふつう、木箱に入っていたり、風呂敷に包まれていたりするものじゃないんだろうか。
「なんか、書かれたのは明治初期なんですけど、正式なものではないらしくて、価値はもちろんありませんし、当時のいたずらかも知れないって父が云ってましたから、それでかもしれませんね。そういえば、こないだ父が云ってましたが、二年前の修復の時に出てきたらしいですよ」
葵さんが中を開くのを、僕は横で見ていた。
「あぁ~」
葵さんが納得したような、脱力したような声を出す。
当然毛筆で書かれた内容は、同じ日本語とは思えない。はっきり云って全く分からなかった。
「わかります?」
葵さんはこちらに本を向ける。
「わかるわけないっす」
僕は苦笑した。
「どうしましょう~」
葵さんはたいして困ったような口ぶりではないが、そのままへたるように座った。
「困ったなぁ」
そのとき、渋いギターの音が流れた。スナフキンのテーマだ。僕は仕事中はマナーモードにしているはずだ。すぐに確認する。
「あ、お父さん? こんなん読めるわけないやん。うん。うん。そうなん? わかった。じゃあ待ってる」
「え?」
僕は葵さんの顔をじっと見た。
「ん?」
それに気づいた葵さんもこっちを見た。
「訳を書いたのを父がメールでくれるそうです」
葵さんはいつものようにニッコリと笑った。
「葵さん、着メロムーミンなんですか?」
葵さんは、「あぁそこか」という表情で答えた。
「なんか好きなんですよ〜」
「僕もなんすよ! ムーミンの原作読んだことあります?」
興奮してついマニアックな内容に踏み込む。
「もちろんです! ムーミンって子供の話じゃないですよね」
「ですよね! あれは哲学ですよね!」
ずいぶん二人でもりあがったあと、葵さんは、奥の事務スペースのパソコンにメールを確認しにいく。しばらくして大量のプリントアウトを持って戻ってきた。
歴史的な背景の説明など、長々とあったものの、大切な部分の内容はごく簡単なものだった。抜粋すると次のとおりだ。
『やがてくる人類滅亡の時のために、ここに我がたまへし天の言葉を記しておく。
この書とともに安置されたる毘盧遮那仏が持つ勾玉は、この毘盧遮那仏が、人類滅亡をかこちて流しし涙の結晶なり。
この勾玉が、毘廬遮那仏の手を離れ、世に出でるとき、封印解かれ、秋津島より人類滅亡の危機が始まる。
天変地異がここそこで起こり、やをらいみじくなる。
この勾玉をまうけしものの祈りのみが、その命と引き換えにそれを止むべし。
ただし――
これをどう使ふやはのちの世の人次第なり。
我はこれを善人に託したし』
「これが本当ならやばいかも」
葵さんはもう一度メールを読み直し、ぽつりと呟いた。
僕もメールをのぞく。
「ただしの後がないですね」
僕はすぐに原本のその部分を確認した。
「あぁ」
その部分は雨にでも濡れたのか、カビが生えぼやけてしまって読めない。葵さんも僕も、それ以上はその部分について追及することはなかった。
「内容が本当でなくても、人類を滅亡させたい人が身近にいるということですね。なんか、寂しいことです」
葵さんはそう云ってため息をつき、メールを印刷した用紙をトントンと整頓した。
「そこまで知らない可能性もありますよね? 願いが叶うという部分しか知らない人の方が多いわけですし」
僕はそうであってほしいと思いながら云う。
それから、台風に備えて、飛んでいきそうなものを社務所の中にしまうことにした。ほうき立てや、塵取りなどを中に取り込む。
「前に、光琉くんが話してくれた除霊の話。単純な算数やって」
