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インチキ霊能師しおりの祈祷暦   作者: あかさたなは
3/7

2 なつかれくさかれる

「光琉くんて、幽霊とか詳しいんですか?」

 その日はこれといって珍しいことはなく、朝から日常の通り袴に着替えて境内の掃除をはじめた。仕事のおおかたは清掃だ。はたき、雑巾がけ、掃き掃除、ごみ拾い。くる日もくる日も整頓する。これには、おそらく心を綺麗にするという意味合いもあるのだろう。掃除自体は嫌いでは無いけども、三日もすれば飽きる。たいして汚れもないが、小さなお社といっても二人でこなすには手間がかかる。

それに毎日箒を振っていると、すぐにまめができる。僕の手の、箒の柄が当たる部分には、たくさんの絆創膏が張られていた。

 お守りのいろいろあるのや、おみくじの口分けなんかも覚えなくてはいけない。おまけに葵さんはなにも教えてはくれない。まだ、勤め出して七日と過ぎていないのだからやることはいくらもあった。

「私、あんまわからないんですよね」

 うちの神社には、本殿のほかに「金毘羅宮」と「御手洗大明神」の小さな社がある。社務所の裏には遥拝所もある。そちらの方もしかるべく片付けなくてはいけないし、それぞれの御祭神についてもよく知っておかないといけない。

 よくよく聞くと、この神社に人が駐在するようになったのは、ほんのこの頃のことで、そうなるまでは、田中さんのような地元の人が好意で掃除をしてくださったり、京都の大きな神社から定期的に人が来ていたという。

「光琉くんは詳しいんでしょう?」

 葵さんは箒の柄に両の手を重ねて乗せてこちらを見ていた。

「あぁ、基本的なことは知ってますよ。ほとんどネットから仕入れた知識ですけどね」

 集めた落ち葉なりを塵取りに放り込む。小さな雑木林に囲まれているので、この時期でも毎日何かしら掃くものはある。ただ、濡れているので掃除はしにくい。

「ほんまは、人は死んだらどうなるんやろう……」

 葵さんは僕から竹箒を受け取って、箒立てに使っているドラム缶に立てる。社務所の外にあり、ボランティアの人でも自由に使うことができるようになっている。

 僕は、塵取りのゴミを袋に入れると、塵取りも箒立ての横につけた。

「神社的には、天上界か、黄泉国かってとこですよね?」

 境内の掃除を済ませて社務所の中に入る。葵さんは、そう云うことが聞きたいのではないらしい。それはむつかしそうにする顔に書いてある。なんだか今日は機嫌が悪そうだ。

「簡単に説明すると、正しい生き方をした人は天国に帰り、悪いことをした人は地獄へ行きます。なかでも、この世に恨みやなにか執着を残した人、自分が死んでいることに気付いてない人が、この世に残って幽霊になる。葵さんと僕が相手にするのは、この人たちってことですよね」

 僕はちゃぶ台の前に胡座をかいてメモをとって見せながら説明を続けた。

「実際、私が相手にするのは生きてる人間ですけどね」

 僕に聞こえないように云ったつもりだろうが、葵さんも向かいにちょこんと正座して聞いてくれてはいる。

「幽霊にも種類があって、恨みなどの執着で自分を縛る自縛霊、その土地に執着している地縛霊、自分が死んだことに気付いていなかったり、子供のように、頼りになる人を探して歩くような浮遊霊、あとは動物の霊なんかの低級霊とか」

 葵さんは半ば興味がなさそうに「ふ~ん」といったようすで僕が書くメモを見ている。

「そのうち、積極的に悪さをするものを悪霊、その内容がひどいものを怨霊、憑りついたものを憑依霊とか云いますね」

 葵さんは納得いかない様子でメモを一枚引き剥がすと、そこに落書きをはじめた。

「話聞いてませんやん」 

 僕は苦笑いをする。子供のようだ。

「正しい生き方とか、悪いことって、どうやって決まるんでしょうね」

 葵さんは誰に話すでもなく、深い息をつくようにそう漏らした。

「それは、やっぱり人間である以上、持って生まれた善悪の基準ってあるじゃないですか? 子供を大切に思うような気持ちとか、お年寄りをいたわる気持ちとか、思いやりとか」

 僕は、役目が済んだと見て取って、お守りの並んだ白木の盆の整理をし、ご利益と値段を一つ一つ覚えていく。小さな神社なのでそれほど数はない。

 葵さんからの返答はいっこうにこない。

 葵さんは商売っ気のある人なので、カモノハシを模った根付やお守りを売っている。

 たいして知られてはいないが、カモノハシのオスには棘や毒がある。それにメスには棘も毒もないことから、女の子のお守りとして葵さんが考案したものだ。そういったものを売ってるのは前にも云ったが、今は「毘盧遮那仏の涙」を模したものを売る計画を立てている。落書きも、そのデザインのようだ。

 そもそも、さい銭とおみくじやお守りで得られた収益では僕の人件費はもちろんでない。僕が雇われたのは、昨日のような出張の祈祷のためだ。除霊の初穂料は法外だと云っていい。そっちの仕事が入るようになって、葵さんはこの神社に常駐するようになったと思われる。

 受け付けのシャッターを開け、お守りと根付を並べる。おみくじの筒も置いた。

「これどうですか!」

 デザインが書けたようだ。さも得意気に僕に見せる。それは普通の陰陽マークだった。

「なんか、ふつうですね……」

 僕は正直な感想を漏らした。葵さんは頬を膨らませる。

「今日は私、デザイン考えるので、ここ任せますね」

 そう云って葵さんは隣の部屋に行こうとする。

「葵さん、盗まれた本物はほっといていんですか?」

 僕は大事なことを思い出した。

「あ、それどうしましょうねぇ」

 葵さんは特に気にする風でもなく隣の部屋へ行ってしまった。

「もし、昨日のあれが、催眠とかカウンセリングとかでなく、除霊だったとしたら、どういうことが起こってたんですか?」

 間もなく隣の部屋から葵さんの声が聞こえてきた。

「幽霊のこの世に残りたいという思いのエネルギーが十としますよね。葵さんのあの世に帰したいという思いのエネルギーが二十とすれば、葵さんの方が強いので幽霊はあっさりあの世へ帰ります。単純な算数です」

 僕は部屋の中の気になるところを見渡して、雑巾で拭きながら説明する。

「幽霊が二十、葵さんが十だとすると、幽霊が強いのであの世へは帰りませんよね。それを、ひとつひとつ裏をとって説得することで弱らせていくのが昨日の様子じゃないですかね。一ずつ引いていくというか、最終的に、葵さんが十、幽霊が九になれば、除霊は成功ってことですね」

