1 くされたるくさほたるとなる
六月九日
今朝方まできつく降りつけていた雨は、いつの間にか静かにひいて、あたりは朝もやで白くけぶっていた。どこかでキジバトの鳴く声がする以外は森閑を保っており、ひんやりとしていて少し背筋が伸びる心地だ。こちらから見える石段や灯篭は、ところどころ鮮やかな深い緑に苔むして、雨露を浴び、瑞々しくたたずんでいる。
濡れた木々や土の香りを胸一杯に吸いこみ、石でできた小さめの鳥居をくぐると、境内を竹箒で掃除する夢幻的な巫女の姿が見えた。
今にも降り返しそうな、灰色の雲の小さな隙間から、不釣合な青空がのぞく。そこからのびる金色の陽射しが、木の葉のふるいを通り、木漏れ日となって彼女を照らす。その姿は、幾らか神がかって見える。
おおかた、巫女と云うと、黒髪の長いのを想像するかもしれない。ところが彼女のしっとりとした髪は、確かに漆を塗ったように黒かったが、おかっぱに揃えられ、襟足のみがちょうど背中にかかる程度の長さだ。
ここからはよく見えないけど、それでも美しいのがわかる。
さすがに「神職」と云われるだけあって、凛とした雰囲気を漂わせている。
さりながら、儚げで小柄なその姿は、本当にこの人で大丈夫なんだろうか? という一種の不安を抱かせた。背の丈は百五十五くらいだろう。
「あ、あのう……」
僕は元来の人見知りである。もともと他人と関わるのが面倒な方だし、初対面の人と話すのはどうもうまくない。相手が美人であればなおさらである。
おどおどした様子で彼女の顔を覗き込み、今にも消えてしまいそうな声をかける。
誰とも関わらずに生きていけるなら、それに越したことはない。きちんとした理由を考えたことはないが、人と話すことくらい煩わしいことは他には知らない。
だいたい、近頃の十九の男にしては地味なファッションで、アジア系の暖色の緩いニットTシャツに、茶系のカーゴパンツをはいていた。制服貸与とはいえ、家に一人でいる時ならまだしも勤務初日にこの普段着はどうかと、自分でもためらったぐらいだ。
人と関わるということは、自分の自由をいくらか制限されるものだ。とはいえ、社会に関わっていかなければ、今のところ僕は生きてはいけないだろう。
彼女はすっと顔を上げると、きょとんとこちらを見た。潤った大きな黒目は重さを感じさせ、本当に「きょとん」と音がしそうだった。
白衣との対比もあって、やや色黒なのが目立っていたが、そんなことなんかどうでも許せてしまうほど、やはり彼女は美しかった。
つけまつ毛じゃない天然の長いまつ毛は量が多い。それから、やたらキレのある二重の眼には力が宿っている。まぶたが重いのか、眼が開ききっていないところが観音様のようだ。涙袋の厚いのも、人情深く見せるのにかっている。高くてもとんがっていない鼻と特徴のある柔らかなヘの字口もそうだ。
美人であるかどうかは見る人によるのかもしれないが、嫌味がないのは間違いない。
眼につくのは、揺れる髪の隙間から覗く緋色の小さな勾玉のピアスだ。袴の色とあっていて、いかにもおしゃれだが、巫女らしさも忘れていない。
「ようお参りで。本殿はこちらです」
彼女は、僕を参拝客と間違えたのか、笑顔でそう云いながら、小さな社殿を指して掃き掃除に戻る。
境内にはこの小さな本殿と、右手に社務所、その裏に遥拝所、左手に小さなお社が二つしかないほんの小さな神社だ。
「いや、あの、知り合いの記者に聞いてきたんですが……」
僕は事情を分かってもらおうと、あわてて説明をはじめる。
「あぁ!」
彼女はとたんにいきさつを飲み込んだらしく、ややおおげさに驚くと、
「聞いてますよ。鴨野さんですね。最近急に参拝客が増えたもんで」
と微笑む。
彼女は左手を広げると
「こちらへどうぞ」
と社務所へ案内してくれた。
玄関から入ってすぐの六畳ほどの座敷に通された僕は、さすがに緊張しながらも座布団に腰かけ、彼女の来るのを待っていた。
「また降り出しましたね」
声がして、奥の障子が、すっ、すーと開いた。
正座をして、急須と湯呑を乗せた盆を置いた彼女が、テレビかなにかで見た作法どおり部屋に入り、畳の上の盆から急須と湯呑をちゃぶ台に移した。
「梅雨入りしましたもんね」
窓の外の格子戸のむこうで、ぽたぽたと音を立てる雨だれを見ながら、彼女の話を継いだ。いつの間にかずいぶん降ってきた。
「これからの季節は多いですもんね~」
彼女は二つある湯呑に交互に茶を注ぎながら話す。それが雨の話なのか、仕事の話なのかは分からなかった。
緑茶のかぐわしい香りが一気に部屋を包む。瑠璃のように透明でありながら、優しく緑に染まった茶が、コロコロと音を立てて湯呑を満たす。
「あの、伊藤さんにもお話したんですけど……」
ん? と小動物みたいに首をかしげてこたえながら、巫女さんは湯呑を僕の前に「どうぞ」と置いた。
「あぁ、ありがとうございます」
僕は両手で湯呑を包む。茶面に明かりが照り返し、あがっては消えていく湯気が温かい。
「あの、実は僕、霊感とかまったくないんですけど、だいじょうぶなんですかね?」
巫女さんは急須を乗せた盆をちゃぶ台の横に置くと、こっちを向いて座った。
「大丈夫ですよ」
そう云ってニッコリと笑う。正座をして、両手をそろえてゆったりと膝の上におく彼女の姿は、とても女性らしい柔らかさを放っていた。
「私、葵しおりと云います。父親が神主をしてるもので、私が手伝っています。とくにこちらの方を任されているわけです」
巫女さんはあらたまって自己紹介をしてくれた。
「あ、僕は鴨野光琉といいます。よろしくお願いします」
あわてて頭を下げた。
「光琉くんね」
葵さんはこちらを向いてもう一つ笑顔を作った。
「葵さんは、やっぱり霊感は強いんですか? オーラとか見えるとか」
僕は、勤務初日ということを忘れたわけではなかったが、やはり好奇心には勝てず、ついいらない質問をする。
「いえ。まったく」
葵さんは笑顔を崩さないまま簡潔にそう云った。
「え?」
僕は、とっさに聞き返す。
「いや、だから、霊感とかはまったくありません」
葵さんは、さっきと同じ笑顔を保ったままきっぱりと返事する。
それから、困惑する僕をやはり笑顔で見ながら、荷物を置く場所や着替えの場所、一日の仕事の流れなんかを簡単に説明してくれた。自分用の白衣と渋い緑色の袴も渡された。
「ちょうど、今から依頼のあった現場に検証に行くところです。今日は、光琉くんにもいっしょについて来てもらおうと思っていますので、袴に着替える必要はありません」
葵さんは用意をしてくるので待っててくださいと隣の部屋へ出て行った。
それから僕は、ようやく湯呑のお茶を口に運んだ。
冷めていたが、とてもいいお茶だった。
「変ですか?」
着替えを済ませた彼女の姿は、黒のサマーニット、黒の短めのサーキュラー、黒のタイツと、全身黒づくめだった。ピアスも黒の勾玉に変わっている。
物珍し気にマジマジとながめる僕に、葵さんはにべもなくそう聞いた。
「葵さん、おしゃれですね…… スタイルいいし……」
僕は我を忘れる。到底巫女には見えない。袴ではわからなかったが、お尻が大きくくびれがはっきりしている。ニットで強調される胸も、大き過ぎずバランスがいい。
誉め言葉にはなれているのか、「お世辞はいいです」と、よそ見をしたまま一言云われた。
「雨が止んでよかったです」
ドキドキしている僕には全く気付かない様子で、葵さんは、スマホを使って雨雲の動きを確認する。
「今日はもう降りそうにないですね」
ニッコリ笑ってマスクをすると、黒のパイロットヘルメットをかぶり、ゴーグルをつけ、黒の手袋をして、これまた黒のおしゃれなスクーターにまたがった。
マスクの白だけがやけに目立つ。
「そこの機材持ってきてもらえますか?」
葵さんが見た方向に、おそらくカメラやら三脚やらが入った黒い鞄が二つある。いったい何に使うのだろう。
それをスクーターの足を乗せる部分に無理やり積んだ。
まだメットもかぶっていない僕をおいて、「行きますよ」と葵さんはスクーターを走らせた。
坂のすぐ下の信号で捕まっている葵さんの後ろに、自分のバイクをつけ、雑音にかき消されないように声をはる。
「近いんですか?」
「すぐです!」
葵さんも少し大きな声で答えてくれた。
この長い一日の最初の事件は、いくつか目の信号待ちで起こった。
僕の前には葵さんのバイクが止まり、その前にもう一台原付が止まっていた。年のころは僕と同い年か、はたまた年下か。茶髪に染められた頭にはキャップ型のメットがだらしなく乗っかり、くわえ煙草をモクモクとふかしている。
普段から原付を運転していると、よく見る日常的な風景だ。
信号が変わると同時に、足をこれでもかと云うくらいにガニ股に開いた男は、原付を勢いよく発進させると、プッと煙草を吐き捨てた。
「までやごるぁぁぁぁ‼」
けたたましいクラクションとともに発せられた大きな声が、葵さんのものだとわかるのに、数秒を要した。
それは、中年のヤクザのようにドスの利いた低い声だったからだ。
「止まれや!」
葵さんはすぐさま華麗なバイクさばきで前方の原付に追いつき追い越すと、上手に幅寄せして相手を道路わきに追い詰めた。
「なんやねん!」
男は状況が読めず、葵さんに怒鳴る。
「なんやねんやあるかい! おまえ今なにした⁉」
どこかにスピーカーでも隠しているのかと疑うほど、その潤った唇から出ているとは思えない声量と口調で、葵さんは男を問い詰めた。それは、男の怒鳴り声の何倍も迫力があった。
「なにしたか聞いとるんじゃ!」
葵さんは今にも男に襲い掛かりそうな勢いだ。
「た、煙草捨てました?」
毒気を抜かれた男は、葵さんがそれについて云っているのかを確かめるように答えた。
「拾って来い!」
葵さんはすぐさま煙草を指さす。男はそそくさと、もう遠くなってしまった煙草の吸殻を拾って戻ってきた。
「二度とすんなよ!」
葵さんは強くそう云うと、はっと何かに気づいて、こちらを向き「お待たせしました」と、ひきつった笑顔を見せた。
「私、ああいうのどうしても許せないんですよ~」
黒い原付にまたがってもう一度こちらを見ると、そう云ってはにかみながら舌を出した。
「さ、行きましょ」
間抜けた顔でものも云えない僕を置いて、葵さんはエンジンをかけた。
「あ、ま、待ってください!」
我を取り戻し、僕はあわてて葵さんを追った。
雨上がりの黒いアスファルトをしばらく走る。
やがて真新しい小ぶりな一戸建ての前に、僕たちはバイクを止めた。
表札は二つかかっている。ひとつは田中工務店と大きく書かれ、一階が事務所になっているようだ。もうひとつは二階へ続く階段の前の門に掲げられ、鈴木とある。
機材を両肩にしょって、葵さんに云われた通り、鈴木と書かれた表札の下にある呼び鈴を鳴らして返事を待った。
「どちらさまですかっ?」
重そうに扉を開けて顔をのぞかしたのは、眼鏡の装飾が眼にとまる、白髪が少し混ざった上品な女性だった。
「加茂神社のものです」
葵さんの外向きの声は、とても聞き心地がよく、癒し要素がある。そのゆったりとした低い声は、けして男っぽくはなく、どこかしっとりしていて柔らかい。
「少々お待ちくださいっ」
気品のある老女は、そう云うと、重そうにしていた扉をいったん閉じた。
加茂神社とは、今日から僕が働くことになった神社で、正式には「加茂羽肆神社」と云う。その名前から、カモノハシのお守りや根付なんかがいっしょに売られているが、調べた限りではそんな由来はもちろんない。
御祭神は、「加茂建角身命」と「天御祖主命」。いわゆる「八咫烏」と、もう一つは僕もよく知らない神様だ。「ホツマツタエ」にでてくるらしい。
とにかく、地元では「加茂神社」で通る。最近は、神器の一つである「毘盧遮那仏の涙」という勾玉が、何でも願いをかなえてくれる力を持っているという噂がたって、この小さな神社を賑わせていた。こないだはJBCの地元のテレビ局まで来ていたくらいだ。
「お待ちしておりました。わざわざありがとうございます」
一度閉じられた扉は、しばらくして大きく開き、中から年配の男性が現れた。白髪が目立ち、笑顔に刻まれたしわも深い。紳士だが、どこか疲れが感じられる。
「いつもお世話になっています」
葵さんは男性に深々と頭をさげる。田中工務店と云えば、昔から加茂神社の氏子さんで、社殿修復工事にも、多大なお布施をされているし、工事自体も請け負っていたはずだ。
葵さんと僕は、男性に案内されて階段を昇り中に入った。
ばあちゃんちのニオイがする。
素人の僕ははじめにそう感じたが、葵さんは玄関に入ると、霊能師らしくゆっくりとひととおり辺りを見渡した。
僕は葵さんの真似をして見回してみるが、人数分の履物が並べられているだけで、玄関周りはとても簡素に片付いていた。残念ながら、霊的なものは全く感じられない。
「なにか、感じられますか」
