表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ファウストの聖杯 ―Please Burn Me Out―(Prototype)  作者: 明智紫苑
本編、フォースタス・チャオの物語
28/34

希望と奇跡

 百合の花が芳香を放つ。初夏の心地よさ、満足だ。

 あの頃の狂乱が嘘みたいだ。

 慎ましい我が家、ささやかな庭のある一軒家だ。俺たちは今までの印税でこの家を買った。その点でも、俺はアスターティに感謝している。

 この家は二階建てで、部屋数も十分だ。俺もアスターティも、それぞれ仕事部屋を確保している。以前住んでいたアパートでは蔵書などを持て余していたが、今はきちんと整理してある。これで仕事をするにも十分余裕がある。

 ラジオからロクシーの曲が流れてきたので、チャンネルを換えた。アスターティから聞いた話だけではない。それ以前からあの「ディーヴァ」の悪評が不愉快だったから、俺はロクシーを過大評価など出来ない。

 その悪評からして、俺は一人の男としてあの女を好きになる事は出来ない。

 今日の夕食はラム肉のトマトカレーとシーザーサラダだ。俺は材料の下ごしらえをしている。



「へえ、ラムセスって偉かったんだな」

 俺はメフィストに、かつての愛犬たちについて話した。

 ラムセスとは、俺が小学生だった頃にいた雄のグレートピレニーズだ。彼は、父さんに叱られて家出した俺を追って、慰めてくれた。

 俺はラムセスに諭された気になり、家に戻った。また父さんに叱られたけど、ラムセスは部屋に戻った俺に寄り添ってくれた。

「家康は?」

 家康。雄のフレンチブルドッグ。こいつは俺の高校時代の愛犬だ。

 俺の初めての「女」、だけど初恋相手ではない先輩女生徒にこっぴどく振られて傷ついているところを、この犬は黙って見守ってくれた。もちろん、家康はメフィストと違って普通の犬だったから、俺に対して慰めの言葉をかけようがなかったけどな。

 だけど、俺にはラムセスや家康の「言葉」が分かったような気がしたのだ。

 そして、今、俺の目の前にいるメフィスト。

 犬や猫などの飼い主は、自分が飼っている動物を我が子のように思う人間が少なくないが、俺にとってのメフィストはむしろ、兄弟だ。そして、ラムセスや家康もそうだった。

「明日、ユエ先生と一緒にあの人の墓参りに行くんだろ?」

「うん」

 アスターティは自室で勉強している。彼女が勉強中か作詞作曲作業中は、メフィストが話し相手になってくれる。



挿絵(By みてみん)

「ようやっと、一緒にあいつの墓参りに行けるな」

 助手席のユエ先生が言う。俺は車を走らせ、墓地に向かっていた。

 海の見える丘の墓地。心地よい南風が通り抜ける。

 俺は白い百合の花束を抱えて、先生と一緒にライラの墓を目指した。

「ライラ、来たよ」

 先生と俺は墓前に手を合わせた。

 俺はアスターティと一緒に暮らし始めてからも、時々ライラの夢を見る。しかし、ライラは優しく黙って微笑んで、俺を見守ってくれる。

 しかし、マーク。忘れてはいけない。あの子は俺のせいで、自分の母親を殺してしまったのだ。俺はただ漫然と己の幸せに浸ってばかりではいられない。

 俺の罪は、死ぬまで消えない。いや、他人の記録や記憶がある限り。


「あまり辛気くさくなるのは良くない」

 帰り道、ユエ先生は車の中で奇妙な話を始めた。

「21世紀の日本の話だ。ある男子大学生は就職活動中だったのだけど、この学生は外出中に突然便意を催した。それで、ある商業施設にあるトイレの個室に入った」

 え? そんなシモの話?

「用を足してスッキリした学生は愕然とした。その個室にはトイレットペーパーがなかったんだ。さらに、便器にはシャワー機能がなかった。さて、彼はどう対応したと思う?」

「うーん、分かりません」

「彼はさんざん悩んだ結果、メンソールやエタノールを含んだ汗拭きシートで尻を拭いたんだ。そのメンソールやエタノールが粘膜にしみて、彼は悶絶しそうだった」

 なんて話だ。

「だけど、彼はくじけなかった。彼はインターネットで自らの武勇伝をさらし、色々な人たちから励まされた。次の日にまたしても紙のない個室に入っても、くじけずに、靴下で尻を拭いた」

「神ならぬ紙に見放された男…ですか?」

「いや、運命の女神は気まぐれだ。たまには人間社会に面白い奇跡をもたらす。ネット上で話題になった彼は、ある会社の面接を受ける事になった。それで彼は会社の待合室で自分の番を待っていた。だけど、彼は前日興奮のあまり寝不足だったので、つい居眠りしてしまったんだよ」

「アチャー!」

 しかし、青年の奇妙な武勇伝はさらに意外な展開があった。

「問題の学生の無邪気な寝顔を見た社長は、彼を『こいつは大物になりそうだ』と見込んで、採用を決めたんだ。彼は数年間、そこで優秀な社員として働き、退職してからは作家になった。この作家は小説も面白いが、彼が本領を発揮したのはエッセイだった」

 先生の話を聞いているうちに思い出した。この話、どこかで聞いた。

 そうだ、これはまさしく、あの人のエピソードだ。間違いない。

「ノーベル文学賞候補にまでなった作家、神楽坂翔太かぐらざか しょうた。お前のご先祖様だ。お前のミドルネームはこの人に由来するんだな」

 そうだ。俺の遠いご先祖様、神楽坂翔太。確かに俺のフルネームは、フォースタス・ショウタ・チャオだ。

 ユエ先生は言う。

「大切なのは道のりそのものだ。そして、過去はあくまでも過去だ。ただ振り返るばかりでは、前には勧めないぞ。フォースタス」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