 葵さんから返事は聞こえない。デザインに集中しているんだろう。もしくは話が面白くなかったか。

「それって、生きてる人間でも同じですよね。除霊じゃなくて、カウンセリングや催眠療法だったとしても、やる方の感覚は同じですよ」

 ずいぶん後になって、葵さんはそう云った。僕は聞こえないふりをした。どう返事をしていいのかわからかったからだ。

 幽霊は信じられないが、自分がインチキをしているとも思いたくない。葵さんには、そんな葛藤があるのかもしれない。

「そもそも、葵さんの考えでは、あの世はないんですか?」

 答えられずにまごまごしたあと、なんとなく口をついて出たのは、そんな質問だった。

「死んだあとのことは、誰にもわかりませんよね…… でも、幽霊とか、臨死体験が偽物だってことが科学的に解明されはじめていますから、やっぱりナンセンスですよね……」

 僕はあえて反論しなかった。なぜなら、どういうわけか、葵さんの声が寂しそうに感じたからだった。できればあの世があってほしい。本当はそう思っているんじゃないだろうか。


 その夜、僕は何年かぶりに居合剣術の師匠の下を訪れた。

 駅からほど近いマンションの一室に鍼灸院があり、そこの院長をしているのが僕の師匠だ。阿倍野勇気という。

 僕がまだ小学生のころ、勇気さんと同じく居合剣術の師範をしていたのが僕の父である。二人は仲のよい友人だったと聞いている。その父の影響で僕が居合を始めたのが小学二年の時。間もなくして父が心不全で亡くなってから、僕の父親代わりをしてくれているのが勇気さんだ。

 予約制のため、待合にあてがわれた六畳の部屋には僕のほかには誰もいない。壁は一面白い珪藻土に塗られ、パイン材でできたテーブルが置かれている。施術室の中には前の患者さんがまだ残っているようで、内容まではわからないが、勇気さんと会話をするのが聞こえてくる。

「先生、ありがとうございました」

 扉を開けて出てきたのは澪ちゃんだった。

「光琉くん!」

「み、みおちゃん?」

 あれからおおよそ毎日澪ちゃんとメールをやり取りしていた。はじめは戸惑いもあったが、メールを続けるうちにそんな気持ちもなくなり、二人はメールの上でとても打ち解けていた。見た目と違って、メールでは澪ちゃんは昔のまま変わりなかったからだ。

「どうしたん?」

 澪ちゃんは僕が治療に来たのだと思ったのだろう。

「僕、院長と昔から知り合いやねん。澪ちゃんこそどっかわるいん?」

 僕はそう聞きながら、たくさんの陰鬱な噂話を思い出す。

「うん。ちょっといろいろ身体のバランス悪くて……」

 その返事は、頭の中でぼやけた嫌なうわさを鮮明にさせるには十分だった。

「でも大丈夫。ちゃんと先生に診てもらってるし」

 彼女の笑顔は、悪く云うと芝居がかっていて、よく云うとかわいかった。

「それって、やっぱりあれが原因なん?」

 僕は恐る恐る聞いてみた。それは二人の関係を図る重要な質問だった。まだ、打ち解けているのがメールの上だけの話なら、澪ちゃんは真実を語ることはないだろうと思う。

 しばらく沈黙があったものの、澪ちゃんは静かにうなずいた。

「やっぱり、私のせいで人が死んでるわけやから……」

 澪ちゃんはそう云いながらも、僕の表情を見てすぐに後をつなげた。

「でも、引きずってへんで。人生一度しかないねんし、若いころなんかすぐ終わってまうし、楽しまなあかんって思ってんねん」

 澪ちゃんは急に明るい表情を作ってさらに続ける。

「なぁ! 今日はご飯いけるん? まっとく!」

 僕には、なんとなくそれを断ることができなかった。


「どうや仕事は」

 待ち合いとは雰囲気の違うバリ風に設えられた部屋の、真ん中に置かれたベッドの上に腰掛け、勇気さんから渡されたコーヒーを受け取った。

「まあまあです」

 勇気さんに嘘は通じない。よく考えると、この人には葵さんとそっくりなところがある。

「人と関わることができるようになっただけマシか」

 年は父と同じらしいから、四十五だと思う。髪型やセンスがよく、見た目は二十代に見えた。

 そして、勇気さんの話はかなり的を射ていた。

 二年前の事件について、僕なりに考えなかったわけじゃない。あのとき、変な嫉妬やプライドを捨てて参加していれば、もしくはなにか変わっていたかも知れない。人が死ぬことも、澪ちゃんが苦しむこともなかったかもしれない。そんな風に思って眠れなかったこともたびたびあった。

 結局、その罪悪感のようなものを払拭するために僕がだした結論は、逆に『世間とは関わらない』というものだった。

 僕と世間とは関係ない。そう思うように生きてきた。

 自分の存在で、なにか他人に迷惑をかけたり、ことがダメな方へ運ぶなら、関わらなければいい。自分一人なら、誰も迷惑しないだろう。そう思って、なるべく世間と関わらないようにしてきたし、僕が関わっていないことで起こる不幸は、僕には関係のないことだと思うようにしてきた。そうすることで、二年前の事故も『自分には関係のない出来事』と思うようにしたのだ。 

 澪ちゃんとの接し方に素直になれないのは、そういった背景も関係があるからだ。

「そうなんですかね」

 僕は、自分が世間と関わろうとしているなんて、これっぽっちも思えなかった。むしろ、伊藤にしても、葵さんにしても、澪ちゃんにしても、深く関わりたくなかった。

 全部、他人事でいたかった。 

 細かく云うなら、人と関わりたくない理由は、やはり他にもうんとある。

 たとえば、たいして親しくもしない知り合いに出会い、「今日はいい天気ですね」などと、つまらない話をあたりまえにするのがおもしろくない。世間ではよくあるように、「もう紫陽花が咲きましたね」とか「今年の梅雨はよく降りますね」とか、そんな瑣末なことを一々確認しあうのがいかにも俗っぽく、そんな話をするくらいなら、知り合いをやめてもいいとさえ思う。

 あるいは、自分はそうした『組織』や『社会』といった、つまらない人間を大量生産する工場のようなところに属するつもりはないとばかりに、一匹狼を気取り、どこか『おまえらとは違うんだ』と見下していたり。

 一方では、僕は必ず大を成す男だと自分を担ぎ上げながら、格別他人と違うことをするわけでもなく、ただ毎日を無目的に消費している。いつか退屈極まりない日常から脱する日が突如やってくると、自らはなにも労苦することなく他力に任せて、怠惰の泥沼から足を抜こうともしないのだ。