男性は、やはり葵さんのその様子が気になるのか、思わず口から出たようだった。男性の後ろには、おそらく奥様であろう、さっきの女性が心配そうな顔で葵さんを見ていた。
「今の段階ではなんとも」
葵さんはそう云って、ヒールの高い黒のショートブーツのジッパーに手をかけた。
「とりあえず、こちらへ」
と、入って右側のリビングに案内される。リビングは左奥のダイニングキッチンと一体になっていて、広さで云うと十畳ほどだろうか。とてもよく整理されて、モデルルームのような印象があった。
「どうぞ、おかけになってください」
男性は右のL字型のソファの奥へ葵さんと僕を誘導した。
ソファの向こうにはテレビ台があり、大画面のテレビがあった。
その前に、小さな写真立てが置かれ、若い男女が赤ちゃんを抱いて笑顔で写っている。
葵さんはリビングに入っても、ひとまわり、やや天井の方を気にしながら見渡した。その様子は、やはり何かを感じ取っているように見えた。
「私は、加茂神社の葵しおりと申します。いつもお世話になります。こちらは助手の鴨野です。早速ですが、詳しくお話していただけますか?」
葵さんはソファにかける前に自己紹介をはじめた。僕は葵さんの話に合わせて頭を下げ、肩にかけた機材でない方の自分のカバンから急いでメモを取り出す。
「あぁ、こちらがお電話を差し上げました妻の幸恵です。私は田中秀雄といいます」
L字ソファの手前に座った田中さんは、後ろに立つ先ほどの老淑女を紹介する。
「お前も座れや」
田中さんは、自分の隣を幸恵さんにすすめた。
幸恵さんは「はい」と返事をして田中さんの隣にかけた。
「三か月前やったかな?」
田中さんは幸恵さんに確認するように話をはじめた。
「家鳴りいうんですか、なんや、家のあちこちで急にパチパチと鳴りはじめたんです」
僕は、田中さんの話をメモに記録していく。云われたわけではないが、覚えるのが苦手な僕の習慣みたいなものだった。
「最初はそないに気にならんかったんですけど、そのうちバキバキと音が大きい時もあったり、知らん間にモノが移動してることがあったりしだして」
葵さんは田中さんの話を黙って聞いていた。僕が口をはさむのもなんだと思い、黙って聞くことにした。
「一番の問題は、ちょうどそのころから孫娘がおかしなりまして、とうとう最近引きこもってまいまして……」
田中さんの手が少し震えているのがわかるが、緊張しているようには見えない。
「孫は、鈴木螢といいます。この子が、昔からちょっと変わったとこがありまして、霊感いいますか、見えることがあるらしんです。ほんで、いっぺんお祓いしてもらおかいうことになりまして」
ほんの少し間があって、葵さんが顔をあげた。
「ご覧になったのは螢ちゃんだけですか?」
田中さんは葵さんの方を向いて答える。
「いや、私も実は顔はわからんのですが、何度か男がおるのを見まして、螢の友達かと思ったんですが…… そういう時、螢は決まって学校へ行ってましたし、家内も買いもんにでていたり、私が一人の時ばかりでして、ほかにこの家に誰かおるはずがないんですわ」
テーブルに乗せた田中さんの手は、もう震えてはいなかった。
「失礼ですけど、螢ちゃんのお父様は……? 娘さんの旦那様はお亡くなりになっておられますか?」
田中さんは驚いた様子で答えた。
「やっぱりわからはるんですか? この子の父親はたしかに他界しております」
また少し間が開いた。今度は田中さんが待ちきれない様子で聞いた。
「先生、やっぱり螢の父親が原因ですか? そうやないか思って頼んだんです! なんせ急やったし、酷い状況でしたから、思い残すこともあったやろうと……」
葵さんは表情を変えることはない。
「事故があったのはいつですか?」
「えっと、螢の十才の誕生日やったから…… 事故なんもわかるんですか!」
「ちょうど五年前ですっ」
田中さんが指を折って数えている横で、幸恵さんが答えた。
「五年前の六月十一日ですね。父親が、螢の誕生日プレゼントに蛍を用意してたんですが、当日になってみな死んでしもてて、ほんで蛍採りに行ったんですわ。その帰りにトラックと衝突してもうて……」
幸恵さんがうつむいて話を続ける。
「なんか、名前が螢やからか知らん、毎年用意しとったんです」
幸恵さんの話によると、居眠り運転のトラックと正面衝突したらしく、現場にはたくさんの蛍がキラキラとあたりを照らしていたという。
葵さんは少し考える素振りを見せたあと
「少し、家の中を拝見してもよろしいですか?」
そう云って立ち上がった。
「もちろんです! どうぞ」
田中さんも立ち上がると案内をはじめた。まずは奥のキッチンへ。広くはないが対面型の使いやすそうなキッチンだ。
「ここがキッチンです」
キッチンを左に出ると、玄関からまっすぐ伸びる短い廊下にあたり、その向い側がトイレと風呂場。奥がU字に折れて階段になり、三階へ続いている。
「あがってもよろしいですか?」
葵さんは風呂場には関心がないように、三階へあがった。
三階は老夫婦の寝室と、螢ちゃんの部屋、それに螢ちゃんのお母さんが使っている仏壇がおかれた和室が一つあった。
葵さんは、それぞれの部屋で、何かを読み取るかのようにゆっくりと辺りを見回す。
僕は、「霊感なんかまったくありません」という葵さんの言葉を思い出す。どうやらあれは謙遜なのだろう。そうでなければたいした役者だ。
寝室と仏間をすまし、最後に螢ちゃんの部屋の前にきた。
「螢、神社の方が来てくれはったで」
田中さんは螢ちゃんの部屋の扉を軽くノックした。
しばらく何の返事もなかったが、田中さんが扉の取っ手に手をかけると異変が起こった。
「さわんな!」
扉がドンと大きな音を立てて、中から女の子の叫び声がした。
「じぃじとばぁばはあっちいって!」
女の子の声を聞いて、田中さんはこちらを向いた。
「こんな調子ですわ。ここ何日も、顔も見せてくれまへんねん。中で、ずっと誰かと会話をしてるんです。電話で友達としゃべってるにしては、なんやおかしいんですわ」
葵さんはなにもかもわかっているといった様子で、田中さんに笑顔を向ける。
「任せてください」
葵さんに促されて、田中さん夫妻は仕方なく階下へ降りていった。
「螢ちゃん? おじいちゃんもおばあちゃんも下降りたよ」
葵さんは扉に顔を近づけて優しく話す。
「ほんま?」
扉の向こうから、まだあどけなさの残る少女の声が聞こえる。
「ほんまやで」
葵さんは扉に顔を寄せたまま答える。
「…… たぶ…… 大丈…… やと思う……」
扉の向こうから、螢ちゃんと誰かがひそひそと何かを話しているのが聞こえる。
しばらくすると扉がゆっくりと開き、隙間からくりっとした大きな眼がこちらを覗いた。
「螢ちゃん?」
葵さんが訪ねると、大きな瞳がうなずくのがわかる。
「入れてくれる?」
もう一度葵さんがそう聞くと、今度は扉が大きく開いた。
葵さんはなんのためらいもなく扉の向こうへ入っていく。僕は、やや困惑しながら後に続いた。
田中さんご夫妻はとても穏やかで、その二人に威嚇するように叫んだ螢ちゃんに、大きな違和感を覚えたからだ。そこには、僕の知らない家族間の問題が潜んでいるのかもしれないと予感させた。それだけならまだしも、いるはずのない誰かと会話をするなんて、本当に何かしらとり憑いている可能性だってある。いつか見たエクソシストのワンシーンを思い浮かべながら、螢ちゃんがブリッジして襲いかかって来ないことを祈った。
中に入ると、女の子らしい薄いピンクのカーテンは閉め切られ、部屋の中は暗かった。
とても整頓されていて、中学生の部屋とは思えない。僕が中三の時のことを思い出すと恥ずかしくなる。
僕の持論だが、いい女の条件と云うのが三つあって、一つが料理がうまい。もう一つが部屋がきれい。最後が朝に強いだ。螢ちゃんは一つ合格。
そんなくだらないことを考えていると、机に置かれた写真たてが目に入った。
まだ幼い螢ちゃんと、同い年くらいの女の子と男の子が笑って写っている。仲のいい友達なんだろうか。とても明るい感じが写真から伝わってくる。
そんな写真の感じとはまったくの別人のように、螢ちゃんは壁を背にベッドの上でうずくまっていた。心なしか顔色も黒く見えた。
よく見ると、どこかで見たような気がする。
「螢ちゃん? 少しお話聞かせてくれる?」
葵さんは螢ちゃんの前に横座りすると、泣いている赤ん坊をあやすように云った。
「……」
返事はない。どこか一点をみつめていて、こちらの話が耳に届いていないようだ。
葵さんは、そんな螢ちゃんの反応にはお構いなく話をつづけた。
「何か悩んでることある? 友達のこととか?」
螢ちゃんは、驚いた様子で葵さんを見た。葵さんの質問に面食らったようだった。僕も少しとまどった。変わったことはないか? とか、変なものを見ないか? とか、もっと別のことを聞くのかと思った。
「あの……」
螢ちゃんは言葉につまりながらもなにか伝えようとしていた。それでも、ふと後ろを向くと、「…… する? …… なす?」など、なにかヒソヒソと誰かとしゃべっている。
相談相手に止められたのか、螢ちゃんは小さく云った。
「ないです……」
声に覇気はなく、なにかにとり憑かれているという偏見を持っていれば、そう見えないこともない。長くて綺麗な黒髪は、紺に白の水玉のカチューシャで止められていて、その装いがかろうじて女子中学生らしさを残していた。
「いじめられたりは?」
葵さんの質問に、螢ちゃんは眉間にシワを寄せ表情をさらに暗く変えた。
そういえば少し前にいじめ自殺の報道があったなと思い出す。この辺ではなかったと記憶しているものの、確か螢ちゃんと同じくらいの男の子だった。
学校側がいじめ自殺と認めず、大きく取り上げられていた。
最初に記事を書いたのは、僕に加茂神社を紹介してくれた伊藤という記者だ。本人が自慢していたのでよく覚えている。被害者の中学生の家族は、事件を公表したくなかったらしく、記事にしないでほしいと再三頼まれていたというが、伊藤は聞かなかった。
ご家族は、学校側ともめると大きく報道されてしまうと思い、裁判も取り下げたという。にも拘らず、伊藤は記事を書いた。もちろん名前や学校名など細かなことは伏せられていたようだが、そんなことは今ならすぐに特定できるだろう。
実は伊藤のことをよく知っているわけではない。
もともとは高校を卒業してからしばらく、ネットで見つけたバイトで伊藤の雑用をしていたのがきっかけだ。FAXで送られてくる原稿を入力してメールで送るだけのバイトで、誰にも会わずにできるのがよかったのではじめた。人と関わらずに生きていこうと、試行錯誤した結果だった。
バイト自体はひどい記事を書く伊藤とそりが合わず、給料も残念な額だったのですぐに辞めた。
伊藤が加茂神社を僕に紹介したのも、彼が加茂神社について記事を書こうとしていて、その情報源にしたいだけだろう。実際にそう云われていたが、興味があった僕はそれに乗っかったというわけだ。
そんな伊藤が書いた記事だから、どこまで本当かはわからない。
また、螢ちゃんは後ろの誰かと相談してから言葉を選ぶように答えた。
「だいじょうぶです……」
力なく返事をする螢ちゃんを見て、表情を変えたのは、その報道のせいかもしれないなと思った。なぜだか、螢ちゃん自身がいじめられているようには感じなかったからだ。
「そっか」
葵さんはその返事を予想していたようだ。たいして顔色を変えることもなく小さくうなずいた。
「あのっ!」
「ん?」
葵さんが次の質問をするよりも先に、螢ちゃんが質問を返してきた。
なにか、突然生気を取り戻したかに見える。
「毘盧遮那仏の涙って、ほんまにあるんですかっ⁈」
「えっ?」
次は葵さんの表情が少し変わる。
螢ちゃんは続けて聞いた。
「今、学校ですごい流行ってて、テレビ出たからかも知れんけど、ほんまにあんのかなって、うちがよく聞かれるんですっ」
「あぁ!」
今度は僕の方が驚く。そう云えば、地元のテレビが来たとき、インタビューされていたのが螢ちゃんだった。見たことがあるはずだ。
「テレビでてたやんな⁈」
僕は思わず声を出した。
「本当にあるんですかっ?」
螢ちゃんは僕の問いかけには答えずで、葵さんにもう一度聞いた。なにか、鬼気迫るものがある。よっぽど気になるんだろう。
葵さんは、にっこりと笑って螢ちゃんに顔を近づけると、コソコソと云った。
「ほんまにあるで。本殿の中にずっと祀られてるねん」
葵さんの答えを聞いた螢ちゃんの眼は、らんらんと輝いていた。
「どんなんなんですかっ?」
うつろだった螢ちゃんの様子は、正反対に変わってきている。
「あんな、勾玉ってわかる? 白と黒の勾玉で、二つ合わせて太極図っていう円になってんねんて」
螢ちゃんは、しばらく熱心に葵さんの話を聞いていた。
葵さんは、そのままうまく螢ちゃんを説得し、暗視カメラの設置と、お祓いの約束を取り付けた。
