第八章 ⑨
綾香がミラフに連れられて跳んだ先にあったのは、もうもうと立ち込める砂ぼこりと瓦礫の山だった。
『別世界』の門を塞ぐためにつくられた、重しとしての瓦礫の山は、郷田川高校の屋上より高さがあった。地下の穴深くまで埋めているのだから、結構な量の瓦礫だ。
瓦礫をつくった睦朗は、傷ついた黒い翼を広げたまま、力尽きたように瓦礫の山裾にへたり込んでいた。二木先生が心配そうな顔でつきそっている。
数人の見張りの悪魔を残して、フィルとブエルは瓦礫の山の中腹にいた。彼らにはまだ作業がある様子だ。
「睦朗! 大丈夫!?」
「……大丈……夫なわけ……あるか」
駆け寄る綾香に答える睦朗は、声もかすれて絶え絶えだった。
「疲れてるだけだよね? 死なないよね?」
「今……フィルに攻撃されたら……死ぬ……」
「大丈夫! わたしもいるから」
綾香は睦朗のそばに跪き、彼の手をとった。
綾香の手の温度に、睦朗はぴくりと反応した。動くのもおっくうなのか、力なく綾香の手に自分の手を任せる。綾香より大きく、骨太な手。手だけは、睦朗はもともと大きかったのを思い出す。
「翼の傷、大丈夫?」
「大丈夫じゃない……痛くて閉じるのもしんどい……」
睦朗は大きく息をついて目を閉じた。
顔つきは変わったけれど、色の白さと睫毛の長さはあいかわらずだ。疲れ果てて力の入らない姿は無防備で、大きな魔力を手に入れたといっても、守ってあげなくてはと思ってしまう。
「睦朗、帰ろう。――人界に」
綾香は睦朗に触れる手に力を入れた。
「帰っていいのかな……僕」
「いいに決まってるでしょ!」
「……本当に?」
睦朗は目を見開いた。
覚醒時は真っ赤に染まった瞳が、今は黒く沈んで不安にゆれている。
「本当に!」
睦朗の目を見つめ返し、綾香は力強く言った。
根拠など示さない断言だった。それでも綾香の言葉で安心したように、睦朗は再びまぶたを閉じた。
「うん。…………眠い」
「眠っていいよ。おぶってあげるよ」
「ふざけるな」
「二木先生が」
「……ふざけるな」
「いいから眠りなよ。わたしもいるし、二木先生もいるよ。ミラフもいるし……父さんだって、たぶんそのへんにいるし」
「うん」
「父さんの城に戻れば母さんもいるし、青島君もデズモンドもマジェンタもいるし。新潟には森田さんだっているし」
「うん」
「それから……おばあちゃんもいるし」
「……うん」
睦朗がわずかにまぶたを震わせたので、綾香は彼の顔から目をそらした。
おばあちゃん――睦朗のお母さんは、無事だ。
でも、睦朗のお父さんは――。
目の前の、うず高く積み重なった瓦礫を見上げる。
『門』の上に積まれた瓦礫の蓋は、ダンの墓標だ。
砂ぼこりはおさまってきたようで、墓標のてっぺんまで見渡せる。赤紫の空にそそり立つ、侯爵の野心のなれの果て。
「あ、それからさっき理事長も――。あ、寝たのか」
振り返ったら、睦朗はもう寝息を立てていた。
綾香はそばにいたミラフと二木先生のほうを見た。
「理事長は?」
「公申様なら、あちらに」
二木先生が瓦礫の山を指差す。ついさっきまで誰もいなかった瓦礫のてっぺんに、白い翼を開いた細身の人影があった。中腹あたりにいたフィルとブエルが人影に気づき、ブエルが綾香の知らない言葉でなにか叫んだ。
白い翼の主はふわりと舞い降りるように、瓦礫の上から飛び立った。綺麗な弧を描いてゆうゆうと滑空し、からかうように中腹にいるブエルの髪を羽でかすめると、綾香たちのいる位置よりやや上方に着地した。
「フィル君。見たまえ」
公申は右手に持つガラス瓶を頭上に掲げた。ミラフの羽が入ったガラス瓶だ。
それを見たフィルが銀の翼を広げる。
瞬間移動するかと思ったけれど、フィルは翼を使って空中を飛んだ。公申の近くまで飛んだところで、公申が姿を消した。識印を描いたカードを一枚、その場に残して。
公申は次にフィルがさっきまでいたところに現れ、フィルとブエルがそちらを向くと、またしても姿を消す。
大天使は識印を編んで瞬間移動で跳んでいるが、フィルは翼で飛ぶ。
「――追いつけないんだ。フィルの識力じゃ、公申とおなじスピードで識陣が編めない」
追いかけっこを見ていたミラフが言った。
「理事長のほうが識力が上ってこと?」
「そうだ」
公申は最後に、綾香たちのすぐ近くに現れ出た。
ガラス瓶は右手に掲げられたままだ。
フィルは飛ぶのをやめ、綾香たちからやや距離を置いたところに舞い降りた。距離はあるものの、表情はわかる位置だった。
怒っている――。綾香はそう感じた。
はじめて感じる、フィルの生々しい感情。
「羽根は持ち主に返す」
公申は駄目押しのようにフィルに言うと、ガラス瓶をミラフに押し付けた。
その直後、綾香はフィルの声を聞いた。
絞り出すような、怒りのこもった低い声だった。日本語でも英語でもないから、なんと言ったのかはわからない。
しかし確かに、はじめて聞く会話としてのフィルの言葉だった。
フィルの言葉を受けて、大天使は底意地の悪そうな笑みを浮かべ、人さし指を立てて自分の頭をつんつんと指差した。
あとになってから、綾香はフィルが言った言葉の意味をミラフに尋ねた。
「『どうやって入った?』だとよ。自慢の結界を公申にあっさり破られて、貴重な研究資料まで奪われて、怒り心頭ってかんじだったぜ。公申のやつ、わざと力を見せつけてフィルを挑発しやがった。自分のほうが頭がいいんだぜってな」