 その裏側で、自分に対する罪悪感だけは、ゴミで埋もれた屋敷のようだ。つまるところ、なにもせず、なにも生まない自分を責め、また、いろいろなものを育んでいる『組織』や『社会』より劣っている己を発見して呻吟する。

 何をするべきなのか、何をしたいのか、それさえも心当たりがない。どう生きるべきなのか、どう生きたいのかも思い当たらないのだ。

 機嫌のよい日は人とも話す。良かれと思いあれこれ骨を折る。人と人とをつなぐ言葉や行動は厄介なもので、こちらの善意をあちらにまっすぐに伝えないことも多い。それが裏目となって相手を深く虐げる。そこに『もっとうまくやれはしなかったのか』といった罪悪感が再び生じ、ますます人と関わることを億劫にさせる。

 どだい人と関わってろくなことはない。一人静かな茶店の隅にでも座り、大正明治の文学作品の中にのめり込んでいるのが至高の時間だ。誰も傷つかず、罪悪感も生まれない。

 人はなぜ、感じたり、考えたりするのだろう。どうしてそれを意図的に止めることができないのだろう。それができれば、僕はもっと穏やかでいられるのにと思う。

 勇気さんは、いっぺんにそこまで深い考えに及んだ僕を見透かすように「ゆっくりでええんちゃうか?」と一言云った。


「どこいく?」

 澪ちゃんは、何も知らないみたいな笑顔で腕を組んできた。

「なんでもいいで」

 僕は慣れない境遇に尻込みしていた。それは見た目からでもわかっただろう。

「そういうの、一番あかんねんで」

 いたずらっぽい眼で僕を見る。こういうのが、昔の澪ちゃんとは違うところだ。僕の知っている彼女は、もっと純粋だったように思う。もしくはそれも僕の作り出した幻想なのかも知れない。

「そうなん? じゃあラーメンにしよっか」

 僕はいつものラーメン屋に行こうと思いながら、女の子に勧めるにはラーメン屋はどうなんだと思いなおした。

「え〜ラーメン?」

 案の定、澪ちゃんは露骨に嫌な顔をする。

「いや、ラーメンってゆっても、イタリアラーメンってゆうちょっと変わってるとこやねん」

 澪ちゃんは僕があわてるのを見て笑った。

「なんでもいい!」

「それ、一番あかんのんちゃうん?」

「女の子はいいねん」

 勇気さんの鍼灸院から南に少し歩いた線路沿いに、その小さなラーメン屋はある。

 イタリアの塩を使った塩ラーメンが店の看板で、トマトやホワイトソースのラーメンもある。女子にも人気のある店だ。

 僕はその中でも異色のトムヤムクンラーメンを注文し、澪ちゃんはカルボナーララーメンを頼んだ。

「なにこれめっちゃおいしい!」

 予想通りのリアクションを見せてくれた澪ちゃんは、不思議なことを云った。

「なんでおいしいもんて食べれるもんなんやろ?」 

 僕は質問の意味が理解できず、首をかしげて澪ちゃんを見た。

「だって、ゲロとかおいしいって思わへんやん? 土とかプラスチックとかおいしくないやん?」

 澪ちゃんのたとえは酷く下品だったが、云いたいことはわかった。

「ゲロって! フグとかキノコとか毒のあるもんでもおいしいやん」

 澪ちゃんは「そっかなー。でもだいたい食べれるもんやん?」と答えながらも、そんなことはもうどうでもいいようにカルボナーララーメンを楽しんでいた。

 澪ちゃんも、僕と同じようなことを考えているんだな。そう思うとなぜだか少し安心した。

「光琉くんて今何してんの?」

 澪ちゃんは唐突に話題を変えた。ラーメンを食べ終えて、替リゾットを注文したところだ。

「いまぁ? 霊能師の助手」

 澪ちゃんは水を吹いた。

「なにそれ! めっちゃおもろいやん」

 でも、勤めているのが加茂神社ということを鑑みると、この話をこれ以上広げるわけにはいかない。

「澪ちゃんは?」

 僕はすぐに話を返した。

「ん~。私はニート」

 澪ちゃんのテンションは見ていてわかるくらい下がっていく。話の振り方に失敗したことに気づく。 

「体調が安定しんくて、ちょっと仕事はまだできひんねん」

 明らかに小さくなった声に、僕も言葉を返すことができなかった。

「なんで人間って、痛いとか、しんどいとか、うれしいとか、悲しいとか感じるんやろう。いちいち感じんかったら楽やん」

 僕は澪ちゃんに心を見透かされたのかと思い、ただ彼女を見た。 

「なんか憑いてる? 絶対憑いてるよな!」

 その視線に気づいた澪ちゃんは、身体を後ろに反らして面白おかしく自分を指さした。

「光琉くん、そんなんわかるん?」

「ま、まだ、そういうのは……」

 澪ちゃんのすがるような雰囲気に、少したじろぎながら、しどろもどろになって返事する。

「ほんなら、できるようになったら、光琉くんが治してや。私、絶対なんか憑いてると思うねん」

 ラーメン屋を出たところで、澪ちゃんは次の約束をさりげなく切り出した。

「光琉くん、今度いっぺん京都行こうや」

 ラーメン屋で二人とも京都が好きということがわかって、盛り上がったのがきっかけだ。

 正直なところ、とても複雑だった。二年前はなにも食べられなくなるくらい憧れた人だ。考えるだけで胸が苦しくなるくらい、ずっと意識していたこともある。

 でも、今は誰にも深く関わりたいと思えない。親密になっていくにつれ、仲良くなっていくにつれ、その関係を保つのが重荷になっていく。前に会った時より楽しくできるだろうか。しらけてしまわないだろうか。がっかりさせてしまわないだろうか。そんなつまらないことに頭を悩ませるのだ。

 それは、自分を良く見せたいという心のうちの現れで、飽きさせたくないとか、つまらないと思わせたくないとか、そんな欲が、正反対に作用して、相手を幻滅させることになる。そして、しらけてしまったり、なんらかのトラブルを知ったときに、罪悪感を抱いて苦しむことになるだろう。

 だから僕は、あえて日程を調整して連絡すると伝え、返事をぼかした。

結局、自分のことをよく見てほしい。悪く見られたくない。それが、人と関わりたくないことの原因らしい。

「じゃあ、またメールする!」

 澪ちゃんは、カラオケを断って僕が帰るといったのにむくれながらも、取り直してそう云ってくれた。

 僕が一人で家路を歩き始めると、すぐ澪ちゃんのおっちゃんに声をかけられた。おっちゃんといっても、二回目の結婚が遅かったらしく、もう七十を超えているだろう。小さいころは気にならなかったが、それはずいぶん老けていた。