螢ちゃんは、途中なんども後ろを振り返ってヒソヒソと誰かと相談するような素振りを見せた。
「…… おねぇちゃんは信用できるって」
螢ちゃんの相談相手は、葵さんのことを信頼したようだった。
「光琉くん?」
不意に葵さんが僕を呼んだ。
「こことそこに定点カメラを設置してくれます?」
そう云って、階段を上りきったすぐの廊下と、螢ちゃんの部屋の扉の前を指さした。
僕は下から例の黒いカバンを取ってくると、すぐに中を出して準備をはじめた。
「田中さん、一応、今晩だけカメラを設置させてください。よろしくおねがいします」
葵さんは部屋から出ると、心配そうに上がってきていた田中さんの方を向いて、丁寧に頭を下げた。
「やっぱりこの部屋が怪しいですか? 私が男の幽霊を見たんもここなんです」
田中さんは興奮して聞いた。
「まだ決まったわけではありませんよ」
葵さんはにっこりと笑う。
そして機材とてんてこ舞いしている僕のところに来て「大丈夫ですか?」と手伝ってくれた。
カメラは暗視で取れるものが二つ。それからサーモグラフィが一つ。
「これが厄介なんですよね……」
葵さんはサーモをセッティングしながらそうつぶやいた。
もたつく僕とは違い、葵さんは男勝りにテキパキと機材を設置していく。
「こんなん得意なんです」
僕に配慮してか、そう云って笑う。いいとこを見せたいと思っていた僕の浅はかな考えは失敗に終わった。
機材を設置し、だいたい全体を見終わると、葵さんは「またね」と螢ちゃんに手を振って笑った。それからリビングに戻った。
「あぁ、お茶もださんで」
田中さんは気づいたようにキッチンに向かい、お茶の準備をする幸恵さんから湯呑ののったトレーを受け取った。
「お待たせしました。どうぞ」
田中さんはトレーに湯呑を四つのせてテーブルの上に置き、トレーから湯呑を各人の前に配置していく。最後の一つを幸恵さんの席に置こうとしたとき、湯呑を落とした。
「あぁ!」
僕はすぐに湯呑を戻し、茶がこぼれた範囲は大きくはならなかった。
「すんません! 最近年のせいか、手があかんのですわ」
布巾でテーブルを拭きながら、田中さんはそう云って頭を下げた。
「どうぞ、気になさらないでください」
葵さんはやさしくそう答えた。
「ただいまぁ」
玄関から声がして、女性がリビングを覗いた。
「もう来てくれてはったんですね」
女性は、鈴木陽菜と名乗った。螢ちゃんのお母さんだ。僕らがくるので仕事を切り上げて帰ってきたらしかったが、間に合わなかったようだ。
「お父さん大袈裟でしょ? 大丈夫やって何回もゆったんですけどね」
陽菜さんは怪奇現象や娘の異変に興味はないようで「反抗期ですって。うちもありましたもん」と極めて明るい。
僕たちは機材を明日取りに来ることを伝え、ほどなく鈴木家を後にした。
「葵さん、すごいですね!」
帰ってきた僕は興奮していた。
「なにがですか?」
葵さんはそうでもなさそうだ。すぐに着替えに隣の部屋へ入る。
「霊感ないとか、やっぱり嘘でしょ?」
「ほんまですって」
「なんで旦那さんが亡くなられてるのわかったんですか?」
隣の部屋で袴に着替えている葵さんに、大きな声できく。
社務所自体も狭く、トイレと二部屋しかない。
「旦那さんが見えたとか?」
ほうき立ての横にある入口から入ると、すぐ左に手前の部屋があり、おみくじやら受付やらでも使うスペースとなる。
真ん中にちゃぶ台があり、受付の窓口の反対側に、小さなタンスが置いてある。隣は主に着替えをする部屋で、水屋と洗い場があり、お茶などはそこで用意する。その奥にトイレがある。トイレの横には小さな事務スペースが申し訳程度に設置されている。
もともと小さな神社で、もうずっと誰も常駐していなかった。
その小さな社務所のふすまの向こうで、葵さんが着替えをしている。
「簡単ですよ。玄関の靴です。若い男性が履くような靴がありませんでしたよね。それに、線香のニオイがしてましたし、どなたか亡くなられてるのは間違いないですが、田中さん夫婦はご健在でした。田中さんも云ってはりましたけど、依頼してくるっていうのは、ご家族がらみかなって」
僕は意外な答えに困惑していた。確かに下駄箱周りも片づいていた。ばあちゃんちのニオイは線香だったのか。
「それだけですか? 離婚されたとも考えられますし、亡くなってるのが娘さんかも知れないですやん」
会話の合間に、パサリと衣服の落ちる音がする。
「テレビの前には螢ちゃんを抱いたご夫婦の写真が立てられてました。離婚して娘さんだけが亡くなってはるんなら、旦那さんと一緒の写真は置きませんよね。表札も二つありましたし」
僕はまだ納得できなかった。
「じゃあ、なんで事故ってわかったんですか⁈」
「急に亡くなるとすると、心不全とか事故だと考えるのが普通ですよね。心不全では『酷い状況』にはなりにくいかなと」
サマーニットを脱いでいるのか、葵さんの声が小さくなったり大きくなったりする。
「マジっすか……」
落胆の色をかくせない僕の呟きに、ゴソゴソと音がして、葵さんの返事が少し遅れて返ってきた。
「光琉くん、柿の木理論って知ってます?」
隣の部屋で葵さんが着替えていることに、意識がないわけではない。そのことを考えると、ドキドキするので、余計に会話に集中する。
「いえ。はじめて聞きました」
障子のむこうで、布の擦れる音がシュルシュルと聞こえる。
「占い師さんが、お庭に柿の木はありますか? と聞くんです。
相手が『あります』と云えば、『それが悪い』と柿の木を切るようにアドバイスし、『ありません』と答えれば、『それが悪い』と云って柿の木を植えるようにアドバイスをする。
どちらにしても、相手には、はじめからこちらがわかっていたように聞こえるというわけです。
こういったことをもとに、依頼主様とのやりとりでは、常に主導権を持っておくことが大切になります。
相手がどんな話をされても、はじめからわかっていたような答えを用意しておくってことです」
その種明かしは、僕をさらにがっかりさせるにはあまりに十分すぎた。だからこそ、そんなはずはないという気持ちが次の質問をつなぐ。
「じゃあ、カメラの位置は? ラップ現象やポルターガイストの場所が螢ちゃんの部屋だってこともあてたじゃないですか」
葵さんからしばらく返事はなく、間もなくして障子があいた。
「螢ちゃんが居る時間が長くて、田中さんが、見た人物を螢ちゃんの友達と間違える場所といえば、螢ちゃんの部屋とその周辺がまっさきに思いつきますよね。ましてや、ここ数日は螢ちゃんはあの部屋に引きこもっているわけですし」
巫女姿に着替えた葵さんは、ちゃぶ台をはさんで僕の向かいに座る。きちんとピアスまで緋色のものに交換されていた。
帰りにコンビニで買ってきた弁当を二人でつつく。遅い昼食だった。
「霊障と云われるものは、疾患の一例だと思っています。
ほとんどが、統合失調症や認知症などと症状がかぶりますしね。
『幽霊を見る』などの幻覚や、『臨死体験』は、大脳皮質の異常や、側頭葉への電気刺激などでも起こるそうで、脳に何らかの障害がある場合もあります。
今回のことは、ラップ現象については家鳴りが原因でしょうし、ポルターガイストや幻覚については認知症の問題も考える必要がありそうです」
がっかりを通り越し、なんだかやるせない気持ちがする。
「田中さんの手、震えてましたよね。湯呑を落とされましたし。いるはずのない人が見える幻覚、動かした覚えのないものが移動している物忘れと合わせるとレビー小体型認知症とかである可能性も考えなくてはいけません」
葵さんはさらに付け足すように云った。
「でも、一番の問題は、螢ちゃんだと思うんです。実在しない誰かと会話をするようなことは、統合失調症にはよく見られることですし」
葵さんの話はそこで途絶えた。
ラップ現象とは、まさに家鳴りのようにパキパキと音がすることだ。それが、ありえないほど頻繁だったり、音が大きかったり、その場の会話に合わせるように鳴ったりすることから、霊的なものと疑われるものをそう呼ぶ。
家鳴りの方は、建材が乾燥したり湿気たりして膨張、収縮するさいに鳴る音だと云われているが、はっきりした原因はわかっていない。どちらにせよ、建材同士が擦れる音だ。
ポルターガイストとは、動くはずのないものが勝手に動くことだ。
僕は、気分を変えようと、ほかにも疑問に思っていたことを聞いてみた。
「でも、どうして螢ちゃんのお父さんは蛍をプレゼントしたかったんですかね……」
「さぁ…… それは……」
葵さんはその質問には興味がなさそうだった。
「葵さんは、幽霊を信じてないんですか?」
僕はまわりくどいのは好きじゃない。思い切って聞いてみた。
「ナンセンスですよね」
葵さんはお上品に弁当を膝に広げたハンカチの上に置いて右手で持ち、左手の箸でポテトサラダを口に運んだ。
「神様は?」
葵さんは僕の顔を一度見た。
「神職の身でこう云うのはなんですが、やっぱりナンセンスですよね」
すぐに視線を弁当に戻して小さく云った。
僕は軽いショックを受けたが、それらの答えに予想はついていた。聞いたことを後悔しながら、さっきの質問を掻き消すように次を聞いた。
「そう云えば、毘盧遮那仏の涙って、なんで急に有名になったんですか?」
今度は葵さんの表情が変わる。こちらを向いて眼を大きく開ける。
「それ! なんでなんですかね! 私が聞きたいですよー! そもそも毘盧遮那仏の涙なんて、噂になるまで私も知らなかったんですよ? それが、父に聞いてみると、云い伝えが残ってて、本当にうちの神社の勾玉らしいんです! それも、正式な呼び名ではないらしいんですけどっ」
葵さんは今日一番興奮していて、別人のように見えた。
「云い伝えって?」
興味のない話ではなかった。僕はてっきり、宣伝のために神社側が広めた噂だと思っていたからだ。
「なんか、あんまりいい話ではないんですよ。実は」
葵さんの熱気はみるみるもとに冷めていく。
「毘盧遮那仏って云うのは、奈良の大仏様ですよね。
その、大仏様とうちで祀っている『天御祖主命』って云う神様が同じだという考えがあったらしいんです。もしかしたら廃仏毀釈を逃れるための口実かも知れませんが。
その神様? 仏様? が、やがてくる人類の滅亡を嘆いて流した涙が、この『毘盧遮那仏の涙』だそうなんです。
父から聞いた話では、等身大の毘盧遮那仏の像と、その掌の上に太極図を表した勾玉が、本殿に祀られているそうです。
それはあくまでも『勾玉』で、『毘盧遮那仏の涙』というのは云い伝えからそう呼ばれるようになった俗称のようです。
仏像の方は廃仏毀釈を逃れるために、よそのお寺からかくまって、本殿に入れられたまま今日まで外の光を浴びたことはまだないそうです。
ただ、その性質から、この勾玉が表に持ち出されるときは、人類の滅亡が迫っているときだと云われているようです。
封印みたいなもんなんでしょうか。
その勾玉がここの毘盧遮那仏の掌の上にあるうちは、大丈夫だそうです。
いったん持ち出されると、人類は、災害や戦争、そういったことによって滅亡に向かって歩み出すそうです。
ただ、この毘盧遮那仏の涙は、その人類滅亡を止めるために、祈った人の生命と引き換えに祈りを叶える力があるそうなんです。
これらの話が『願い事が叶う』っていう噂になったんじゃないかと思うんですが、問題は、このことを知っている人は、最近ではそういないはずだということなんです」
僕は、話の内容を聞いて戸惑った。
どうも、葵さんは巫女でありながら、超現実的な常識人らしい。ところが、僕は知り合いのうさんくさい記者に聞いてまで『霊能師の助手』などという職を選ぶくらいに、こういった話にとても興味がある。
もしこの話が本当なら、誰が噂を広めたかではなく、人類の滅亡が迫っているというところが問題だろう。
「あれ、もうこんな時間ですね」
葵さんのスマホが定時を告げる鐘の音を鳴らしている。
「なんかバタバタした一日ですみませんでした」
葵さんは僕にそう云って頭を下げると、またすぐ隣の部屋に着替えに行ってしまった。
僕は帰りのスクーターの上で、予想以上に疲れ切っていた。
葵しおり。今日から僕の上司にあたる。すごい美人で仕事もできる。
ただ、神職なのに神様を信じてなくて、まったくの現代人だ。霊能師なのに霊感がなく、幽霊を信じていない。そもそも、本職の巫女のくせにピアスをしていたり、髪が短かったり、いろいろ規則も破っている。
インチキ霊能師だ。
「大丈夫かなぁ」
僕は明日からの仕事を思うと心底憂鬱になった。
僕の勤務初日は簡単には終わらなかった。
紹介してくれたお礼と報告を兼ねて、知り合いの記者に会っていたからだ。正確には、呼び出されたというべきか。
「伊藤さん、あれはないっすよ!」
