第八章 ⑩
「フィルの目的は、『別世界』に通じる門の封鎖にあった。ダン・グラシャラボラスによる『門』の所有を危険視していたダンの有力配下数人が、ダンに背いて密かにフィルの傘下に入っていた」
ヴァラックスの城。
応接間に集まっているのは、綾香、睦朗、伯爵、ミラフ、ニケ――そして真っ赤な唇型ソファーをひとりじめして、我が家であるかのようにくつろいだ様子の天徳公申貴天。いつものようにモードなスーツをタイトに着こなした大天使は、マジェンタが「萌え萌えきゅん」を注入した緑茶で口を潤し、先を続けた。
「フィルは『別世界』の影響で魔界の均衡が崩れるのを嫌悪していた。霊々天が魔界をうろつくのも、魔界の均衡上快く思っていなかった様子」
フィルに殺されかけたことのあるミラフが、しらばっくれたように目をそらす。
「同様に、赤目の存在も魔界の均衡を崩すものとして危険視していた。私がフィルの書斎を調査したところ、彼は非常に綿密に赤目の研究を行っていた」
天徳公申は、向かいのソファーに座る睦朗を見た。
睦朗は、もとの女の子のような小柄な睦朗に戻っていた。
力の解放とともに滞っていた身体の成長を一気に取り戻したのだが、翼を発現しているとき以外は、もとに戻ってしまうらしい。若くて力の強い悪魔の場合、しばしばそういうことがあるのだそうだ。
翼をしまって魔力を委縮させておくことに身体が連動して、身体能力が後退してしまう反応のひとつだとかなんとか……。
綾香としては、ほっとしたような残念なような気分だった。
年相応の睦朗は、かなりかっこよかったのに……。
睦朗本人も残念なようで、翼をしまった自分の姿を鏡で見て落ち込んでいる様子を綾香は偶然見てしまった。鏡に手を突いてうなだれている姿は、言っちゃ悪いがなんだかかわいらしかった。
公申は続ける。
「フィルは当初、赤目を排除の対象として調査していたが、ダンが『別世界』との接点を持つに至って、『別世界』の乱入があった場合の戦力として利用することにしたと思われる。ダンが『別世界』との交流を深めたため、フィルは睦朗君の覚醒を急いだ。覚醒のきっかけが激情にあることは、おそらく最初から承知していた」
「森田さんと綾香の使い方が絶妙だったしな……。反乱を起こしたフィルが来たから、ダンは泡食って倉から魔界へ跳んだわけか?」
ミラフが質問を差し挟む。
「おそらく」
「ダンはフィルのやばさをいつからしってたんかな」
「不明。フィルに関しては情報が乏しい。翼の色から、天界の血が混じっていることは確実。母方の血筋に識属性を持つ堕天使がいたと思われる」
「まあ、そうだろうな」
「魔界の『秩序』のために異分子を排除するという行動も、魔族よりも天使の行動原理に近い」
「やつの先祖らしい堕天使の記録は、天界にねぇの?」
「ない」
「調べたのか……」
「ダンの城を崩落させて以降、フィルの足取りもつかめていない」
「そのうち戻ってくんだろ。あの書斎に」
「おそらく。あの膨大な、魔族と天使の研究資料を捨て去りはしないと思われる。フィル、彼の知識、彼の行動、興味深い……」
「おい。仲間に引き込もうとか思ってねぇだろな?」
ミラフの質問には答えず、公申は緑茶をすすった。
ミラフは忌々しそうに、すっとぼけた大天使を見た。
「あんたのそういうところが嫌いだ、公申。フィルはニコルの仇だぜ?」
「君のそういうところが心配だ、ミラフ。無駄に情けが深い」
公申の切り返しに、ミラフが凶悪な表情になる。
二木先生がそんな情け深いミラフを優しい目で見ていることに、綾香は気付きつつあった。
「けっ。言ってろ。公申、あんたのことだから、『別世界』とやらの存在、とっくに知ってたんだろ? なんなんだ『別世界』ってのは?」
「もしも宇宙人が襲撃してきたら」
「はぁ?」
「隣国と戦争してる場合ではない」
「なんの話だ?」
「もしも『別世界』が襲撃してきたら、天界は魔界と喧嘩してる場合ではない。協力体制をつくらなければ。無論、人界とも」
「質問の答えになってねぇぞ。よくわからんって、はっきり言えばいいだろうがよ……。まあつまり、地球人にとっての宇宙人的な存在ってことか?」
「鋭意調査中。調査中と言えば、『仙ヶ崎』も、鋭意調査中」
「えっ?」
突然自分に関係する名前を出されて、綾香はたじろいだ。
『仙ヶ崎』。
母方の祖父にあたる人物の名前。
「フィルには異能の魔族に対する興味関心がある。書斎に『仙ヶ崎』の資料がいくつか散見された。天界ではつかんでいなかった情報だ」
「わたしの髪の毛だけじゃなく……?」
「綾香君。覚悟をしなさい」
「覚悟?」
綾香が一体なんの覚悟かと尋ねようとしたとき、紀香が部屋の入り口から顔を出した。
「……睦朗君、母が……話をしたいって。綾香も」