「光琉くん、澪、迷惑やないか?」

 澪ちゃんのおっちゃんは、眉間にシワを寄せて気色に正気が伺えず、そわそわして落ち着きがない。心配でしょうがないのだろう。

 澪ちゃんが一人で出歩くことはあまりないそうだが、そのときはいつもばれないように後をつけていると云った。それを聞いた僕は、すぐにおかしなことをしなかったか、変なことを云わなかったか振り返った。心配なのはよくわかるが、行き過ぎのようにも思う。

「いや大丈夫ですよ。僕も楽しんでます」

 やはり、心からそう云うことは、どこかでできていなかったかもしれない。それでもおっちゃんは、おそらくそれをわかった上で話をつづけた。

「今、躁やから、しばらくの間付き合ったってほしいんですわ。鬱になったら引きこもりますんで」

 おっちゃんはそう云って澪ちゃんについて話を始めた。やはり彼女は、二年前より躁鬱になり、身体が痛いとか熱いとか、暴れることもあるらしい。高校は何とか卒業できたものの、進学できず、仕事にも就けず、一時は水商売のようなこともしていたらしい。おっちゃんはそんな澪ちゃんの苦しむ姿をずっと見てきたという。

「なんも若い女の子らしいことさせてやれんで……」

 その言葉は、確かに悲痛なものだった。 


「葵さん、僕にも祈祷の仕方を教えてください。カウンセリングでも、催眠療法でもいいんです。治ればいいんです」

 次の日の朝一番、僕は葵さんに頭を下げた。

 もちろん葵さんは何のことだかわからずにぽかーんとしている。

「ど、どうしたんです? 私が悩んでたから?」

 いつも着替えをする部屋の奥は、特殊な形をしていて、廊下を挟んでお手洗いがあり、襖一枚分の押入れの横に一畳ほどの間がある。日当りがよくとても明るい。

 そのスペースに事務机とパソコンを置いて使っている。葵さんはそこに座り、朝から根付けのデザインに精を出していた。

 その狭い空間に入り込み、僕は頭を下げた。

「違います。僕も葵さんみたいになりたいんです」

 悩んだ結果だ。自分自身でも、いつまでも人と深くかかわらない人生が正しいとは思えなかった。それがなぜなのかはわからないが、人間である以上、助け合い、支えあって生きていくことが正しいことなんだろうと思う。これは、僕にとって大きなチャレンジではあった。ただ、これを機に生まれ変わろうという気はない。少しずつ、やれることをやりたいといった安易な気持ちだった。

 葵さんは、そっと僕の手を両手で握った。

「光琉くん。ありがとう」

 

「どんな仕事でも、一日や二日でできるようになる仕事はありません。最低三年は、しっかりと頑張ってもらわないと」

 葵さんにそう前置きされながら、厳しい修行がはじまった。

「祝詞やおおぬさの持つ意味は、私より光琉くんの方が腑に落とせるかもしれませんね。しっかり覚えてください」

 自分には信仰がないことを踏まえてのことだろう。葵さんはそう云う。

 まず、こまごました基本的な知識を教えてもらう。

 祝詞とは、神職が、祭神に祭祀の意義や目的を奏上し、己の決意を誓願し、身を清めるための祈りである。

 おおぬさとは、白木の棒に紙などをつけたもので、身体を清めるためのブラシのようなものであるという。これを左、右、左と振り、禊を払うためのもので、昔は麻や木綿でできていたことから大麻(おおぬさ)という。

 この、祝詞を覚えたり、おおぬさの作り方や振り方を教え込まれた。もちろんはじめは本物を振らせてもらえることはない。何度も自分で作ってみて、それで練習をした。

 祝詞には、さまざまな種類があるが、身滌大祓、祓詞の二編が主となる。はじめのころは毎晩風呂場で唱えた。どちらも、短いものなので覚えるには苦労はしない。ただ、神様に祈るものであるから、気持ちをいかに込めるかが大切だ。

 葵さんも「催眠に誘導するための大切なポイントになります。覚えるだけでなく、しっかりと相手をリラックスさせるように、雰囲気を大切にして唱えるようにしてください」と云っていた。

 また、ここ独特の知識も必要だった。

「テレビなどでこういった除霊の特集を組まれることが多くなり、科学的に検証していくものも非常に多くなりました。うちではそう云ったものも取り入れて、依頼主様にわかりやすくお話しできるように工夫をしています」

 検証に際し、なにを確認しないといけないか、どこを見て、何を聞かないといけないか、機材の使い方、設置の仕方、それぞれの意味など、徹底的に教えられた。

 ここで使う機材は二種類。暗視のビデオカメラが二台と、サーモグラフィが一台。これらに、ラップ音や、オーブなどが写りこんでいれば、依頼主をより簡単に思い込ませることができ、催眠に導くことが容易になるというわけだ。

 そのため、なるべくそういったものが写りやすい場所を選ばなくてはいけない。

 葵さんが云うには、オーブは水蒸気の関係で風呂場周辺が写りこみやすく、ラップ音は梁や柱の近くがいいとのことだった。

 もちろん体力作りもさせられた。

「部活はしてました? 体力には自信はありますか?」

 これも、小さいころから父の影響で居合剣術をずっと続けていたので、体力には自信があった。体力や集中力を養うといえば、やはりこれが当てはまるかもしれない。

「居合! 居合してたんですか? それやったらだいじょうぶですね」

 葵さんはそう云って笑った。

 なかには何時間にも及ぶ霊との対決、葵さんは催眠療法と云うが、そういった例もある。体力は絶対だ。これも毎日走るように云われた。しばらくは河川敷を一緒に走ってもくれた。

 意外なことに、瞑想もさせられた。

 いつも着替えをする部屋は、六畳の和室になっている。廊下に向かって右側に水屋と洗い場がある。左側の門には衣紋かけがあり、壁に神棚が設置されている。ちょうどその裏が本殿にあたる。

 葵さんと僕は、並んで座布団を引いて、神棚に向かって座る。

「座り方にはいろんな方法がありますけど、楽な座り方が一番です。はじめは胡坐でいいと思います」

 葵さんはそう云って、自分も胡坐をかいた。

「掌を上に向けて膝に置きます。眼を少し軽めに閉じて、深く呼吸します」

 葵さんの誘導によって、瞑想をはじめる。

「鼻から吸って。口から細く、長く吐きます。吸うときにお腹を膨らませて、吐くときにへこませます」

 葵さんの指示に従って深呼吸を繰り返す。

「まずは、自分の心のざわめきに気づくこと」

 眼を閉じて黙っていると、いろいろなことが心に湧いてくる。

『首がかゆい。足が痛い。外は雨かな? 雨音は聞こえないな。小降りなんかな? 今日の晩飯はなんだろう? 肉がいいな。でも今日あたり魚の煮物かもな。おかんの煮物まずいんだよな。給料日いつだっけ? それまでもつかな? そう云えば、あの映画もう始まってたっけ? 歯医者にも行かなくちゃなぁ。あれ、鳥の鳴き声が聞こえる。雨に濡れた木々の臭いがする。普段あんまり感じないのになぁ。腹減ったなぁ』