僕はファミレスの椅子に腰かけ、プカプカとタバコをふかす伊藤に云った。
「美人やったやろ?」
元JBCジャパン放送協会所属のフリージャーナリスト伊藤は、関西から出たことがないらしいのに関西弁がうまくない。どこかイントネーションがずれている。
「確かに美人でしたけどっ! 霊感ないし、幽霊信じてないのに霊能師ってどうなんですか!」
伊藤ははじめからわかっていたのだろうか。僕の話には興味がない様子で、タバコの煙を大仰に吐き出しながら話題を移した。
「それで、毘盧遮那仏の涙についてはなんかわかったんか?」
そう云えば伊藤に、加茂神社に紹介する代わりに毘盧遮那仏の涙についてわかったことを報告してほしいと云われていた。というよりも、むしろそのために僕は送り出されたと云ってもいいだろう。
「あぁ、わかりましたよ」
僕はカバンからメモを取り出す。
「なんか、人類滅亡を嘆いた毘盧遮那仏が流した涙がモチーフらしくて、そういうわけで、これが世に出てくるときは人類滅亡の危機が迫っているんだそうです。これは、人類滅亡を防ぐために祈った人の思いはなんでも叶えるんですって」
伊藤は表情を変えることなく喫煙を続けていた。
「それは、実際ほんまにあるんか?」
僕はどうして伊藤がこんなものに興味があるのかわからなかった。こんな話が大好きな僕でさえ、考えるまでもなくこの話は眉唾だ。云い伝えとして楽しむのはありだが、実際人類滅亡とか、願いを叶えるとか云われてもピンとこない。名前からして嘘くさい。とてもいい記事になるとは思えない。
「あるらしいですよ。廃仏毀釈を逃れるために仏像と一緒に本殿に入れっぱなしやって葵さんが云ってました。もう何年も本殿は開けられたことがないそうです」
伊藤の手が止まる。
「そうか…… どんなもんや?」
「なんか、二つの勾玉を合わせて太極図のように円にしたものって、葵さんがゆってはりました」
「太極図……」
伊藤はさも難しいことを考えているかのような表情で呟いた。
「そんなことより、あの人とうまくやっていく自信ありませんよ! へんなとこでキレるし、めっちゃかわいい笑顔するのに眼が笑ってないときがありますからね……」
僕はメモをカバンにしまうと、明日からが憂鬱だと毒づいてファミレスを出ようとした。
「鴨野。その、毘盧遮那仏の涙、持ち出せへんか?」
伊藤の低い声は、僕をぴたりと黙らせた。背筋が凍るような冷たい声だった。
「なるべく早くに手に入れな……」
伊藤は、俯き加減でそう呟く。
「でも、持ち出したら封印が解けるって、葵さんが云ってました……」
なんとなく怖くなった僕は、伊藤を思い留めようと少しでもマイナスな要素を話した。この男なら、本当にやりかねない。
「あほか。こんなおもろい飯の種が、そんなことくらいで逃がせるかっ。これは今回の報酬や。おまえは口が軽いのが長所やな」
うすぺらい茶封筒が差し出された。
「インチキに勾玉。おもろなってきた!」
伊藤は呟くとフンと鼻をならした。僕はいい気持ちではなかったが、隠すようにそれを受け取る。
「引き続き情報たのむで」
そう云って店を出ていく伊藤の背中を眺めながら、どうしてかとても不愉快な気分に囚われていた。
そもそも、紹介という程のことでもなく、加茂神社で人を募集しているのを教えてくれただけだ。伊藤は情報が欲しかったのだ。僕は伊藤を好きではなかった。ズケズケと人の懐に入ってくるところや、欲の塊といった遠慮のない態度が、なにか暗い気持ちにさせる。どうせ葵さんのことも、タイミングを見て『インチキ霊能師』で記事にするつもりなのだ。
本当は、そんなことで一々思い悩むのも面倒くさい。
愛想笑いをしたり、話題を合わせたり、顔色を窺って色々気を使うのがとても億劫だ。いったい人間は、どうして感じたり、考えたりするんだろう。そんなことができないようになっていれば、淡々と人とも付き合っていけるんだろうに。
おまけにその日はそれでは終わらなかった。
ファミレスからの帰り道、乗っていたスクーターがガス欠をおこし、僕はそれを押して帰る羽目になったのだ。
「おっかしいなぁ。ちゃんと確認してたのになぁ」
なんてついていない一日だ。僕はふと、鈴木家から幽霊を連れて帰ってきたのかなとさえ思った。スマホで現在地を確認し、最寄りのスタンドを探す。雨が止んでいたのが幸いだった。
「すんません」
雑踏に紛れて聞こえる力ない声に、僕は、自分が呼ばれたとは気付かなかった。
「すんません。バイク押してはるお兄さん?」
もう一度呼ばれて振り返る。
「?」
「あぁ、やっぱり」
見覚えのある老紳士と若い女性が立っている。
「えっと……」
残念ながら僕の記憶に女性の姿はまるで残っていない。しばらくは知り合いだとも気づかなかった。
「渡辺ですわ。澪がいつもお世話になってます」
頭をさげる男を見て、ようやく幼なじみのおっちゃんだと気づいた。昔は『澪ちゃんのおっちゃん』と呼んでよく遊んでもらったもんだ。ずいぶん老けていた。
「あぁ!」
「ご無沙汰してます」
驚く僕を見て、男はもう一度丁寧にお辞儀をした。昔から腰の低いところは変わっていない。
「おっちゃん久しぶりやなあ! もしかして澪ちゃん?」
「光琉くん?」
「めっちゃ変わったやん! ぜんぜんわからんかった!」
澪ちゃんは、髪を明るく染め、きつい付けまつ毛をつけ、派手な化粧をして、チューブトップにミニを穿き、見た目はずいぶん違った。いや、まったくの別人だった。それでも、とても明るい笑顔をしていた。うわさなんか嘘のようだ。
「お父さん、先帰ってて」
澪ちゃんはおっちゃんを振り返って促した。おっちゃんは困った顔をして僕を見た。
「大丈夫やから」
澪ちゃんはもう一度強く云った。おっちゃんは今度は苦い笑顔を作って僕に頭を下げた。
「またうちにも遊びに来たって。澪、まっすぐ帰ってくるんやで」
「わかったから!」
澪ちゃんは面倒そうに答えた。僕も頭を下げた。
「光琉くん、めっちゃ久しぶりやなぁ。元気にしてんの?」
細くて長いタバコにジッポで火をつけると、ふーと空に向かって煙を吐いた澪ちゃんは、僕の記憶の中の澪ちゃんとはだいぶ違う気がした。
「う、うん。澪ちゃんは?」
僕はどういう態度をとっていいかわからなかった。自然と声も小さくなる。
「めっちゃ元気。うちのおとんうざいやろ? ほんま腹立つわ」
澪ちゃんは舌打ちする。
「なにしてんの?」
僕がバイクを押しているのを見て不思議そうにしている。
「いや、ガス欠してもうてん」
「なにそれうける! だっさ!」
澪ちゃんは長いネイルの目立つ手をたたいて笑った。どうやら僕の聞いていたいろいろなうわさは間違いらしい。見た目は変わってしまったが、澪ちゃんは昔のまま明るい。
「SNSとかやってる? 番号教えてや」
澪ちゃんはスマホを取り出して、長い爪でも上手に画面を操作しながらそう聞いた。僕もあわててスマホを用意した。
「今から一緒にご飯いかへん?」
澪ちゃんは僕の番号を登録するのに、やはり画面を操作しながら話した。
「いや、ガソリン入れなあかんし」
僕は迷っていた。あれほど憧れていた澪ちゃんの方からこんなに親しく誘ってくれるなんて、あの頃は思いもよらなかった。ただ、久しぶりに会ったからだろうか、たとえようのない違和感があった。濃い化粧をしたり、タバコを吸ったり、変わったのは見た目だけではないような気がした。
「そんなんあとでいいやん」
澪ちゃんは腕を組んでくる。あの頃は、こういうイメージでなかったのは確かだ。
「ごめん。またメールするわ」
僕のつれない返事にむくれ顔をしながらも、澪ちゃんは「会えてよかった」とはにかんで僕を見送ってくれた。
人がなにも感じることなく、なにも考えることがないなら、僕はこのとき、澪ちゃんともうまくやれたんだろう。でも、二年前の事故から今日まで、澪ちゃんがどう感じ、なにを考えてきたのかを思うと、そして、澪ちゃんから感じる違和感を思うと、どういう訳かいたたまれなくなって、すぐにでもうちへ帰って一人になりたかった。
それも僕の考えすぎなのかもしれない。
六月十日
「めっちゃ眠そうですね」
僕がバイクをとめて鳥居をくぐると、朝一番で、葵さんは不服そうにそう云った。
「あのっ、実は」
云い訳を考える間もなくあたふたする。遅くまで澪ちゃんとメールしていたなんてとても云えない。
もちろんはじめはそのつもりはなかった。澪ちゃんに関わるのが面倒で先に帰ったのだから、メールのやり取りなんてしたくはなかった。でも、澪ちゃんから来るメールに一々返事をしていたら、朝方近くなっていたのだ。メールをしているうちに最初に感じていた違和感は薄れていたからかも知れない。
「ガス欠したんでしょ」
と、葵さんが云った。もう袴に着替えて表を掃いている。
「なんでわかったんですか⁈」
僕は心底不思議だった。
「昨日、鈴木さんとこでイーベタだったんで、お伝えしようと思ったんですけど、考えごとしてたら忘れちゃいました」
葵さんは顔をあげて舌をだした。
「ゆってくださいよ〜。大変だったんですから〜」
葵さんは、僕が眠そうにしている理由には触れてこなかったので、そのままやり過ごす。
それにしても、イーベタっておっさんじゃあるまいしと思う。イーベタとは、emptyのeに針がベッタリついてること。ようするにガソリンがもうないことを表す。
「あ、すぐに着替えてきますっ」
葵さんが掃き掃除をしているのにあらためて気づき、僕はあわててそう云った。
「いや、すぐ出るんでいいですよ。準備しててください。ガソリン大丈夫ですか?」
葵さんは意地悪な笑顔でこちらを見た。
「次は、その後紐を前に。そうです」
鈴木家に機材を取りに行ってから、昨日もらった緑色、正式には「松葉色」の袴を履くのに、葵さんに着付けてもらっていた。この袴は、神職のなかでも研修生など序列に属さない者にあてがわれる色だと聞いた。
葵さんの手が、何度も僕の後ろにまわる。葵さんが僕の腰を抱くかっこうになり、密着度が高くてドキドキする。
「はい。できました! きつくないですか?」
葵さんはそう云って僕の腰をパンと叩いた。
「なんか、不思議なんですけど、心が引き締まりますね」
水屋に映る自分の姿を確認しながら、正直に感想を述べた。
「でしょ! そうなんですよ〜」
袴姿の僕を満足そうに見ながら、葵さんは嬉しそうに笑った。心から笑っているのがわかった。
「さあ、引き締まった心でお掃除お願いします」
僕は竹箒を渡されて表にでた。
僕は掃き掃除が好きだ。なぜだかわからないが、箒で塵を集めていくのが楽しい。だから、この作業はまったく苦にならない。ただ、竹箒に砂利だと落ち葉がうまく集まらなくて、少しイライラする。しかもあたりは雨で湿っている。
「心を乱さず」
僕の心境がわかるのか、タイミングよく葵さんの声がする。
葵さんの境内を掃く姿は、その色あいもあってか、とても絵になる。
「それにしても、やっぱり父親の霊で決まりですかね」
サーモグラフィにはなんの反応もなかったものの、確認した暗視カメラの映像には、パチパチと音がするラップ現象、本棚の本が勝手に落ちるポルターガイスト、そして、オーブと呼ばれる浮遊物までしっかりと映り込んでいた。
何と表現するのがいいのかとまどうが、材木が軋むようなパキっと云う音が、小さいものを含めると一晩でも結構な数が録音されていた。
また、ちょうど零時を過ぎたころ、螢ちゃんの部屋にある入り口横の本棚から、一冊の雑誌が飛び出して床に落ちたのが録画されていた。それはまるで誰かが引っ張り出したようだった。
さらには、カメラの前を『オーブ』と呼ばれる浮遊物が何度か横切り、その前後に、ベッドで眠っている螢ちゃんが少しうなされているのが記録されていた。
田中さん夫妻にしても、僕にしても、その映像は衝撃的だった。
なんと形容したらいいだろう。背筋が凍るとか、鳥肌が立つとか、そういった言葉ではとても足りない。あいまいだった恐怖が、形をもって現れたとでも云うべきだろうか。
少しパニックに近い状態になっていた三人に、葵さんは一言「大丈夫です。よくあることですよ」とこともなげに云い、それがあまりにあたりまえの事のようだったので、僕たち三人も次第に落ち着いた。
「旦那さんは、奥さんや螢ちゃんや田中さんに何が伝えたいんですかね?」
そんなこともあって、僕はもう螢ちゃんのお父さんの幽霊のせいに決めてかかっていた。
「やっぱり、旦那さん、螢ちゃんの誕生日に、どうしても蛍を用意してあげたかったんですかね」
螢ちゃんの父親が、心残りであの世に帰れていないんじゃないかと思うのが自然だからだ。
「霊が原因という証拠はまったくありません」
葵さんは箒を動かす手を止めないまま、僕のしんみりした話に間髪開けずそう答えた。あんなにはっきりといろいろ映っていたのに、葵さんの言葉はそれを覆すものだった。
「ラップ現象は、気になるほど大きいもので一晩で三回ほどでした。