不意に葵さんが話をはじめた。
「除霊でも催眠でも同じですって云いましたよね。私、だから光琉くんにきてもらったんですよ? 私が十しかなくても、光琉くんも十あれば、二十になるでしょ?」
二人で大きなほうき立てを運びながら、そう云えば、このほうき立てのドラム缶も、一人で運ぶのは大変だなと思った。
「仲間は多い方がいいですもんね!」
葵さんはいつものように笑っていた。夏祭りのことで、直接手伝えないことを情けなく思っている僕の気持ちを理解してくれているのだろう。
それは巨大な亀のように、のっしりと動き、遅々として進もうとしなかった。
すでに被害は各地で大きくなりつつあった。
九百五十五ヘクトパスカル。最大瞬間風速六十メートル。強い台風九号。
このままだと、十五日には大阪は直撃。夏祭りはやはり中止となる。
下鴨神社とうちの御祭神にあやかって、「御手洗祭」と名付けられたはじめての夏祭りだった。
晩飯をすまし、部屋にいた僕は、予期せずスナフキンのテーマを聴く。澪ちゃんからだ。平日にメールはあっても、電話がかかってくることはまずない。
「どうしたん?」
心配して電話に出る。
「光琉くん、今から家これる?」
電話先の澪ちゃんの声は、いつもの明るい声ではなく、切迫したものだった。
「どうしたんて?」
「お願いします! 地図、メールで送るから」
「澪ちゃんちは知ってるけど……」
「あ、そうか」
なにか事件にでも巻き込まれたような緊張した感じで電話は切れた。
僕は仕方なく、いつものようにTシャツにカーキーのカーゴパンツをはいて、ホワイトハウライトの腕輪をした。財布をズボンのポケットにねじ込む。
「ちょっとでてくるわ」
メットとキーを取ると、玄関を出た。
幸いまだ雨は降っていない。風がそこそこあったが原付をとばせば三分もかからない。すぐに澪ちゃんの家が見えてきた。建て替えられて昔の面影はない。原付を無造作に門の前に止め、インターフォンを鳴らす。
「開けます」
返事があり、門のカギが開く。玄関で「鴨野です」と呼んでみるが返事はない。中に入って二階に上がると、奥の部屋で扉を開けてもう澪ちゃんが待っているのが見えた。
髪をアップにし、タオル地の明るいボーダー柄のキャミソールと短パンを履いている。明らかに部屋着だ。足が細いのが目立つ。すっぴんでもかわいいのはかわらない。むしろその方が僕の好みではあった。
「どうしたん?」
僕は空き巣でも入ったのかと心配していた。
「とりあえず入って」
澪ちゃんは青い顔をしてそう云った。僕は云われるままに中に入った。
中は、左にベッドが縦に置かれ、右の壁は一面クローゼットになっている。ベッドの向こうにテレビ、冬はこたつとして使っているだろう小さなテーブル。右の手前におしゃれな丸机と椅子があり、小さなノートパソコンが置かれてる。奥はベランダになっているが、白いカーテンがかけられ外は見えない。
いずれも白と薄いピンクを基調に揃えられて、いかにも女の子の部屋だ。左の壁には、小物を並べる棚がランダムに備え付けられている。そこにはパワーストーンのアクセサリーがたくさん並んでいた。
「恥ずかしいんで、あんまみんといて」
修行の成果か、職業病か、つい僕はひととおり部屋の様子を見た。澪ちゃんに云われてから気づいた。
「あんまり他の人入れたことがなくて、お客さん用の椅子とかないねん。そこでも座って」
と云って、澪ちゃんはベッドを指した。
僕はとてもベッドに座ることはできず、奥の薄いピンクの座椅子に座った。
「今、コーヒー入れるし」