 確かに、心は止まることがなく、次々にくだらないことが湧いてきて発展し、とても静寂とは云えない。

 しかし、神社は雑木林に囲まれて、その間誰も訪れることなく、ときおり鳥の美しいさえずりが聞こえる程度で、とても静かだった。

「自分の心が常にざわついていることを知ったなら、今度は心を静寂にすることです。

 そのためには、一つのことをイメージするといいでしょう。

 たとえば、美しい景色をイメージするとか、成功している未来の自分をイメージするとか」

 いいタイミングで葵さんの声がする。

「今日は、自分が水になってせせらぎを流れていくイメージをしてみましょうか」

 葵さんの云うままに、自分が水になって流れていく姿を想像する。

 なんと難しい。

 僕は、そこではじめて人間には眼があり、形があることを知った。眼というのは一方向しか見れない。自分が水になって流れていく想像も、一方向にしか映像としてのイメージができないのだ。

 水には上向きも下向きもないだろう。しかし、自分の想像には、確実に上向きと下向き、前向き、後ろ向きなど、さまざまな方向がある。川を流れるイメージをして、底が見えれば下向きだろうし、空が見えれば上向きだろう。それはあくまで、『水になって流れている』のではなく、『自分が川を流れている』イメージに過ぎない。

 確かに、余計なことは考えなくなったが、どうすれば『水』のように全方向に意識を向けられるか、あるいは意識をなくせるのか、ものすごく考えた。

 これは、はじめての経験であった。とてもおもしろい体験だ。

 十分くらいは立っただろうか、再び葵さんの声がした。

「瞑想とは、自分自身との対話です。今、自分が悩んでいることについて、どうしたらいいのか、それを自分自身に聞いてみることです。答えは自分が知っています」

 葵さんの話を聞いて、僕は、自分が悩んでいることを振り返ってみる。

 人と関わるということ。

 幸い、その他には思いあたることはない。強いて云うなら、霊能師なはずの葵さんがインチキだったこと。伊藤の催促が面倒だってこと。

 毘盧遮那仏の涙についても、多少の心配はあった。

 僕は心の中で自分に聞いた。

「おまえはどう思う?」

 すぐに、下腹の奥から返事がこみ上げてくる。

「人と関わらなかったこの二年で、罪悪感はなかったのか? むしろ、他人事にして関わらなかったことに対する罪悪感は増してきたんじゃないのか?」

 確かに、人と関わらず、自分には関係のないことと思って生きているのも、どこかしら後ろめたい。だからといって、人と深く関わることは、もっと難しいことのように思われる。

「どうやったらうまく人と関われる?」

「無理しないこと。自然でいればいい」

 なるほど。原因の一つが『自分をよく見せたいこと』なのはもうわかっていることだ。自分をよく見せようとすることが、悪い結果を招く。

 自分に対する疑問に、自分自身が答えを返してくる。

「葵さんがインチキなのは、おまえにとってなんの問題もないはずだ。おまえはおまえで学べることを学べ」

 ふと、腹の底から答えが帰ってくるのだ。

「伊藤は?」

「伊藤がどんな奴であれ、決めたのはおまえだ」

 心が落ち着いているからなのか、普段ならグズグズ思い悩むことに、スパっと解決の言葉が返ってくる。

「毘盧遮那仏の涙は? あの云い伝えは本物なのか?」

「自分の力でどうにもならないことを、あれこれ思い悩むのは不毛だ。自分にできることを一つずつこなせ」

 心の奥の僕が云う話は、もっともなことばかりだった。そしてごく簡潔だった。

「それでは眼を開けましょうか」

 葵さんの声で瞑想を解く。

「どうでしたか? はじめての瞑想体験は」

 葵さんはいつもの笑顔を作って僕を見た。僕は興奮して話す。

「すごいおもしろかったです! 不思議な体験でした」

 葵さんは満足そうに微笑んでいた。

「光琉くんは才能があるかもしれませんね」

 その言葉はとてもうれしいものだった。

 早寝早起き。腹八分目。毎日運動。毎日瞑想。毎日勉強。

 話を聞けば聞くほどに、葵さんはとてもストイックで、神秘的な生活をしていた。

 それでも、祈祷の内容の種明かしを聞くと、それはまったく心理学に基づいたものだった。

 葵さんの説明によると、一連の流れはこうだ。

 まず、現場検証をし、依頼主と、必要であれば家族などの関係者とのカウンセリングをする。それらを何度か繰り返すことでラポールを形成する。ラポールとは心理学の用語で「信頼」を表す。

 その際、催眠術で云う「暗示」をいたるところでかけておくという。「暗示」とは、最近では介護の現場でも云われている「感情の固定」のようなもので、簡単に云うと「思い込ませる」と云うことみたいだ。

 九十パーセント以上は依頼者側に話をさせて、思い込ませたいワードだけをこちらから繰り返し伝えていくという。

 とくに、映像に何か写っているようであれば、暗示にかけやすくなる。

 祈祷当日は、依頼主、もしくは該当する人物にリラックスしてもらうことが必要であり、香を焚いたり、祝詞をゆっくりとあげることでしっかりと準備をする。背景に雅楽を小さく流したりすることもあるそうだ。

 そのあと、深呼吸と力を抜く誘導で、完全にリラックスを促し、催眠に入る体制をつくる。

 対面して霊を呼び出して話すときには、しっかりと催眠状態に入らせておくことが必要となる。

 依頼主が作り上げている「憑依霊」が、何を望んでいて、どうすれば成仏するかを、あらかじめ収集していた情報をもとにあてはめていく。もちろん、その場で臨機応変にやっていくこともよくある。

 最終的に、依頼主が作り上げた憑依霊が「成仏」してくれれば、催眠療法は終了。背中を叩いて催眠を解き、会話をして安心させてあげる。

 それはものすごく巧妙に作られていた。この話を聞けば、幽霊や神様を信じている僕だって、もう信じられなくなる。幽霊も神様もいないのに「除霊」が成り立つのだ。

 しかして、葵さんに付き合ってもらい、繰り返し訓練する日々が続いた。

 慣れてくると、神社にいても掃除以外特にすることもないのでちょうどよかった。

 僕は毎日六時に起き、ランニング、瞑想をし、仕事をこなし、食事を減らし、勉強、練習を繰り返した。怠け者の僕にとって、とてつもなく苦しい時期となった。面倒臭いのが嫌で受験もしなかったくらいなのに。