築年数を考えても、建材が馴染んでくる時期ですし、梅雨入りしたことも含めると、家鳴りの範囲を越えてるとは云えないと思います。
本棚から本が落ちたのは、本棚に無理に積んでいたためだと思われます。並べられた本の上に雑誌が何冊かのせられていましたから。
オーブは蚊などの羽虫の可能性があります。今時期から増えますしね。
現に、オーブが映りこんでいる前後に、螢ちゃんが、寝苦しそうに腕を掻くしぐさをしているのが写っていました。
羽虫は暗視カメラだと、オーブそっくりに映ります。
そうでないとしても、水蒸気である可能性もあります。
そもそも、オーブ自体、水蒸気が映りこんだものだという説もあります。
その証拠として、お風呂を沸かした状態で浴室の扉を開けて撮影すると、必ず無数のオーブが映りこむという話もあります」
さすがに手をとめて反論しようとする僕に、葵さんは隙を与えてはくれない。
「ただ、螢ちゃんや鈴木さん、田中さんが、螢ちゃんのお父さんのことでなにか罪悪感や後悔があり、気に病まれている可能性は否定できません」
その言葉について、僕は考えずにはいられなかった。
葵さんの云うとおり、螢ちゃんや鈴木さん、田中さん夫婦が、父親、旦那、あるいは娘婿の死を悔やみ、それらを幽霊としてつくりだしているということだろう。生きている側の都合だ。
逆に、亡くなられた螢ちゃんの父親も、娘や妻、田中さん夫婦に思い残すことがたくさんあってこの世にとどまっているとしたら、それは亡くなった側の都合だ。
問題は、『螢ちゃんたちが、螢ちゃんの父親に対してなにを悔やんでいるか』だと葵さんは云う。それは、『螢ちゃんの父親がなにを心残りに思っているのか』と差異はないように思う。
「普通に考えると、螢ちゃんの誕生日に用意したプレゼントを渡せずじまいだったこととか、螢ちゃんの将来のこととかですよね」
僕はつい螢ちゃんの父親の視点から答えた。
葵さんの返事はなく、割って入るように自転車のブレーキの音がして、加茂神社に参拝客が現れた。
「ようお参りくださいました」
葵さんの低くてしっとりとした艶っぽい声が響く。
ぎこちなくお辞儀をする少し肥えた少女は、本殿に参拝せず、まっすぐ葵さんの方へやってきた。
「あの」
葵さんは小首をかしげる。
「どうされました?」
「私、高橋っていいます。鈴木螢の知り合いです! ちょっと聞いてほしいことが……」
覚悟を決めたように思い切って話す少女の言葉は、僕たちの興味を十二分に惹いた。葵さんは少女を社務所へ案内した。
少女の名は、高橋雀。鈴木螢とは幼なじみだそうだ。螢ちゃんがお祓いを受けると聞いて、気になることを話に来たという。カギっ子同士だった二人は、いつもいっしょに行動していたらしい。云われてみれば、螢ちゃんの机の上に置かれた写真に写っていた女の子だ。写真よりだいぶ太ったみたいだ。
「三ヶ月前から、螢の様子があきらかにおかしいんです」
雀ちゃんの口ぶりに、話しているうちにだんだん力が入ってきた。
「同じ幼なじみに、ちょっと前に引っ越した子がいて、しばらく連絡が取れてなくて。その子の話ばっかりするようになったんです」
葵さんは神妙に少女の話を聞いている。
「お父さんが亡くなったころは、螢ちゃんの様子はどうやった?」
僕は気になることを聞いてみた。
「…… 螢、しばらく学校休んでたから……」
雀ちゃんもうつむいてしまった。よっぽどつらかったんだろう。
「ご両親が亡くなって、親しい友達が引っ越して、螢ちゃん、寂しいんやろなぁ」
葵さんは、僕の話が耳に入っていないのか、一点を見つめて考えていた。
「螢のお父さんが死んでから、一年ほどで螢は元気になってたし、蓮が引っ越してからも、すぐ元に戻っててん。三か月前から急におかしいねん。独り言が増えたし、だんだんと部屋から出んようになって……」
雀ちゃんはもう一度、今度は強くそう云った。蓮くんとは、引っ越した友達のようだ。
「そうは云っても、お父さん亡くしたらなぁ。やっぱりつらかったんちゃう?」
小学生のころ、僕も父親を亡くしていた。その気持ちはよくわかるつもりだった。
「でも、一年くらい経ったころには、もう普通の螢に戻っててんて!」
雀ちゃんは強くそう云うが、お父さんを亡くして親友に引っ越されたらと思うとにわかには信じがたい。
人前では明るく振る舞えても、心中は察するにあまりある。
「お父さんも、螢ちゃんが心配でしょうがないんやろうなぁ」
僕は思ったことをもう一度つぶやいた。成仏できない理由もわかる。
螢ちゃんにしたって、お父さんを失って、親友に引っ越されてしまい、三か月前にいよいよ心が折れたと考えても、何も不思議なことではない。
「雀ちゃん? その引っ越したお友達の連絡先、教えてくれます?」
葵さんは眼が覚めたかのように、唐突に聞いた。雀ちゃんはスマホを取出し、画面に連絡先を写すと葵さんに渡した。
「あの、あそこってどうやってはいるんですか?」
雀ちゃんは、ぽつりと聞いた。本殿に入口がないのが気になるようだった。よく考えれば確かに不思議だ。
「本殿には人は入れへんよ。何かあったときは、前の格子戸をはずすんやけど、もう百年も開けられたことないん」
葵さんは両手にスマホを持ち、連絡先をスマホに登録しながら答えた。
「ふーん」
雀ちゃんは、もうどうでもいいように葵さんから自分のスマホを受け取った。
六月十一日
昨日の夜半から降り出した雨が止まず、しとしとと辺りを濡らす。
僕は、前日の汚名を晴らすため、葵さんより早くに出勤し、驚かせてやろうと張り切って早起きした。
バイクを外に止めて、鳥居の前でお辞儀をしてから境内にはいり、着ていた厚手のレインコートを脱ごうとした。
「うぉあ!」
本殿を見て思わず声にならない声を挙げた。レインコートや長靴、手袋など、マスク以外は黒で統一された葵さんの姿が眼に入る。先を越された。
葵さんは僕の奇怪な声を聞いて振り返る。その眼は、驚きと悲しみを宿していた。
本殿の格子戸が外され、中が丸見えの状態だったからだ。
この神社の本殿は、左右に開帳できるような両扉になっておらず、格子戸を外して開くタイプになっている。もちろん、むやみに開かないことが前提のつくりだった。もう百年以上開かれたことがない。
その格子戸の上方が外されて、さい銭箱の上に投げ出され、本殿の中がはっきりとうかがえた。
そこには、百年も放置されたとは思えない、比較的よく磨かれた銅製の丸い鏡がまつられ、その奥に、奈良の大仏を等身大に小さくしたような仏像が置かれていた。おそらく、国宝とか、重要文化財とかに指定されて然るべきものだろう。その両側には八咫烏の、写実的で見事な彫刻が羽を広げている。いつかみた平等院の鳳凰のようだ。
鏡の前には、おそらく銅製の剣であろうものが、美しい刺繍の施された橙色の袋に入れられ、五色絹が括られて置かれていた。袋と絹も、百年の時間は感じさせない。
仏像の左の手のひらには、小さな紫の座布団が置かれ、おそらくその上に安置されていたであろうものの姿がなかった。
「葵さん……」
僕は、頼りない声で葵さんを呼ぶ。
「嫌な予感はしていたんです」
葵さんは、キッと格子戸を強くにらみながら小さくそう云った。
僕は、まっさきに伊藤の「持ち出せへんか?」という言葉が頭をよぎっていた。異様に毘盧遮那仏の涙への執着を感じる。
嫌な気持ちをぬぐえないまま、さい銭箱の上に放置された格子戸をもとの位置にはめようと、本殿に近づいた。
「あ、いい機会なんで、中、全部掃除しましょうか」
葵さんはもういつものように明るい声で、マスクとレインコートの間から出た眼をくしゃくしゃに閉じて笑った。切りそろえられた前髪が、まっすぐな眉毛にまばらにかかって、それがなぜかかわいく思えた。
僕たちはレインコートだけ脱ぐと、私服のほうが掃除がしやすかろうということで、そのまま本殿の掃除をはじめた。外は強くはないが相変わらず降っている。
中はとても暗く、冷房を強くかけたようにひんやりとしている。奥の土壁に防音効果があるのか、とても静かだ。
はたきで埃やクモの巣をおとし、壁を雑巾で拭いてまわる。几帳面な僕は、濡れ雑巾で一度拭いた後、からぶき雑巾で拭きなおす。
「ぐっじょぶです!」
葵さんはそれを見て満足そうに親指を立てた。
床は、ほうきでざっと履いたあと、最後に社務所の小さなクリーナーをかける。
「ご本尊はどうします?」
僕は、二体の八咫烏、仏像、鏡、剣には手を付けていなかった。
「さすがに恐れ多い気がしますね。父に任せましょう」
葵さんもそう云って本殿をでた。僕は、少しホッとした。葵さんにもそういう気持ちがあるんだ。
格子戸をはめる。いとも簡単にはまった。
「でしょう?」
葵さんは格子戸をはめた僕にそう云った。
「何がですか?」
「簡単にはまるでしょう?」
そう云えば、僕くらいの大人がやれば、この格子戸は簡単にはまる。そして、きちんともとのように格子戸をはめておけば、中のものを盗んでも、おそらく誰も気づかない。中が暗くて外からでは眼を凝らしても何も見えない。
ということは、盗んだことを気づかせたいのか、もしくは、格子戸をはめられない、大人じゃないものが盗んだということ、あるいは格子戸をはめる時間などの余裕がなかったかだ。
「なるほど~」
僕はつい大きな声をあげた。僕にも犯人の目星がついたからだ。
「もしかして、雀ちゃんですか?」
掃除道具を片づけながら、葵さんに聞いてみる。しばらく返事はない。それでも、螢ちゃんの現状と、今日が誕生日であることを合わせて考えると、誕生日プレゼントに持ち出した可能性は、動機としては考えられなくもない。
昨日の訪問は下見だったのかもしれない。
「どうでしょう…… この件はもうひとつ何か絡んでいるようですよ」
葵さんが真相を語ってくれると唾をのんだとき、その男が現れた。
「全部見とったで」
高そうなスーツに身を固めながらも、だらしなくネクタイを緩め、シルクのシャツのボタンをいくつか外したままにしてある。
「…… 伊藤…… さん」
なぜだか僕は、家族の悪口を云われたような、とても疎ましい気分を抱いていた。
「あなたが伊藤さんですか」
葵さんの声も少し厳しく聞こえる。
「おう。はじめましてやな」
透明なビニール傘を手にした伊藤は、鳥居をくぐって境内にいるにも拘らず、タバコをふかしている。
「お願いしてもいないのに、光琉くんのようないい人を紹介してくださったことは、心からお礼申し上げます」
葵さんは棘のあるもの云いながら、深々と丁寧に頭を下げた。葵さんにそう云ってもらえて、いささか気分が戻った。
「ただし、境内は禁煙です」
頭を上げたとたん、葵さんは冷たい声色で云った。
「それどころやないやろ」
伊藤はタバコを境内へ放り投げ、湿った石畳に落ちた吸い殻を、艶のある重そうな靴で踏みつけた。
「持ち出したら世界が滅ぶ、毘盧遮那仏の涙。どないすんねん」
葵さんは黙って伊藤の行動を見ていた。刹那、その顔色が変わった。
「おまえ今なにした?」
それは低く小さな声だ。伊藤は自分に云われたのかもわからないように眼を瞬かせている。
「おまえ、今、なにしたかって聞いとんねん」
葵さんはもう一度同じトーンの声をゆっくりと発した。
「タバコのポイ捨てか? それと世界の破滅とどっちが大事なんや。自分のしたことは棚の上か!」
伊藤もようやく自分の行動に対する言葉であることを知り、一流の記者とも思えない幼稚な反論をした。
「関係あるかい! 拾えや。もしくは出て行け」
それはやはり葵さんの口から発せられているとは思えない乱暴な言葉で、男の声のように低い。
伊藤は仕方なくポケットからティッシュを取り出して吸殻を包むと、神経質にティッシュを何重にも巻いてポケットに戻す。
「まるでヤクザやな」
伊藤は反対に冷静につぶやいた。
「あなたですよね? 毘盧遮那仏の涙を、都合よく記事にしたのは」
葵さんも冷静さを取り戻したようだ。
伊藤はぱっと振り返る。
「さぁな。また飯の種ができそうや」
伊藤はそのまま境内を出て行った。境内には、なんとも云えない嫌な空気が残る。
「葵さんは、伊藤さん…… 伊藤にあったことないんですか?」
「ないですよ」
葵さんは掃除道具の片づけを再開する。
「てっきりお知り合いなのかと……」
すぐに葵さんの片づけを手伝う。
「光琉くんがくる何日か前に履歴書が送られてきました。それから前日に、あの男から電話がありまして、『フリージャーナリストの伊藤いいます。アルバイトさん募集してはりますよね? 明日から一人行きますんでみたって下さい』って」
葵さんは伊藤の声色と表情を真似てそう云った。
「微妙に似てますね」
二人は顔を見合わせて笑った。
そのときふと、僕の頭に一つの仮説が思い浮かんだ。よく、『犯人は現場に戻る』という。伊藤は現場に戻ってきたんじゃないのか?