「澪ちゃん、どうしたん?」
僕は立ち上がって、澪ちゃんを見る。
「すっぴんなんで、あんまみんとってって」
澪ちゃんは恥ずかしそうに話す。
「びっくりやんな? ほんまごめん。でも、光琉くんしか頼める人おらんくて」
澪ちゃんは電気ケトルのスイッチを入れ、カップにインスタントコーヒーの粉を入れた。
「砂糖とミルクどうする?」
「ブラックでいいよ」
僕は、柱にもたれ、澪ちゃんを見ていた。
「なにをすればいいん?」
澪ちゃんは唇をかんで黙って、沸いたお湯をカップに注ぐ。
「できました。」
澪ちゃんは、カップをトレーにのせて奥のテーブルへ運んだ。僕はあとについていく。
「あ、光琉くん座椅子使ってな」
一つしかない座椅子をすすめ、澪ちゃんは奥のテレビの前に座った。
「私、もっとケバいイメージなかった?」
澪ちゃんは、部屋のかわいらしいイメージが恥ずかしいのか、そう云ってそばにあった薄いピンクのヒラヒラのクッションを抱きしめた。
「女の子~っていう部屋やもんね」
僕はほめたつもりでそう云った。澪ちゃんは顔を赤くしていた。
「それで?」
僕はコーヒーカップに手を付けた。
「……そばに、いてほしいねん」
澪ちゃんは聞こえないような小さな声でそう云った。僕はほんの少しうれしい反面、ちょっと怒りに似たものが沸きあがってくるのを感じる。
「違うねん!」
それを打ち消すように澪ちゃんは今度は大きな声をだした。
「ちょっと聞いてくれる? 長くなるんやけど……」
そう云って澪ちゃんは話をはじめた。
「あれ、もう一年くらい前かな。
私が鍼の先生のところへ通いだしたころ。
ちょうどこの時期から八月にかけて、体調がすごく悪いねん。
あのときも、私、発作がでて、鍼灸院のマンションの前でしゃがみこんでしまったん。
もう身体中痛くて、気を失いそうになってて。でも、人に見られたら救急車を呼ばれてしまうし、どうせ病院行っても一から検査して、結局効かない痛み止めを処方されるだけやし。
やから、私、必死で路地に入ってん。
そしたら、光琉くんが私を見つけてくれて、やっぱり救急車を呼ぼうとしたんやけど、私が首を横に振って手を出したら、光琉くん、何も云わずに私の手を握って、私の隣に座ってくれてん。
私、そのまま寝ちゃったから、たぶん何時間もそのままやったと思う。
あのとき、なぜか痛みが引いたねん。
すごく安心した。
一度発作が出たら、一日は痛みが引かへんのに、あのときはすぐに引いて、私眠っちゃたん」
そう云われてみれば、そのできごとははっきり覚えていた。
「あれ、澪ちゃんやったんや」
あのとき、救急車を呼ぼうかどうか本当に迷ったことを思い出した。それでも、彼女が寝息を立てて寝てしまったことと、勇気さんがすぐそこにいるという安心感で、僕は結局救急車を呼ばなかったのだ。
地味だったころとは違い、茶髪に染めてつけまつ毛をつけ、化粧も濃く、げっそりと痩せていて、マスクをしていたし、ほとんど話さなかったので、澪ちゃんとは全く気付かなかった。目を覚ました澪ちゃんは「すみませんでした。もう大丈夫ですから」とそっけなく行ってしまった。
「やっぱり覚えてへんよね」
澪ちゃんは力なく笑った。
「あのとき、ほんまに死にそうに苦しかったから、私にとって光琉くんはものすごい人やねん。何時間も黙っていっしょにいてくれたんやもん。なかなかできんよね。
だから、実際、お話しできたときは、本当にそのあと一週間くらい機嫌がよかったし。でも、自分から話しかけることはなかなかできんかったん。
意外やろ?