 定時で終わった後、二人でジャージに着替え、線路を超えて北側にある淀川の河川敷を走る。

「綺麗ですね」

 あるとき、一緒にランニングをしていたときに、堤防へ座り休憩したことがあった。

 そこは葵さんの特別な場所だという。落ち込んだり、失敗したりすると、ここへ来て、この美しい夕日を見るんだそうだ。

 葵さんにもそんなときがあるんだ。僕は意外な気持ちになった。

 真っ黒なジャージとシューズで三角座りする。日焼けしないための長手袋と帽子も黒い。ブレない人、強い人というイメージは、見かけからも受け取れたからだ。

「でしょう?」

 葵さんは、夕日が綺麗なのが自分の手柄であるかのように答えた。

「そう云えばこの前友達に『なんで人間はいろんなことを感じるのか』って聞かれたんですけど……」

 金色に輝く水面と空は、本当に綺麗だった。なぜ人は、それを綺麗だと感じるんだろう。

「種の保存のための本能ですよね」

 葵さんは、真顔で説明をはじめた。

「痛いことしたら痛いと感じないと、生命に危険が迫るでしょ?  

 大怪我したのに気持ちよく感じたら大変でしょ? 

 食べものが不味いと感じたら、飢えて死にますよね。だからですよ。

 人殺しが悪いことと感じるのも、そうでないと人類が滅ぶからです。

 子供をかわいいと感じたり、お年寄りをいたわる心、思いやりの心もそうです。

 人間が、いろいろなことを感じるのは、人間が滅ばないための本能ですよ」

 葵さんの話は、ロマンチックではなかったが、ある程度解せる話ではあった。

 人が支え合って生きていくのが正しいと感じるのもそのせいだろう。それに反し、人に関わらないようにしようと思う僕が、罪悪感を持つのもそのためか。

 でも、その葵さんの答えに、どこか納得しきれない自分もいた。

 夏になれば暑いと思う。暑いと感じ、冷房をつけるとか、団扇で仰ぐとか、相応の対応をする。もし、暑いと感じずに対応を取らなければ、熱中症などで生命を落とすこともある。冬でも同じで、寒いと感じなければ凍死するだろう。葵さんの云う通り、『感じる』ということと生き残るための法則とは、ある程度の結びつきを持っていると云えそうだ。

 食事をうまいと感じるのもそうだろう。ケガをして痛いと感じるのもまたそうかもしれない。だが、絵画を見て美しいと感じるのはどうだろうか。お酒やたばこをうまいと感じることもあれば、ギャンブルを面白いと感じることもある。

 そう感じることによって、生命の危険や、家族の崩壊、あるいは人類の滅亡を招くようなこともある。それを踏まえると、『感じる』がそのまま『生き残るため』とは云えなくなる。

 では、何のために人間は感じることができるのかという疑問が残る。

 いずれにせよ、人が考えたり、感じたりすることは、自由意志にある程度委ねられているのは間違いがないらしい。にしても、その方向性には二通りの選択があるように思う。それは綺麗なのか汚いのか、うまいのかまずいのかといった選択ではなく、なぜ綺麗だと思うのか、なぜ汚いのか、なぜうまいのか、なぜまずいのか、その理由に二つの選択肢があるように思われるのだ。

 そこに一つの理由しかないのなら、葵さんの云う通り『種の保存の本能』という言い(いいぶん)にも合点がいく。だが実際には、種の保存とは真逆の選択があるということだ。


「どんな思い出があるんですか?」

 葵さんの云うことが正解だとは思わなかったが、あえて反論することはしなかった。降り出しそうな雲をみて、戻ろうと立ち上がったとき、僕はさり気なく聞いてみた。

 葵さんはほんの刹那、困った表情を浮かべたけれど、「内緒です」とお尻についた草を払いながらスルッと流す。関わりを深くするのを、まだどこかで恐れている僕は、とくにそれ以上聞こうとも思わなかった。


 修行は続いていたが、実践ではそれほどこまごましたことは云われなかった。

「参拝客をよく観察してください」

 葵さんから最初に云われたのは、たったそれだけのことだった。

 観察も何も、この神社にはほとんど人がこない。今日も、朝からボランティアの中村さんというご近所の年配の女性が来られただけだった。倒れそうにみえる石灯篭が庭にある、あの中村さんだ。

 中村さんは加茂神社のすぐ近くに家があり、旦那さんと二人で暮らしている。娘さん夫婦が神戸に住んでいる。たまにお孫さんが遊びに来るらしく、今年は受験だとか、彼女ができたとか、よくその話をしてくださる。

「中村さん、どうでしたか?」

 葵さんは、中村さんが帰られると、すぐにそう聞いてきた。

 どうもなにも、いつもと変わりはない。

「別に変わったところはなかったように思います」

 おそらく、気のぬけた顔をして、僕はそう答えた。

「ほんとにそうでしょうか?」

 葵さんはちゃぶ台の上で、根付のデザインを描きながらそう云う。僕が難しい顔して考えていると、さらに話を続けた。

「中村さんがいつも来る時間は何時ころですか?」

 いつも、昼飯を食べてしばらくしてからだから午後二時半くらいか。そう云われれば、いつもより早い。

「二時半くらいですよね。そう云えば、今日は早かったですね」

「服装はどうでした?」

 中村さんはいつも白いエプロンをして神社のまわりのゴミを集めたり拭き掃除をしてくれる。

「今日はエプロンをされてなかったように思います。それに、確かに云われてみれば、今日はいつもより掃除も簡単に済まされてましたね」

 葵さんは顔をあげた。

「今日、中村さんはなんの用事があったと思われますか?」

 僕はしばらく考えた。葵さんの云うとおり、午後からなんらかの用事があって、その準備かなにかのために早く来たのだろう。それはわかった。

 僕はもう一度、中村さんの普段との違いについて思い出す。

 そう云えば、いつもより長くお祈りし、帰りにお守りを授受されていた。なんのお守りだったかは覚えていない。

 お守りを受け取られたときに、葵さんと会話をされていた。今日は押し車で来ていたので、「膝でも痛いのか」と葵さんが尋ねたのに対し、「とくに痛みはない」といった簡単なやり取りだ。