「毘盧遮那仏の涙を持ち出したんって……」
掃除道具を片付けながら、そうつぶやいた僕に、葵さんは「さぁ」とだけ云った。
僕は葵さんに従って、仮の祭壇やおおぬさなど、ご祈祷に使うものを準備していた。そのあと、社務所で打ち合わせを行う予定だ。いよいよ明日がご祈祷の日だ。
「まず、今回の依頼の真相をまとめていきたいと思います」
葵さんが話をはじめる。僕は相変わらず頼まれてもいないが、メモをとる準備をしていた。
「三ヶ月前から、鈴木家の、主に螢ちゃんの部屋で、ラップ現象やポルターガイストが起こり、螢ちゃん自身や田中さんが螢ちゃんの部屋で、男性の幽霊を見るようになった。
同じ時期に螢ちゃんの様子がおかしくなり、部屋に引きこもって独り言を云うようになった。
それらを改善してほしいというのが依頼の内容ですね」
葵さんはいつもどおりだが、はじめての祈祷を明日に控え、僕はいくぶんか緊張していた。
「これを、私は精神的な、なにかストレスによるものと考えて検証しました。
まず、ラップ現象は、検証の結果家鳴りの範囲を越えていないということ。
ポルターガイストと田中さんの見た幽霊は、田中さんの認知症の可能性があること。
そして、螢ちゃんの見た幽霊は、精神的に追い詰められた幻覚である可能性があること」
葵さんはそこで一呼吸おいた。
「明日は、慎重かつ丁寧に依頼主様と接し、誠心誠意取り組んで、祈祷を成功させましょう……」
家に戻り、入浴して部屋で横になって読書をしていた時だった。
「晩飯まだぁ?」
足で部屋の扉を開けて母親に聞こえるように声を出す。
返事がないのに頭に来た僕は、立ち上がって部屋の扉に手をかける。そのとき、扉が生きているように上下に動いた。
突然辺りは地鳴りに包まれ、ゆっさゆっさとなにもかもが揺れ始めた。
地震だ。しばらくは動くこともできない。
二分ほどで収まり、「だいじょうぶか~」と母親の声がした。
僕は「だいじょうぶ」と返事を返し、パソコンを立ち上げて地震情報を確認した。
「小笠原諸島西方沖…… 小笠原村震度七! …… マグニチュード八.五…… 東京五弱、神奈川五強、大阪は三…… あれで三? 関東以外日本中どこもかしこも震度三。範囲でかぁ」
その地震情報の地図は、まるで日本地図を数字で示す図のように、北方領土から沖縄の端まで震度三より上を表す数字がぎっしりと入っていた。
「ちょっとこっちの部屋散らかったから片付けんの手伝って」
母親の声がして奥の部屋に行ってみると、普段無理やり積んでいる本や、洗濯の山が散乱していた。
「ちょっと災害対策考えろやぁ」
僕は母親に説教しながら本を拾った。なにか嫌な予感がする。もし、毘盧遮那仏の涙が関係していたら…… そう思いかけて、そんな話、さすがにあるわけがないともみ消した。
六月十二日
いつもと違い、葵さんの軽自動車で鈴木家に来ていた。たくさん荷物があるからだ。意外なことに軽自動車は黒じゃなくベージュだった。
いつもと同じなのは葵さんの運転だ。よく云うとメリハリがあってうまい。
「こんなん好きなんですか?」
ダッシュボードには、太陽の塔だとかカエルだとかキノコだとか昆虫だとか、食玩やガチャの景品が賑やかに並んでいる。女の子らしくはない。僕はその内の一つを手に取って聞いてみた。ヘラクレスオオカブトだ。
「めっちゃかわいいでしょ⁉」
葵さんは興奮してそう云うが、僕は承服しかねた。
「いや、僕はめっちゃ好きですけど、かわいくはないですよね……」
葵さんは「なんでなんですか~!」と反論していたが、間もなく車は行先に到着した。
「黒じゃないんですね」
車を降りてそう聞くと、さらに意外な答えが返ってきた。
「私、別に黒が好きってわけではないんですよね……」
その返事にあっけにとられている僕をおいて、葵さんは鈴木家に入って行った。
仮の祭壇は、それほど豪華なものでなく、必要最低限なごく簡素なものだった。僕はさっそく仮の祭壇を組んでいく。前日によく予習をしておいただけあって、作業はスムーズだった。
一段目に鏡をお祀りし、二段目に、榊木をたて五色絹をさげた剣と勾玉を左右に配置し、瓶子などを用意する。
本当は野菜やら乾物やら果物やらも備えるようだが、とりあえず神酒、水、米、塩を並べる。
もちろん今日は白衣に浅葱色の袴、下っ端の正装だ。
午後にはリビングに仮の祭壇が完成していた。
まずは重要事項を田中さん夫婦と鈴木さんに説明する。
ダイニングのテーブルに、田中さん夫婦と鈴木さん、葵さんが席に着く。
葵さんが、話をはじめた。
「これから、ご祈祷を始めますが、祈祷中は、何があっても中断することのないようにお願いします。霊障の場合、途中で『もうやめる』と暴れ出す方もよくおられますが、私たちは最後までご祈祷させていただきますので、その点よろしくお願いいたします。
また、祈祷後のフォローもさせていただきますが、初穂料の返金などには応じられませんのでよろしくお願いします」
田中さん夫婦も鈴木さんも神妙に葵さんの話を聞き、書類にサインをした。
なにかと多いトラブルを避けるため、きちんと書類にすることになっていた。
「あと、もし田中さんの幻覚がひどくなるようなら、受診されるのもひとつかなと思います。と云いますのは、手が不自由だったり、震えたり、幻覚、物忘れ、それから足の弱りなど、認知症など疾患の一種である場合がございます」
葵さんは、ごく当たり障りのないように話をすすめる。
「ありがとうございます。さっそく検査に行ってみます」
田中さんは、機嫌を損ねずに聞いてくださった。なかには、「まだ若いのに認知とは!」「病気のせいにするのか!」など、怒り出す方も当然おられると聞いた。
いよいよ祈祷がはじまる。
葵さんは白衣の上から立派な千早を纏っている。葵家の家紋である『牡丹に獅子』が緑色で刺繍されている。通常、千早には鶴と松が刺繍されており、牡丹に獅子というのは他には例がないはずだ。葵さんの趣味だと云っていた。
祭壇に葵さんが向き、そのうしろに螢ちゃんが座る。さらにうしろに鈴木さん、田中さん夫妻が座る。螢ちゃんは左手に加茂神社のお守を握りしめている。
葵さんの祝詞がはじまる。祝詞も種類があるらしいが、まだ素人の僕にはわからない。
腹の奥から出ている声だからか、普段の葵さんの声とはずいぶん違う。
祭壇に向かって祝詞を唱えながら、ときおり大きくおおぬさを左右に振る。これにも振り方があるらしいが、僕がそれを学ぶのはまだ先だ。
数分それが続く。
やがて祝詞は終わり、両手を合わせて眼を閉じる螢ちゃんと、葵さんが向き合う。
葵さんは螢ちゃんの前に膝をついた。
「それでは、少し深呼吸をしましょう。吸って~吐いて~」
葵さんの誘導に従って、螢ちゃんは深呼吸を繰り返す。
「はい。もっと深~く呼吸しましょう。鼻から吸って~、口から細~く、長~く吐きま~す」
吸う息に比べて、ずいぶんと長く吐く。
「はい。それでは、身体の力を抜いていきましょう。まずは頭から、首、肩の力を抜きま~す」
葵さんに、全身の力を抜くように誘導されていく。
「腕~、手の先まで~、それから胸、お腹、背中、腰、お尻から、足へ~全身の力を抜いていきます」
螢ちゃんは、素直に力を抜いたようで、椅子の上でぐったりと頭を下げ、両手をたらした。
「さあ、螢ちゃんの中の方、表にでてきてくれるかな」
葵さんは螢ちゃんの肩にそっと手をのせて、覗くように目線を合わせた。その語り方はゆっくりとしていて柔らかい。子供に語りかけるようだ。
「さあゆっくりでておいで。お話しよ?」
螢ちゃんへ向けられたその言葉にはじめに反応したのは、意外なことに螢ちゃんのお母さんだった。陽菜さんは、葵さんに云われるままに、螢ちゃんと一緒に深呼吸をしていた。その誘導に合わせるようにだんだんとうつむいて、力が抜けていくのがわかる。そして、葵さんの呼びかけが始まると、陽菜さんはふらふらと身体を動かしはじめた。
「どうされました?」
葵さんは陽菜さんに聞く。
「…… は…… はな…… はなしを」
うつむいたままの陽菜さんから、声を出しにくそうに途切れとぎれに言葉が発せられた。僕らはその悲しそうな声に、じっと耳を澄ました。
「話を…… きいて…… きいてくれるんか」
ラジオのチャンネルが合うように、だんだんと陽菜さんの声がスムーズに出始めた。
「陽菜!」
田中さんは心配そうに陽菜さんの肩をつかみ顔を覗き込んだ。
「田中さん」
葵さんは一言田中さんをたしなめ、首を左右に振った。
「どうぞ」
葵さんは、螢ちゃんの前にしゃがんだまま、陽菜さんの方を向いた。
「お、俺が…… つた…… 伝えたいのは……」
陽菜さんは、痰が絡んだように言葉に詰まりながら先を話した。
「くさ…… くさ、くされた、る…… くさ、ほた…… ほた、ほたるとなる」
陽菜さんはそこでさめざめと泣いた。
「あなた、螢ちゃんのお父さんですね?」
葵さんは陽菜さんに向かってそう云った。
「そう! そうや!」
葵さんの質問にチャンネルがぴたりとあったのか、陽菜さんは比較的流暢に語り始めた。
「ほ、螢、螢に、聞いてほしいねん。螢が生まれたのは六月十一日。く、『腐れたる草蛍となる』という暦や。
蛍は、梅雨の雨で湿ったじめじめした草の中から、綺麗な光を放ってでてくる。それになぞらえて、環境がどんなに苦しくても、蛍のように輝いてほしいという願いを込めて、螢という名をつけたんや。それを忘れてほしいないから、毎年蛍をプレゼントしててん。
今かってつらい思いをしてると思う。無理はせんでええ。それでも、人として輝いて生きてほしい。やさしい子でいてほしい……」
陽菜さんは、途中何度か詰まりながらも、涙ながらにそう話した。それだけ話すと、落ち着いたのか、うつむいて動かなくなった。
間をあけず、今度は螢ちゃんの様子が変わる。同じようにうつむいて頭を揺らし始める。ガタガタと震えだし、髪を振り乱し、カチカチと歯を鳴らしはじめた。長い髪が前に垂れ下がり、それこそ幽霊のようだ。
「ほ、ほたる」
田中さんご夫妻は、今度は螢ちゃんを心配そうに見た。
葵さんは僕に合図をする。僕は螢ちゃんの後ろに周り、彼女の身体を支えた。
「そう。寒かったんやね。もう大丈夫やで」
葵さんは母親のように、螢ちゃんの両肩を温めるようにさすりながら、やさしく語りかける。葵さんの言葉にあわせて、僕は田中さんに毛布を用意してもらう。
螢ちゃんは、しくしくと泣き始めた。
「さあ、話してみて? なにがあったんか」
田中さんが持ってきてくださった毛布を螢ちゃんの肩にかける。それでも震えは止まらない。
「あなた、螢ちゃんのお父さんちゃうやろ? 蓮くんやろ?」
葵さんのその一言で、螢ちゃんは号泣しだした。激しくウンウンとうなずいている。
僕にしたって、田中さんたちにしたって、葵さんのその言葉の意味は皆目分からない。
「ひ、引っ越しなんかしたくなかった…… 引っ越しなんか……」
はじめて口を開いた螢ちゃんの声は、螢ちゃんのものではなかった。
「引っ越しなんか…… 引っ越しなんか……」
僕が螢ちゃんの身体を抑えてなければ、螢ちゃんの身体は倒れていただろう。それくらい、右に左に、前に後にと身体を揺さぶる。その姿はどことなく常軌を逸していて、はっきり云って気持ちが悪かった。