あのとき偶然眼の前でバイク押してる姿みて、本当にドキドキやったし、お父さんが何も考えずに声かけるからびっくりした」
僕は本当に意外に思っていた。澪ちゃんみたいに明るい子は、人に話しかけるなんて簡単なことなんだろうと思っていたからだ。もちろん、僕は知らない人に話しかけるなんて、仕事以外では絶対ありえない。
それにしても、こんな僕のことをそこまで想ってくれるには、そんな理由があったのか。
「それから、私、ひどい発作が少なくなってたん。でも、一カ月くらい前から、私、気付いたら気を失ってることが多くなってて、その間の記憶がなくて、ものすごく怖くて」
抑えきれなくなった涙が、ぼろぼろと大きな瞳から零れ落ちる。クッションを抱く手がきつくなる。
「もうほんまに怖くて、どうしたいいかわからんくて、それで、光琉くんを呼んじゃってん」
葵さんが聞いたら笑うかも知れない。それでも僕は、ものすごい邪気を感じていた。間違いなく霊障だ。
僕は澪ちゃんの涙を見て決意し、単独で現場検証をはじめた。
「そもそも、一番最初に発作が出たのはいつ?」
僕はいつもの癖でメモを取りたくて、澪ちゃんにかわいらしいメモ用紙とペンを借りた。
「もうずいぶん前。小学生のころやったかな? はじめのころは、一回出たらしばらくならんかったん。一年とか、二年とか」
澪ちゃんはクッションを抱いたままコーヒーをすすった。
「続くようになったのは?」
「最近。だから、二年くらい前かな。おととしの夏がひどかったんで、去年は先生の所で見てもらってん」
順を追って考えないとさっぱり見当がつかない。二年前と云えば、あの事件が真っ先に思いつく。だが、小学生のときからとなると他にも訳がありそうだ。僕は慎重に質問を続ける。
「はじめてなったときの場所は?」
「ばーばんち」
「おばぁちゃんちはどこ?」
「鹿児島」
メモを書く手を休め、ぬるくなったコーヒーを一口飲む。打つ手なしだ。まったくわからなかった。
「そう云えば……」
澪ちゃんが何か思い出した。
「関係ないかも知れんけど……」
このフレーズ。僕は次の言葉を息をのんで待った。
「ばーばんちにいるとき、よくじーじの幽霊が出るって云ってた」
間違いない、それだ。僕は強くそう感じた。
「おじいちゃんはいつ亡くならはったん?」
「昭和二十年て。戦争で……」
戦死だった。もう七十年以上前のことだ。
澪ちゃんのお父さんはバツイチで、五十歳で二十五歳年下の澪ちゃんのお母さんと一緒になったという。
「おじいちゃんはどこでどんな風に亡くなられたか知ってる?」
「私、よく知らへんねん」
不機嫌とも取れるその返事は、澪ちゃんがあまりその話をしたくないことを明らかにしていた。それは、問題の原因がそこにあることを表している可能性がある。
その死に方は、全身が痛かったに違いない。僕は確信していた。
すぐにスマホを澪ちゃんに借りた充電器に刺し、手前の机に立てる。これで、今晩の部屋の中を撮影するのだ。
澪ちゃんはどういうわけか疲れ切った表情をしていて、すぐにでも眠ってしまいそうだったが、僕が帰るというと、聞かなかった。おっちゃんが仕事の関係で二、三日帰ってこないらしい。お母さんはちょっと前に別居したそうだ。
「お願いします! 今日だけでもいいから、ここにいてください!」
その姿は、もうなにか他のものを憑依させているんじゃないかと思わせた。僕は、澪ちゃんをベッドに寝かせ、撮影の邪魔にならないように奥のテーブルをどかせて眠ることにした。部屋の灯りはつけたままだ。
深夜、澪ちゃんはやはり香波さんと同じように三時ころにうなされはじめた。低い声で咳き込むように何かを唸っている。その声は男のようだ。しばらくは様子を見ていたものの、あまりに苦しそうなので僕は立ち上がって声をかけた。
「澪ちゃん! だいじょうぶか!」
僕は何度も声をかけて身体をゆする。なかなか目を覚まさないので、背中をパンと叩いた。
「大丈夫?」
澪ちゃんがゆっくり目を覚ます。
「う~ん」
「どんな夢見てたん?」
澪ちゃんは寝顔を見られるのが恥ずかしいようで、両手で顔を隠した。