「わかります?」

 葵さんは僕をからかうように云う。

「ちょっと考えさせてください!」

 僕はムキになって考えた。

「いつまでも待ちますけど、どんどんたまっていきますよ」

 葵さんは、学校帰りに参拝にきた女子高生二人を見ながら笑った。

 僕は考えながら、今度は女子高生の観察をしなくてはいけない。

 女子高生二人は、夏服で、スカートの丈が短いとか長いとか、化粧が濃いとか、金髪だとか、そんなことはいっさいなく、ごく普通な感じだった。

 片方は、背が高くて痩せ型。もう一人は小さくてぽっちゃりしている。

 背の高い娘はクールな感じ。低い娘は、可愛らしい感じだ。カバンにさがっているアクセサリーも少し前に流行った非公式のゆるキャラで統一されている。

「な、菜々子、今好きな子おらんねんやろ?」

 小さい方の娘がぎこちなく切り出した。

「でも彼氏はほしくない? も、萌は?」

 背の高い娘が答える。

「好きな人はいるねん」

「え~! 誰? 私の知ってる人?」

「知らんと思う。まぁ、クリスマスまでにはお互い彼氏ほしいなぁ」

「だからしっかりお願いしないとっね」

「なんでも叶うらしいで」

「なんでも願いが叶うなんてすごいよね〜」

 会話と笑い声が聞こえてくる、

 うちの神社は、毘廬遮那仏の涙のおかげで若い参拝客が増えた。この子たちもお願いに来たのだろう。

 本殿前に貼り付けた参拝の仕方に従って、ぎこちなく参拝している。ときおり笑い声が聞こえる。 

「菜々子、さきにひきいや」

「萌さきにひいていいよ~」

 おみくじの前で譲り合っている。ほほえましい光景だ。 

 二人はおみくじを引いて、見せあいながら、笑って帰っていった。

 小さい娘の財布についていたキーホルダは、二つ合わせると星形やハート形になるものだった。よくみやげもの屋さんで見かける。これを、よく云えば参考に、悪く云えばパクって、葵さんは根付のデザインを作っている。勾玉型の根付を二つ合わせると、太極図になるというわけだ。彼女のものは、二つ合わせてハート形になるものだった。

「どうでした? なにかわかりました?」

 葵さんはすました顔で云う。

「とりあえず、わかったことは、二人には彼氏がいなくて、縁結びのお願いに来たということですかね?」

 僕は二人の会話の内容から、そう答えた。

「背の低い方の娘は、たぶん彼氏さんいますよ?」

 葵さんはデザインを描く手をとめない。

 そんなはずはない。二人の会話の内容は、「お互い、せめてクリスマスまでには彼氏ほしいなぁ」といった内容だったはずだ。

「なんでですか?」

 僕は悔しくはあるが、聞かずにおれなかった。

「あの娘、カバンについてたアクサリーとか、スマホのカバーとか、全部同じキャラでしたよね」

 そこは僕もよく観察したから覚えている。確かにそうだった。

「でも、財布についてた小さなキーホルダだけ、違ったんですよね。しかも、二つ合わせるとハート型になるタイプでした。誰かからのプレゼントで、しかも親密な関係であることがわかりますよね」

 おみくじをするときに確かに財布を見ている。キーホルダも見た。だが、そこまで気が付かなかった。

「ほかにもわかることがあります」

 僕は食い下がる。

「わかりますよ! 二人のコンプレックスですよね」

 葵さんはニッコリといつもの笑顔で僕を見た。

 僕は葵さんに云われる前に話そうと必死だった。

「背が高くて細くてクールな彼女は、そんな自分にコンプレックスがあるから、小柄でぽっちゃりして愛嬌のある友達を持つ。その逆も同じってことですよね?」

 葵さんは笑顔のままコクッとうなずく。

「それで?」

 葵さんにうながされるも、それ以上はわからなかった。

「…… わかりません」

「彼氏がいるのに隠したことや、お互い気をつかいあっていたこと、名前で呼ぶのにためらいがあったことなど、二人の距離からして、まだ友達になって間もないことが窺えました。とくに、背の高い子は関西弁ではなかったように思います。もしかしたら転校してきたばかりなのかも……」

 葵さんはまたデザインを描きながらそう説明した。

「本当はもっと云うと、背の高い人は小食、あるいは過食気味で胃が弱く、胃下垂になりやすいタイプ。小さい娘は、甘いものが好きで寝起きが悪いタイプ」

 それはきっと東洋医学の話だろう。勇気さんは見ただけである程度体質がわかると云っていた。

「つまり、ちょっと観察するだけで、その人のいろいろなことがわかってくるということですよね」

 僕がそう答えると、葵さんはまたこちらを見て笑顔を作った。

「では、中村さんの用事は何だかわかりましたか?」

 そのままの笑顔で質問してくる。

「…… もう降参です」

 僕は脱力して答えを乞うた。

「お孫さんが遊びに来るんですよ。中村さんのお孫さんは今年中学三年生。たしか螢ちゃんたちと同い年ですね。なので、中村さんは受験のお守りをもらって、帰りに買い物して帰るんだと思います。押し車は荷物を載せるためですね」

 僕が何か云う間もなく、次の参拝客が訪れた。

「さぁ、次ですよ」

 葵さんはいたずらっぽい笑みを浮かべた。

 参拝に来られたのは三十五才くらいの女性だった。

 止められた自転車には、前のカゴにも後ろのカゴにもたくさんの買い物が積まれていた。大量の野菜、カレールーや煮込みラーメン、とんかつソースなどが、パンパンに張った白い買い物袋から透けて見える。

 仕事がすんで買い物をしてきたのだろう。見るからに疲れていて、ぐったりしている。顔色も悪くどす黒い。眉間にしわが刻まれ、難しい顔をしている。

 もとはとっても美人なのにもったいない。なんとなくそう思った。

 左手の薬指には指輪はない。独身か、あるいは指輪はしない人なのか。

 服装は、どこかの介護施設の制服なのか、真新しい薄いピンクのポロシャツに、ベージュの綿パンを履いている。髪型は茶色の長い髪を後ろに縛っている。癖のある毛が、疲れた様子をさらに演出しているように見えた。

 僕は必死になって観察を続けた。

 彼女は本殿の前に立って合掌をはじめてから、動こうとしなかった。

 ずいぶん長い間祈っていた。

 しばらくすると、顔をあげ、ポケットからスマホを取り出すと、画面を見てあわてて帰っていった。

 もちろん葵さんは、僕が何を発見したのか説明するのを待っている。

「えっと、顔色や全体の雰囲気から、ものすごくお疲れのようすが伺えました。

 年齢は三十五から四十五才くらい? 