「…… つらかったなぁ」
葵さんは云う。
「寒い…… 寒い……」
螢ちゃんは、ガタガタと震える。
「寒い? 寒いんかぁ」
葵さんは毛布の上から身体をさする。
「許せん! あいつら許せん! 許せん!」
螢ちゃんの身体の揺れが激しさを増す。
「なにがあったん?」
悔しそうに両手で膝をバシバシと叩く。
「僕、なんもしてへんのに! なんもしてへんのに!」
螢ちゃんの涙は止まらない。
「なにもしてへんのに?」
葵さんは覗き込むように顔を下げ、閉じられていても螢ちゃんの目線の高さに合わす。
「無視するん。あいつら無視するん。僕の言葉がちゃうからって!」
螢ちゃんは、前に見たときとはまるで印象が違う。それは、まさに別人に憑依されていると云われて納得できるものだった。
蓮くんの話は、途切れがちなこもった掠れ声で、嗚咽とともに、ないしは空咳とともに、螢ちゃんの小さな口から発せられた。
その内容は、聞くに堪えないひどいものだ。
「順序よくいこか。引っ越したんはいつ?」
葵さんはとても落ち着いていて、螢ちゃんの異様な状態には関心がなさそうだ。
「き、去年の…… 九月」
螢ちゃんは喉にひっかかる痰を吐き出しでもするかのように、一生懸命に声を出した。そのこめかみには、じっとりと汗がにじんでいる。
「新しい学校はどうやった?」
葵さんの質問は躊躇なく続く。
「は、はじめは…… た、楽しかった」
転校して初めての授業は歴史だった。ちょうど大正デモクラシーのあたりで、権利と自由の話を、歴史を担当している担任の先生が力を入れて話してくれた。なんでも先生はクラスを持つのが初めてで、転校生も蓮くんが最初だったそうだ。
先生は「普段、私たちが当たり前に思っている権利と自由は、歴史上のたくさんの人物の努力で勝ち取られてきたものなんです。だから、大切にしましょう」と、いきいきと教えてくれた。
蓮くんにとって、いろんな意味で印象的な授業だった。
それから蓮くんは、持ち前の明るさと関西人らしいユーモアで、たちまちクラスの人気者になっていた。
「つっこみしてみて」とか「おもしろいことして」とか、無茶な注文にも応えてみんなを笑わせていた。
そのころは楽しかった。
「ほんで?」
葵さんの簡潔な質問には、そこからどうして自殺するに至ったのかという意味合いが含まれている。蓮くんを憑依させた螢ちゃんは、その意図を汲んで話を続けた。
「せ、成績が一番で、た、体育もよくできる学級委員長がいて……」
「いて?」
葵さんは合いの手を入れる。螢ちゃんは話を続ける。葵さんはそうやって、少しずつ話を聞き出していく。
学級委員長のクラスでの信頼は絶大だった。『学級委員長が云うのならそうなんだろう』とクラスの誰もがそう思うくらいだ。
新米の若い担任教師も同じに、学級委員長に甚だしい信任を抱いていた。それはむしろ、委員長の云うとおりにしておけば、クラスが波立つようなことはないといった類のものだ。
その学級委員長の一言が、事態を一変させることになったのだ。
「佐藤くんの言葉ってウザいよね。大阪弁って、どこか気味が悪い」
この一言以来、蓮くんはクラスの誰からも話しかけられることがなく、次第に無視されるようになった。親しくなっていた友達も「佐藤くん関西弁やめれば?」とそれ以上取り合ってくれない。
「先生に云わんかったん?」
葵さんは、蓮くんをいたわりながら、俯いた螢ちゃんの顔を覗き込み、ごく優しく聞いた。
「か、関西のこ、言葉はきつく聞こえることもあるから、ら……」
「あるから?」
「は、早くこっちの言葉に慣れなさいって……」
さらに質問をつなごうとする葵さんを遮って、螢ちゃんは続けた。
「せ、先生だって、佐藤くんがいじめられたら困るんだからって……」
うつむいた螢ちゃんの身体が小刻みに揺れている。その揺れ方も、どことなく人間らしくなく、狂気を感じさせて、いかにも不気味だ。その表情は真っ白で、眼の下だけがやたらと黒い。
「ほんで?」
葵さんはさらに先を促した。相変わらず螢ちゃんの奇怪な様子には関心がないようだ。
螢ちゃんは、葵さんに促され、身体を揺すりながら話を続ける。
ある日、蓮くんの机と椅子が校舎裏の粗大ゴミ置き場に運ばれていたことがあったらしい。粗大ゴミを捨てておくように云われた委員長が、間違えてやったというのが表向きだ。
蓮くんは、机と椅子がない以上授業にもでないで探し回るしかなかった。一日探してやっと見つけたのだ。蓮くんは、委員長につかみかかった。
「おまえどういうつもりやねん! 間違えるわけないやろ!」
それを受けて、委員長はみんなの前で先生に頭を下げるパフォーマンスをやってのけ、「そこまでさせるなんて、佐藤くん最低。委員長がかわいそう。間違えただけなのに」といった声がいくつも上がった。
出席を取るときに名前を呼ばれなかったこともあった。出席簿に修正テープがひかれ、先生が気付かなかったのだ。蓮くんは真相を知るまで、先生にも無視されたと思いショックだったという。
「先生は、なんとかしてくれんかったん?」
葵さんの云うことに、鈍い反応をし、螢ちゃんの返事は必ず一拍遅れた。それも、無性に苦しそうに、絞り出すように話す。
「い、委員長には…… か、勝てんかった……」
その言葉の意味は、あとに続く話を聞けば理解できた。
先生は、蓮くんが無視されている問題について、なんとかしようと尽力したが、誰も無視などしていないと云いはる。そう云われては先生にはやりようがない。
ほかにも、「誰としゃべろうが僕たちの『自由』でしょ」とか、「友達を選ぶ『権利』がありますから」とか、口の立つ生徒も多い。いや、それは委員長の入れ知恵だったのだろう。歴史の授業を受けて、先生が力を入れて話すのを見て逆手に取ったのだ。
きつく叱ると、委員長のひと言で、授業をボイコットされることも考えられる。ボイコットと云ってもあからさまなものではなく、全員が風邪をひいたと云って学校を休むのだ。これこそ、風邪と云われるとどうしようもない。以前、ほかのクラスでそういったことがあったことを先生は知っていたから、証拠をあげて深く追及することはなかった。
さらに、蓮くんの性格も災いした。
勝ち気な蓮くんは、「おはよう」とあいさつしても応えてくれない連中に「なんで無視すんねん!」とくってかかるようになり、そういった状況を先生が目撃することも多くなる。そうすると先生は、蓮くんに注意せざるを得ない。
特別蓮くんを悪く思っていなかった子までもが、だんだんに蓮くんが悪人に見えてくる。自然、蓮くんに対する嫌がらせが増える。
嫌がらせをされれば、「云いたいことあんねんやったらはっきり云えや!」と誰にともなく叫ぶこともあった。ときには机を蹴ったり、物に当たったりすることもあった。誰もその訴えに応えず、蓮くんはその場に取り残される。まるで、蓮くんだけが調和を乱す悪者のようだ。
やがて委員長の親から『暴力的な生徒がいる』とクレームがくるようになり、新米先生は蓮くんをさらに指導するはめになる。
それでも先生は蓮くんを庇ってくれて、さりげなく委員長たちに注意をした。
『僕らは生徒ですから、きちんと授業を受ける権利があるでしょ? 授業の妨げになる人がいるなら、何とかしてもらわないと。大事な権利を放棄するわけにはいきませんから』
これが彼らの言い分だった。
まんまとクラスの問題児に仕立て上げられた蓮くんは、委員長以外の親からも多数クレームが来るようになった。
そうなると、リスクを嫌う組織の体質、危機管理の観点から、新米先生はもうなにもするなと云われ、蓮くんが直接校長先生に何度も呼ばれては、「ほかの生徒に食って掛かってはいけません。早くこちらの言葉に慣れなさい。関西弁は使わないように」と強く云われることになったのだ。
生徒たちは、さらに歴史の授業になぞらえ、『すこやかに授業を受ける権利』やら、『友達を選ぶ自由』やら、そう云った標語を作って教室に貼ったり、ホームルームで、『すぐに怒鳴ったり、物にあったりする人のせいで、怖くて安心して授業を受けられません。私たちには、安心して授業を受ける権利があります!』とか、『友達を選ぶのは人それぞれ自由です』と、蓮くんの名前は一切出さずに議論したりした。
蓮くん自身が、あきらかに蓮くんを無視した例を挙げて反論すると、『声が小さいから聞こえなかっただけでしょ? 声の大きさも自由にさせてくれないの?』とか、『あのときは他の事してたからわからなかったんです。他の事する権利も許されないんですか? 僕らは、佐藤くんに話しかけられたら、何してても中断して返事しないといけないんですか?』といった具合で、まるで埒があかない。
先生が口をはさんだとしても、『権利と自由は、たくさんの人が血を流して勝ち取ってきたものだから大切にしないといけないって習いました!』といった調子だ。
権利と自由。それを掲げられると、反して声を上げる方が悪者のように見えてしまう。
授業で先生が教えたことが、先生をこの件から遠ざけることになったのだ。
「なるほど…… 委員長に負けた…… か」
葵さんは小さくそう云ってうなずいた。
「あ、あとは…… も、もうみんなの…… い、云いなりで……」
螢ちゃんの話は続く。
三月のはじめのある日、その日は三月には珍しく零下となり、昼前から降りだした霙は午後には雨となっていた。
男子トイレの個室で用を足していたとき、蓮くんは上からバケツの水を浴びた。個室の外では「死ね! 死ね!」と大勢が手拍子しながら大合唱している。
「迷惑なんです。佐藤くん」
「私たちのクラスに要らない存在だよね」
「しーね! しーね! しーね! しーね!」
個室から出た蓮くんは、少し距離を置いて大勢に取り囲まれた。彼らと蓮くんとの間には、見えないクッションでもあるかのように、彼らが一歩前に出ると、蓮くんは一歩後じさる。
九月の終わりから始まった一連の出来事は、約半年で幕を閉じた。
冷たい笑い声と、しんしんと降る雨の音がつららのように胸に刺さり、蓮くんはそのまま五階のトイレの窓から、生徒たちに押されるように飛び降りたということだ。
「し、死にたくなんかなかった! でも、そ、そうするしか…… な、なかった!」
螢ちゃんは、まるで蓮くん自身のように狂ったように泣き叫びながら語る。
「む、無視されんの、どれだけつらいかわかる?
半年も、じ、自分の存在を認めてもらえないって、どれだけつらいかわかる?
話しかけても返事してくれへんくて、視線の先に行ってもおらんように扱われて。
教室に席がなくて、校舎の裏に机と椅子が捨てられてたときの惨めな気持ちとかわかる?」
螢ちゃんは、葵さんを責めるように云う。
「つらかったね」
葵さんは螢ちゃんの頭をゆっくりとなでる。
「無視されたのが許せなくて、それで帰れないんや……」
葵さんは確認するように聞いた。
「違う……」
螢ちゃんはきっぱり云い切った。
「なんで?」
葵さんは少し驚いた表情をした。
「許せへん。僕のようにいじめられてる子はたくさんいるやろうけど、それをほっとく学校も許せへん!」
葵さんは黙って螢ちゃんの頭をなでていた。
「学校って、そういうのなんとかするとこやろ?