「はずかしい~」
そう云って布団に顔をうずめた。
「夢は?」
「覚えてない~」
僕はすぐにスマホの映像を確認する。
三時前、澪ちゃんがうなされだす少し前、ベッドの周りを無数のオーブが飛ぶのが見える。明らかに虫ではない。
「やっぱり……」
それから、僕はベッドの横に座り、澪ちゃんの手を握って彼女が寝るのを見ていた。やがて朝が来て、僕は部屋を出ようとした。
「澪ちゃん、これは僕の手には負えないから、葵さんを連れてまたくるから」
そう云って説得するが、彼女は聞かない。光琉くんじゃないとダメだ。光琉くんなら大丈夫だ。最初の時も痛いのとってくれたやん。と泣くばかりだった。
仕方なく、僕は今日も仕事のあとに来ることを約束して部屋を出た。
「おはようございます。朝帰りですか?」
僕のレインコートの隙間から顔を見るなり、黒い傘をさす葵さんは云った。
「えぇ?」
どこかで見られたかと思い、僕は不審な声をあげた。
「あら、ほんまに朝帰りですか?」
葵さんはいつものように笑った。
「もう! なんでわかるんですか? てゆーか、違いますけど!」
僕はあわてて云い訳をする。
「別に隠すことないじゃないですか。仕事に支障はないんでしょ? いや、その朝から疲れた感は支障ありますね」
二人は別々の部屋で袴に着替えた。今日は表を掃くのは無理そうだ。雨風が強くなっている。
「あの、朝帰りとかじゃないですからね!」
何度もそう云いながら、中の掃除をはじめた。詳しく説明できないのがもどかしかった。
掃除をしながら、何度も昨日のことを葵さんに話そうかと悩んだ。なにか嫌な予感がつきまとい、ひとりで何とかする自信が出てこなかった。簡単にいうと、僕のエネルギーが十なら、相手のエネルギーがそれを大きくうわまっているという予感だ。
「あ」
ついと葵さんが声をあげた。
雀ちゃんのことがあってから、毎日本堂を確認するようにしていた。ちょうど葵さんが本堂の格子戸を確認していたところだ。
「どうしました?」
僕は受付の窓を開け、身を乗り出して確認する。よく見えないので、気になって傘をさして葵さんのところへ歩をすすめた。
「うぉ!」
雨風が強く、傘が反り返る。葵さんはちゃんと黒いポンチョ型のカッパを着ていた。その姿は、黒いてるてる坊主のようで、さしずめ黒頭巾ちゃんと云ったところだ。
「格子戸が、キチンと閉まってないんです」
葵さんが、ズレた格子戸を指した。
「ホンマですね」
僕は格子戸を戻す。
「雀ちゃんの他にも、毘廬遮那仏の涙を狙ってる人間がいるんですかね?」
格子戸をはめながら、思い当たる人物を探してみるが心当たりはない。僕の予想では、盗み出した犯人は伊藤だ。伊藤以外は思い当たる人物はいない。台風の風で外れるようなことはないと思う。
「びしょ濡れじゃないですか」
葵さんはうしろから小さな黒いハンカチで背中を拭いてくれた。
「この勾玉をまうけしものの祈りのみが、その命と引き換えにそれを止むべし」
葵さんはもう一度例の文を暗唱する。
「そんなわけないですよね~」
葵さんは独り言のようにそう云った。
ここまでの経過を整理しようということになり、部屋に戻って順にまとめていく。僕はあいかわらずそれをメモに落としていた。
そもそも、どこからか「毘盧遮那仏の涙」が何でも願い事をかなえるという噂が起こった。その噂をもとに伊藤がテレビでそれを流し、螢ちゃんと雀ちゃんは、幼馴染の蓮くんの無念を晴らすため、「毘盧遮那仏の涙」を盗み出したと思われた。
ところが、実際は二人が盗んだのではなかった。
それに「毘盧遮那仏の涙」は、願いを叶えるものではなく、人類滅亡を止める働きをするものだった。しかも、それを祈った人物は死ぬという。
そのことを知っているのは、葵さんと僕と葵さんのお父さんということになる。
この一カ月の間に、練習のためにおおぬさを何度か手作りしたことがあった。それをタンスから引っ張り出し、ごみ袋へ入れてしっかりと縛る。
「なにに使うんですかそんなもの」
葵さんはどこまで勘付いているのか、不思議そうに僕を見ていた。