 制服らしい服装から、介護かなにかの仕事についておられ、この時間を考えると、早出の勤務で、帰りに買い物ついでによられたのだと思います。

 長い間祈っておられたので、深刻な悩みがあり、そのせいで疲れているのかもしれません。

 指輪をされていなかったので、独身なのかもしれませんね。

 だとすると、結婚できないで悩んでいることも考えられます」

 僕はやけになって思ったことを並べ立てた。

「ぶー。はずれです」

 葵さんは濃いめの鉛筆を止めることなく、目線も画用紙に残したままそう云った。

 僕がわからないといった様子で答えを待つと、葵さんは説明をしてくれた。

「買い物ですよ~。

 一人暮らしか、年配の親と実家暮らしにしては量があきらかにおかしいでしょ。

 カレールーとか、ラーメン、ハンバーグ、とんかつソースなどからすると、パーティーって感じでもないですし、食べ盛りのお子さんがおられるはずです。

 そうすると、指輪をしていないのは離婚が考えられますね。

 この時間であわてて帰ったのをみると、病院や歯医者、整骨院などに予約をとっている可能性がありますよね。

 あの体調から考えて、この時間から美容院てことはないでしょうし。

 予約をとってて、この近くでとなると、マンションの鍼灸院かも知れませんね。あそこ意外と人気ありますもんね」

 よく見てるなぁと感心しながらも、聞き返す。

「あそこの鍼灸院知ってるんですか?」

「父が知り合いなもんで」

「そうなんですか? 僕もなんですよ!」

 二人は勇気さんの知り合いであることで盛り上がった。腕は確かだとか、居合の師範もやってるとか、ああ見えてひょうきんな人だとか、本人がいないのをいいことに好き勝手云った。

「私はあんまりお話したことないんですけどね」

 ひととおり盛り上がったあと、葵さんが話を戻した。

「制服が新しかったことを考えると、離婚されたのは最近で、それに伴って仕事につかれたのかもしれませんね。それであんなに体調が悪そうやったんかな?」

 葵さんはそう云うと顔をあげて僕を見、ニッコリといつもの笑顔を作った。

 それは、状況証拠の連続でしかなく、確かなものではない。それでも、人を観察するだけで、さまざまな可能性を発見できるということだけはよくわかった。

 その日から、毎日人を観察することを心がけるように云われた。

 帰り支度をしていると、グラグラと軽い地震があった。水屋の横に置かれたテレビをつけると、伊藤がしたり顔で解説していた。ときおり『解説員』としてニュースにもでている。普段はヤクザだが、画面の向こうでは紳士に見える。

『震源地は新潟沖、地震の強さを表すマグニチュードは五、この地震による津波の心配はありません。九州での地震もそうですが、ここ二年ほど、全国的な地震や台風など災害の頻度が増えています。そのあたりを、東海道大学の……』

「こいつが蓮くんの事件も報道したんですよね」

 僕は画面に向かって憎々しく文句を垂れた。

 

 二週間ほどしたころだった。加茂神社に珍しい参拝客が訪れた。螢ちゃんと雀ちゃんだ。思いもよらないことに、勇気さんといっしょだった。

「ようお参りくださいました」

 受付窓口で葵さんが対応する。

「おひさしぶりです」

 勇気さんが来たとわかると、葵さんはすぐ外へ出て応対した。

「元気でやってるか?」

「はい」

 葵さんは勇気さんとはニコリと笑って一言交わしただけですぐに螢ちゃんのところへ行く。

「螢ちゃん、あれからどう?」

「元気ですっ! その節は本当にありがとうございました!」

 そう云って頭をさげる螢ちゃんは、前に見たときより明るく見えた。以前はちょっと子供っぽく見えたのが、なぜか大人びて、年相応の中学三年生より上に見えるし、服装もおしゃれだ。

「以前のようなことってまだある?」

「もうありませんっ!」

 僕も気になって受付窓口の中から顔を出して聞いた。

「家のパチパチいう音は?」

「そういえば、最近気になりませんっ」

 やっぱり。家鳴りが原因なら、催眠療法で収まるはずがない。しかし、仮にこのことを葵さんに話したとしても、「心のゆとりができたから気にならなくなった」とかそういった話にされてしまうだろう。

「今日は、実は雀のことで来てん」 

 雀ちゃんと螢ちゃんが葵さんに連れられて本殿へ参拝に行くと、勇気さんが窓口へやってきた。勇気さんは昔から、親しみを込めて名前を呼び捨てる癖がある。居合の門下生も、みな名前で呼ばれていて、それが確かに心地いい。

「雀の母親は、愛の知り合いでな。今うちの鍼灸院に来てんねん。

 原因不明の頭痛、発熱、首が締まる感覚があって、ずいぶん苦しまれてはる。

 ここ何日かで、症状の大半は抑えてんけど、さすがに治りきらん。

 俺が見たところ、確実に霊障や。

 高橋さんは、最近離婚して、すぐ近くにやけど引っ越しをしてはる。そのころからうちに通いだしたみたいや」

 愛とは、一条愛さんといって、勇気さんの鍼灸院の助手をしている。二人は結婚はしていないようだが、付き合いはかなり長いと思う。僕が小学生のころには、もう愛さんは勇気さんのところで仕事をしていた。

 勇気さんの話が聞こえていたようで、葵さんが戻ってきた。

「その話、正式な依頼ですか? 初穂料高いですよ?」

「もちろん正式な依頼や。離婚の慰謝料があると云ってはった。受けてくれるか?」

「お金がいただけるなら、断る理由はありません」

 話がまとまった。仕事だ。僕にとって二件目の仕事であり、修行を開始してからは初めての案件となる。

「雀」

 勇気さんが雀ちゃんを呼んだ。

「ほら、一緒に謝ったるから、ホンマのことを話し」

 勇気さんは、雀ちゃんのうしろに立って両肩に手を置いた。雀ちゃんは少し困った顔をしたあと、不思議そうに見ている葵さんや僕に、深く頭を下げた。

「ごめんなさい! ここ開けたん私です。どうしても螢を助けたかったんです。なんでも願いが叶うって、テレビでやってたから……」

 すぐに勇気さんも頭を下げた。

「許したってほしい」 

「私のせいなんです!」

 螢ちゃんも、雀ちゃんに並んで頭を下げた。

 葵さんは、すぐに両手をだして云った。

「雀ちゃん、大丈夫やで。気持ちはわかるから」

 雀ちゃんの前にしゃがむと、雀ちゃんと目線を合わす。

「でも、もうこんなことしたらアカンで。私ら、みんな雀ちゃんの味方やから、まず相談すんねんで」

 葵さんがそう諭すと、雀ちゃんはコクっとうなずいた。

「それで、毘廬遮那仏の涙は?」

 気持ちが急いていた僕は、誰も触れない大切なことを聞かずにおれなかった。

 雀ちゃんは黙ったままだ。

「…… 雀がそこを開けたときには、それらしいものはもうなかったらしい」

 仕方なく勇気さんがそう説明した。

 その知らせは、夏に向かって勢いよく溢れだす生命力に反して枯れるうつぼぐさのように、僕の気概に水をさした。


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