僕にも、いじめられる子にも、なんか原因があったのかも知れんけど、だからっていじめていい理由にならんやろ。
先生は一生懸命何とかしようとしてくれたのに、なんか規則とか、危機管理とか、本当はいじめなんかの問題を起こさないためにあるもんが、なんにもせーへんことの云い訳になってるやん!」
螢ちゃんは、膝も手も真っ赤にして叩いた。狂気じみた様子はますますひどくなっている。
「学校なんか大嫌いや! 許せへん!」
葵さんは納得したように云った。
「それが心残りなんやね……」
螢ちゃんはガタガタと身体を激しく揺らしながら、文字通り気が狂ったように叫ぶ。
「寒い…… 寒い…… 許せん! 許せん! 許せん!」
螢ちゃんは、バタバタと両手を激しくふる。
葵さんは螢ちゃんを抱きしめた。
「しまいには、校長先生が、関西弁が耳障りやからしゃべるなって…… そしたらいじめられんからって…… しゃべるなって……」
「許せへんな……」
じっと葵さんは動かない。螢ちゃんはかなり暴れている。
「蓮くん…… 大丈夫、私が何とかするから大丈夫……」
葵さんは、ギュッと螢ちゃんを抱きしめて、耳元でささやくように何度もそう云った。
だんだんと螢ちゃんの動きもおさまってくる。
「生徒を守るための権利や、生徒の自由が、いじめる側を守ってるんやで?何とか出来んの?」
抱きしめながら、螢ちゃんの背中をさする。
「大丈夫。帰ろう? もう楽になりたいやろ? 大丈夫。蓮くんはもう楽になっていいんやって」
背中におおぬさをあてる。
「なんとかしてくれんの?」
「大丈夫。大丈夫よ。なんとかするから。蓮くんは、もうなにも苦しまなくていいねん。そのまま帰り。もう苦しまなくていいねんで。そのまま」
螢ちゃんは葵さんに抱きしめられながら、本当の親子のように、母親に甘えるように云い、葵さんもそれに答えた。
会話が止まると、きつく降りだした雨の音が目立って届く。
「いやや! ずっとここにおる!」
雨音を聞いて何かを思い出したように、抱きしめる葵さんを引き剥がすと、螢ちゃんは突然駄々をこねはじめた。今までとは明らかに様子が違う。
「あいつらに! あいつらに復讐するんや! 許せへん! やっぱり忘れるなんか無理や!」
螢ちゃんは眼を吊り上げて立ち上がる。その様子は、今にも何かに飛びかかりそうだ。
「あかん。蓮くん。螢ちゃんはどうなんの?」
葵さんはきつくならないように諭す。
「螢がずっと一緒にいていいって! だから、あいつらに復讐するねん!」
螢ちゃんはヒステリックに怒鳴り散らすが、葵さんは冷静だ。
「螢ちゃんは関係ないやん。螢ちゃん、巻き込んだらあかんやろ? 螢ちゃん、ずっと蓮くんのこと心配してたんやで?」
螢ちゃんの表情がさらに歪む。さっきまで自分の味方のように見えていた葵さんが、どうやらそうではないらしいと感じて戸惑っているようだ。
「うるさい! そんなん知るか! あんたもあいつらと一緒か! 僕を自由にやらせてくれんのか! 僕の権利を奪うんか!」
野生の動物が威嚇するように、そう云って叫ぶと、葵さんの方は眼を閉じて黙ってしまった。
螢ちゃんは血走った眼を剥いてよだれを垂らし、ふぅふぅと息をする。狂犬病の犬のようだ。
しばらくの間沈黙があって、外から雨音がその隙間に飛び込んでくる。額から頬を伝い、顎から汗が落ちていく。
数分経っただろうか、ぱちりと眼を開けると、葵さんが再び口を開いた。その眼はやはり、本当に『ぱちり』と音がしそうだったし、何か魂が宿ったように鋭かった。
「おまえ、なんで螢がずっと一緒にいたいって思ってるか知ってるか?」
その声は低く、とても冷ややかだ。
「螢は小さい時から僕のことが好きやから」
螢ちゃんは、何のためらいもなく子供っぽい無邪気な返事をした。それは、葵さんの怒りの炎に油を注ぐには十分な返答だった。
「なめんなよ。螢はおまえのおもちゃやないぞ?」
ゆっくりと、冷酷に言葉が発せられる。
螢ちゃんに憑いた蓮くんは、その言葉の意味がいまいち理解できないようだった。
「螢はなぁ、自分の身体を壊しても、学校を何日も休んでも、それでもおまえといてくれとんねん。このまま、螢が病気になってもいいんか? 螢がちゃんと大人になれんでも、おまえはそんでいいんか?」
蓮くんはうつむいた。が、すぐに眼を吊り上げて反論した。
「僕の自由はどうなんねん! あいつらに復讐する権利があるやろ! 螢も一緒にやってくれる!」
「そんなもんあるかい!」
雷のように、立ち上がった葵さんの声が間髪空けずに響いた。その両こぶしは固く握りしめられ、小刻みに震えていた。
「ええか? 権利ちゅうのは、『人を幸せにする権利』や! それ以外に権利なんかない!」
蓮くんは一瞬言葉につまる。
「で、でも…… そんなん僕の自由やんか!」
つまりながら何とか反論したが、それは何倍にもなって反ってきた。
「そんな自由はない! あるのは『人を幸せにする自由』だけや!」
葵さんの迫力に、蓮くんはすっかり意気消沈し、再び椅子に座り込むと下を向いて黙ってしまった。
「今おまえが螢ちゃんにやってることは、あいつらがおまえにしたことと一緒や。
自分の権利や自由を行使すんのに、螢ちゃんの権利と自由を奪ったらあかん。それやったら委員長らと同じや。
人の弱みにつけこんで利用する。そんな奴は、絶対許さん!」
蓮くんは、その話を聞いて今度は椅子の上でしくしくと泣きはじめた。
「じゃあどうしたらええん? 僕の権利と自由はどうなんの?」
蓮くんは泣きながら力なく、誰に聞くでもなく聞いた。
「自由には責任が伴うねん。蓮くんが選んだ『自殺』っていう自由の責任を果たさなあかんねん。それはな、権利を振りかざす前に義務を果たすってこと。蓮くんの義務は、逝くべきところに逝くことやろ」
葵さんは丁寧に返事をする。実際、蓮くんが理解するまで、何度でも言葉を選んで説明するだろう。
「でも、螢がいつまでもいていいって」
蓮くんのその言葉には、本当は復讐なんかどうでもよくて、ただ螢ちゃんのそばにいたいだけなんじゃないかと思わせる、悲しみのようなもの、心残りのようなもの、すがるようなものが感じられた。
「あかん。螢ちゃんの顔見てみいや。かわいそうに痩せてもうて、このままやと螢ちゃん病気になんで? 下手したら死んでまうで?」
それでも、葵さんは情けを見せない。厳しく蓮くんを諭し続けた。
「……」
それは、そこで甘さを許すと、二人を助けられないことを痛いほど知っているからだろうと思う。葵さんの額にも、たくさんの汗が玉となって噴き出していた。
「自分のやったことの責任はとろ。大丈夫。あとはなんとかするから」
葵さんはまたそっと螢ちゃんを抱きしめる。螢ちゃんは葵さんにしがみついて少しの間泣いていた。
「約束。おばちゃんと約束」
葵さんは身体を離すと小指を出した。その声はもとの優しい葵さんの声だ。螢ちゃんも小指を結んだ。
「おばちゃん、委員長は、蓮くんがうらやましかったんやと思うねん。蓮くんがみんなとあっという間に仲良くなってしまったから、それで、寂しかったんとちゃうかな。
自分の立場とか、人気を、蓮くんに取られてしまうと思ったんかな? 蓮くんのようになりたかったんかもね。
確かに、今は何の仕事でも、規則とか、危機管理とか、自由とか、権利とか、本当は被害者を守るためのものがうまく機能していなくて、加害者を守ってしまってるのかもね。
権利を主張する前に義務を果たさなあかんし、自由には責任が伴う。学校は、むしろそれを教えるべきところなんやけどな。
だから、約束。
お姉ちゃん、絶対に人を思いやる学校に変えていく。ちゃんと義務と責任を教える学校に変えていく。いじめる側が守られるような学校にはせーへんから、蓮くんは、帰るべきところに帰ろ?」
「そんなこと、できるん?」
螢ちゃんは不思議そうに聞いた。
「わからん。でも、やってみる。だから。な?」
螢ちゃんはこっくりとうなずくと、下を向いて動かなくなった。長い髪が前に垂れ下がる。
「いい? 狛犬が見えるやろ? 金色に光ってる狛犬。それにまたがって帰りぃや。狛犬が連れて行ってくれるから。向こうはすごいいいとこやから。さぁ、螢ちゃんのお父さんと一緒に」
葵さんはゆっくりと、囁くように云うと立ち上がり、螢ちゃんと陽菜さんの方を向いておおぬさを左右左と振る。
やや攻撃的な、呪文のような大きな声をあげ、それに合わせてさらにおおぬさを振る。
「ハイ!」
最後にそう云って螢ちゃんの背中を叩いた。パンと大きな音がして、その場の空気がガラッと変わった。
「はい、もう大丈夫やで」
葵さんはそう云って力を抜いた。
「大丈夫やろ?」
螢ちゃんの顔をのぞきこむ。
螢ちゃんは、ハンカチで涙を拭きながらエヘヘと笑った。顔に赤味がさしている。
「蓮くん、なんて云ってた?」
葵さんが、螢ちゃんの耳もとで話すのを聞き逃さなかった。
「ずっといっしょにいたかったって」
螢ちゃんの頬に、また大きな涙の粒が転がった。螢ちゃんはまた泣いた。
「もう、蓮くんは大丈夫。心配ないよ。お父さんも大丈夫」
葵さんは、螢ちゃんの頭をいつまでも撫でていた。
螢ちゃんは、きつく握りしめていた加茂神社の小さなをお守りを、僕らに見せるようにその手を開いた。
「去年、蓮が、私の誕生日とお父さんの命日が同じ日やったらお祝いしにくいからって、一日前の日にくれてん」
螢ちゃんは誰に云うでもなくそう云った。
僕は陽菜さんを介抱していた。陽菜さんの顔色もよくなり、すっきりした顔をしている。
「なんか不思議な感じ。ほんまに草介がいたみたい」
陽菜さんは眼をぱちくりしてそう云った。草介とは螢ちゃんのお父さんだろう。
祈祷が済んだあと、僕は祭壇を片付ける。葵さんは、陽菜さん、田中さん夫婦に、佐藤蓮くんのいきさつを説明した。
「今回のできごとは、螢ちゃんのお友達のいじめによる自殺が原因のようです。
螢ちゃんには、佐藤蓮くんと云う幼なじみがいましたよね。螢ちゃんの机の上の写真に写っていた子ですね。
この子は、一年前、中学二年生の二学期に関東の方へ引っ越しています。この前、螢ちゃんのお友達の高橋雀ちゃんからもらった連絡先から確認しました。
この蓮くんは、ちょうど三ヶ月前に、いじめを苦に自殺をしています。
学校側がいじめを認めず、名前なんかは伏せられていましたが大きく報道されたものです。現在も学校側はいじめ自殺だと認めてはいません。なんしか、螢ちゃんの話にも合ったように巧妙で証拠が挙がらないそうなんです。
お父様の草介さんは、私の呼びかけに呼応して、心残りだったことを話に来られたようでしたね」
葵さんの説明を聞いて、陽菜さんはうんうんとうなずき、田中さんの奥さんは、「引っ越す前は毎日のように遊びに来てくれた。とてもいい子だった」と涙を流しておられた。
僕は今度こそ、葵さんも云い訳をできないだろうと思い、意気揚々としていた。
ひととおり片づけもすんで、あとは帰るだけだった。
「あの、今日晩飯でもどうですか?」
僕はどうしても今日の祈祷の話が聞きたくて仕方がなかった。
「ごめんなさい。仕事の話はできるだけ仕事場でお願いしたいんです」
僕はどこでも構わなかったが、なんとなくふられた気分がした。別に下心があったわけではないが、いい気分ではなかった。
思えば、葵さんの方でも、きちんと説明しておく思惑があったんだろう。二人は社務所のちゃぶ台をはさんでコンビニ弁当をつまんでいた。
「今日のご祈祷のようすは、除霊としか云えないと思うんですけど」
葵さんは、確かに螢ちゃんに憑いていた蓮くんと会話をしていた。
「…… 催眠療法って知ってます?」
葵さんは膝の上においた弁当を両手で持ち、僕のプライドを傷つけないよう配慮してか控えめに云ったのがわかった。
「え? あれが催眠療法やって云うんですか」
弁当を食う手が止まる。
「退行催眠とか、前世療法とかの催眠療法ですか?」
突拍子もない葵さんの言葉に戸惑い、僕はもう一度確認した。葵さんは、小さくうなずくだけだ。
「そもそも催眠術って、受ける側の協力がないと成り立ちません。絶対にかからないぞ! かけれるもんならかけてみろ! って人にはかからないんです」
葵さんは催眠術について説明をはじめた。
「私たちの仕事は、依頼のあった時点で、催眠術にかけてくださいと云われているようなもので、とても暗示にかけやすいんです」
葵さんは弁当をかかえ、お行儀よく食べながら続ける。
「なかにはそうでない人もいます。とくに男性は、女性ほど感情的ではなく、理性で動かれますから、なかなか除霊も難しいそうです。でもそれは催眠術でも同じで、三対七の割合で女性の方がかかりやすいんです」
僕は、ご祈祷の様子をよく思い出す。催眠術では説明のつかない部分がないかを探すためだ。
「催眠術では、まず受け手に信頼してもらわないといけません。
私たちが事前に検証にうかがったのはそのためでもあります。
そこで、お父さんの死や、亡くなり方、その他いろいろ云い当てることで、私たちへの信頼はもちろん増しますよね。
そして、現場ではリラックスしてもらわないといけません。
祝詞を唱える間、いっしょに手を合わしてもらうことで、リラックスをしてもらい、深呼吸で力を抜いて、ゆっくり何度も問いかけることで、催眠状態に入ってもらうわけです。
それから、『蓮くん』と問いかけてみたり、『寒かったね』など、私が知るはずのない言葉で誘導していくわけです。
結果、螢ちゃんの心の中で蓮くんができあがり、できあがった蓮くんが私に誘導されて成仏していく。
もともと、蓮くんへの罪悪感や後悔から幻覚や幻聴を起こしているとすれば、蓮くんが成仏したと思い込んでいる以上、今後の症状は治まるというわけです。
陽菜さんの方は私も予想外でしたけど、あれは、草介さんの心残りというより、陽菜さん自身の心残りなのかもしれませんね。草介さんがつけた名前の由来を、螢ちゃんに忘れてほしくなかったんでしょう」
僕はぐうの音もでなかった。黙りこくった僕を見て、うつむいた葵さんは云った。
「インチキですよね……」
これが本当ならインチキだ。だましてる。初穂料もばかにならない額をいただいている。ぼったくりと云ってもいい。
「…… インチキですね……」
ただ、葵さんを責めるのが正しいのか、僕にはわからなかった。結果的に、螢ちゃんは救われたんだ。
「でも、螢ちゃん、ホッとした顔してました」
僕はそれだけ云うのが精一杯だった。
「ありがとう…… 光琉くんが来てくれてよかった……」
うつむいた葵さんは、僕には聞き取れないくらい小さい声でそう云った。
でも、やっぱり僕には納得が行かなかった。
あの時、螢ちゃんの部屋は、すみずみまで片づいていた。本棚も、僕が見た時点では、無理に重ねて積まれていることはなかったのだ。
そして、螢ちゃんの誕生日の前日に落ちた雑誌の表紙には、『Happy Birthday』と大きく書かれていた。