「いや、うちでも練習しようと思って」
なるべく不自然にならないように返事をえらぶ。
「ずいぶん熱心ですね。睡眠不足に気を付けてくださいよ」
今朝の疲れ切った顔がよくなかった。
「それより、毘盧遮那仏の涙はどうするんですか?」
葵さんのデザインを描く手が止まった。
「どうしましょうねぇ~」
めずらしく打つ手がないようだ。
「僕、伊藤やと思うんです!」
僕は思い切って話した。
「私もそう思います」
やっぱり葵さんはわかっていたのか。動機もはっきりしている。僕らの過失にして、ひどい災害があれば、それに合わせて記事にするつもりだろう。あとは、伊藤がいつ、どうやって持ち出したのか、その証拠を突き止めなくてはいけない。
そこまで考えて、もう一つ疑問にぶつかった。
「でも、伊藤以外にも狙ってる人間がいるってことですよね……」
僕の呟きに、葵さんは「なんにか大事なことを忘れてる気がするんですよね〜」と大きなため息をついた。
「おしゃれですね」
葵さんは何気なく僕の腕を見て話を変えた。普段仕事ではしてこないんだが、今日は澪ちゃんの家からレインコートを取りに戻ってそのままきたので、左腕にホワイトハウライトの腕輪がついていた。
「ホワイトハウライトですね。忍耐力を高め、身代わりになってくれる石ですよね。ネガティブな感情や、不満による怒りをしずめ、冷静さと洞察力を取り戻す癒しの石。純粋さや平穏を象徴し、心身を浄化する働きがあり、精神や身体を強化します。冷静になれるという意味合いから、浮気防止としても贈られることがありますね」
葵さんは、澪ちゃんより丁寧に説明をしてくれた。何と答えてもダメなような気がする。
「えっと、これはもらいもので……」
「でしょうね」
そんなことはわかっていると云わんばかりだ。僕が頭をかいて下を向くと葵さんはさらに続けた。
「流行ってるんですね」
僕が返答に困り果てていると、葵さんはその話はここまでといった風に次の話題に移った。
「これどうですか?」
そこには白と黒の勾玉を根付のようにしたもののデザインが描かれていた。それぞれ別物だが、合わせると太極図になる。見たことはないが、本物の毘盧遮那仏の涙もこんな風なんだろう。
「これやったら、カップルとかにも売れそうですね。縁結びにも効果があればなおさらですね。意外とぴったりはまる勾玉ってないですもんね。まぁ、もともとそういう用途ではないか」
葵さんは満足そうにデザインを見た。
「色のバリエーションつけてもいいですよね。好きな色同士でとか」
根付の紐の部分の色とか、素材をどうしようかと、真剣に考え始めた。
「夏祭り中止の分、こっちで稼がないとね~。ブームが終わる前に」
云いながら、葵さんは奥のパソコンへ行ってしまった。
帰り、バイクで帰るのはかなり危険な状態ではあった。
「送りますよ」
葵さんはそう云ってくれるが、今日はそうもいかない事情がある。
「いや、まだだいじょうぶです。カッパきて帰ります!」
葵さんはきょとんとしている。外は暴風雨で、とてもじゃないがバイクで帰れるような状態ではなかった。
「嫌ですか? 私の車」
「いや、そうじゃないんですよ~。今日、どうしても知り合いのうちによらなあかんくて……」
葵さんはそれを聞いて察したように「あぁ」と何度かうなずいた。
「それはお邪魔しました。お疲れ様でした」
そう云うと葵さんは割とそっけなくすぐに帰ってしまった。
僕には『隠す』癖がある。
小学生の時に父親を亡くしたうちの家庭は、母親がきりもりをしてきた。今にして思えば、大変な苦悩があったのだろうと推しはかれる。
論もなく、母親はいつも疲れ切っており、たいていはイライラしていた。八つ当たりは日常茶飯事で「誰のために苦労してると思ってんねん!」と怒鳴られることもしばしばあった。僕は、そんな母親の顔ばせをたえず伺って生きてきた。母親の不機嫌の種を一早く嗅ぎ分け、先まわりして対処してきたのだ。
母親の人格を疑われても困るので、簡単に弁護しておくが、けして悪い人間ではない。看護師として、朝な夕な働き、僕をここまで育ててくれた。
なんにせよ、そうした経験に基づいて、いつの間にか『嘘』をつくことも、『隠す』ことも、入り用の智恵だと思うようになった。事実を告げて、格闘するくらいなら、小さな方便を用いて、あるいは事実自体をなかったことにして、事なきを得るにこしたことはないと思えたからだ。
ここに来て、芯まで染み付いたその発想が、自分を縛っている要素となっていると思うことがある。こうしたことは、多かれ少なかれ誰にでもある悪い癖だろう。
悪い癖。
これは誰もが持ち合わせているであろう難儀と云えはしないか。大衆はいかにすると、この難儀から逃れることができるだろうか。
僕には他にも、人と関わろうとしない悪い癖がある。理想の自分になれない不満が、買食いや無駄遣いに迷い込ませたり、疲れに任せてものぐさな間を過ごす。こうした悪い癖が、自分の目指す幸福な人生への壁となって立ちふさがり、新たな鬱積の元となる。
とどのつまり、葵さんに黙って行動することも、こうして話をややこしく仕立て上げることで本質を曖昧にし、僕は罪悪感から一時的に逃れようと画策しているのだ。それがいずれ自分に返り、多かれ少なかれ、あらたな惨苦を生むと知りながらだ。
澪ちゃんのマンションについたとき、僕はもうびしょ濡れだった。
「うぁー大変やん! すぐお風呂入って!」
僕はゴミ袋に入れたずぶ濡れの荷物を玄関に引っ張り込む。
「ごめん。玄関もびちゃびちゃになった」
「いいよー。ほらはやく!」
玄関から浴室はすぐだ。澪ちゃんは浴室でお湯の調整をしていた。
「体調は?」
「だいじょうぶ! 昨日よりすごくいい! これ使って」
バスタオルを受け取る。
僕は迷った。人のうちで風呂に入るってことは、そこそこ親密な関係だ。ましてや、付き合おうかどうか悩んでいる相手のうちでとなると、だいぶ重要な意味を持つ気がした。
「ほら、風邪ひくよ!」
澪ちゃんは強引に僕を脱衣スペースに押し込み、扉を閉じた。僕がきちんとした態度をとらないから、澪ちゃんのペースに流されてしまっている。
シャワーに打たれながら、僕はよくよく考えた。
どうするのが正しいんだろう?
人はどう生きるのが正解で、ゴールはどこにあるんだろう?
今わかっているのは、澪ちゃんを何とかしてあげたいということ。そして僕は、それが何とかできる「霊能師」という仕事に就いたこと。たとえインチキでも、葵さんのやり方は成果を上げてきた。ということは、本人にそのつもりはなくても、何らかの作用はあったということだ。それを僕は一から学んだ。必ずできる。
僕は風呂から出ると、澪ちゃんが用意してくれていた着替えを着て脱衣スペースをでた。
「なんで男もんのトランクスとかあるん?」
澪ちゃんは狭い廊下で、僕をよけながら答えた。
「お父さんの予備」
僕は頭を拭きながら玄関のごみ袋を空ける。
「なるほど」
「Tシャツもジャージも私のやからちっさいかな」
確かに少し丈が足りないが気にならない。それより色が黒いのが嫌だ。なぜだろうか、僕は黒があまり好きではなくなっていた。
「大丈夫」
僕はタオルを首にかけて道具を一つひとつ取り出した。三種の神器もこっそり持ち出した。
「チャーハンでいい?」
「え? 飯作ってくれんの?」
そう云えばなにやらいい臭いがする。
おおぬさを取り出すと、はらりと何かが落ちた。
「祭壇は東側につくること。自信を持つこと。それでも手に負えない場合はあきらめて後日私を連れていくこと」
そう書かれたメモが荷物の上にのった。それは根付のボツデザインが描かれたメモの裏だった。
「葵さん…… やっぱ知ってたんや」
「…… くん!?」
澪ちゃんは何度も僕を呼んでいたようだったが、僕には全く聞こえていなかった。
「ごめん。なに?」
「チャーハンできたよ」
澪ちゃんの部屋で澪ちゃんはテレビの前に座り、僕は座椅子を渡されてこたつの上でチャーハンとオニオンスープを食べた。
この家は新築だから大丈夫だろうが、外ではごとごとと風があたる音がひっきりなしにしていた。
「おいしい! 澪ちゃん料理うまいな! 作るのはやいし」
僕の中で澪ちゃんの評価がまた上がる。いい女の条件二つ目クリアだ。
「お世辞はいいよ~。おかわりあるから」
二人は機嫌よく食事をした。あまり難しいことは考えない方がいいのかもしれない。
食事のあと、一緒に皿を洗った。
テレビをどかしてこたつを置き、その上に鏡、剣、勾玉の三種の神器を並べて、榊木をたて、水、塩、米、酒に見立てた水を並べる。
澪ちゃんは「もうそんなんいいやん。ゲームしようや」と僕の腕をひく。
憑依霊が、払われるのを嫌って邪魔をするのだと聞いたことがある。
葵さんは、潜在意識で治るのを恐れているからだと云っていた。長い間患っていると、治ったあと社会に溶け込めるかどうか不安になり、治るのを恐れるのだという。
祈祷の直前や、最中に「もうやめる」と云い出す人がたくさんいるらしい。なかには暴れる人もいるそうだ。そういったことを踏まえて、祈祷を最後まで行うよう書類で説明し、了解を得るのだ。
澪ちゃんを云いくるめて後ろに座らせ、僕は祈祷をはじめた。
「澪ちゃんの中にいて、身体に痛みを起こすものよ、潜在意識から出てきてください。澪ちゃんの口を借りて、その理由を話してください」
僕は澪ちゃんの横に座り、澪ちゃんの背中をゆっくりとさすりながら、何度か同じことを云った。
「澪ちゃんの中にいるものよ、この子の口を借りて理由を話したまえ」
澪ちゃんは下を向いて気を失ったようにしている。かと思えば、しばらくして「痛い痛い」とわめきだした。
「体が痛い! 熱い!」
「あなたはどなたですか? 名前を教えてください!」
僕は強くそう聞く。右手にはおおぬさをもち、左手で背中に手を添えている。
「痛い! 痛いー!」
澪ちゃんはバタバタと暴れる。
「あなたは、この子のおじいちゃんでしょ?」
僕は今度はやさしくそう聞いてみた。
何度かそう聞くが、澪ちゃんは暴れるばかりだ。
「どうされたんですか? なぜお孫さんを苦しめはるんですか?」
僕の質問に澪ちゃんは眼を向いた。
「かぁー!」
動物が牙をむくように、僕を威嚇する。
「澪ちゃんは、ほんとうに困ってるんですよ?」
「許せん! 許せん! 許せん!」
今度は許せないと連呼しだした。いったい何が許せないのだろうか。爪をたててフローリングをガリガリとひっかく。
「痛い! 痛い!」
そう騒ぐ澪ちゃんの背中をゆっくりとさすりもう一度聞いてみた。
「何が許せないんですか?」
「わからんのか?」
男の声でこっちを見る。
「わからんのかぁ!」
澪ちゃんは立ち上がり、辺りのものに当たり散らした。比較的何もない部屋だが、テーブルとイスが倒され、パソコンが落ち、パワーストーンもあちこちに散らばった。簡易に作ったコタツの上の祭壇もコタツごとひっくり返された。
「澪ちゃん! 落ち着いて!」
僕は澪ちゃんを後ろから抱きしめて、抑えつけた。
「もういいから、もういいから」
僕はそう云って澪ちゃんの背中を何度か叩いた。澪ちゃんは力が抜けたようにその場にへたり込んだ。
「ごめんな、ごめんな、僕がもっとできれば……」
僕は部屋を片付けながらもうずっと謝っていた。
「だいじょうぶ…… 私が悪いねん。でも、じーじのせいで身体が痛かったなんて、それがわかっただけでもなんか納得」
澪ちゃんも疲れ切ったように、石を拾ってはケースに入れた。
「ごめんな。ほんまにごめんな」
「いいから〜。ほんまに大丈夫やから〜」
澪ちゃんの声の疲れ具合が、余計に申し訳なく思わせる。
「ごめんな。ほんまにごめん」
「もう謝らんといてよー。なんか、私、責められてるみたい……」
澪ちゃんは泣き出してしまった。
「ごめん! ちゃうねん。そんなんちゃうねん!」
僕はあわてて澪ちゃんの背中をさする。
台風の目に入ったのか、さっきまでの暴風は嘘のようにおさまっていた。
「雨やんでるね……」
澪ちゃんのその言葉を聞いて僕は帰り支度をはじめた。
なにか云いようのない重い空気が流れていて、その場にいるのが息苦しい。
「ごめんな。絶対何とかするから」
「こっちこそ、今日のことは忘れてください。嫌いにならんといてね……」
僕は逃げるように外へ出た。