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第八章 ⑧

 舞踏場を模した大広間は、壁の一面が鏡張りだ。

 睦朗がしんみりしていたのは、彼が自分の姿を鏡で確認するまでの、ほんの束の間だった。

「あれ……? えっ? ええっ!?」

 皆に背を向けていた睦朗があわてた声をあげ、鏡を見たり自分の手を見たり、自分の顔を触ったりしはじめた。

「なんだこれ? 誰だこれ? えっ、僕? ええっ!?」

「今ごろ気付いたのか、フィルの弟。いいからもう作業に移ろう」

 どうでもいいようにブエルが言った。気が急くのか、若干不機嫌そうだ。

「声……声まで違う!」

「変声期というものがあるだろう。人型には」

「変声期? なんで突然! それに、身長……」

 睦朗が鏡に映る綾香を見つけ、鏡の中で一瞬目が合う。睦朗はすぐに綾香本体のほうを向いた。

 綾香にとってはいつも見下ろす位置だった睦朗の顔が、おなじくらいの高さにあった。

「身長……」

 睦朗は言葉を継げないくらい、動揺しているらしかった。綾香の顔を見たままポカンとしている。

 綾香だってなにを言ったらいいかわからない。いつだったか、ミラフが睦朗は異形化するかもしれないと言っていたのを思い出したが、これは「異形化」なんだろうか。異形化というより「急成長」に思える。単に年相応になったというか。

「か、かっこいいよ」

 事実そうなので、綾香は言った。

 そうしたら、睦朗が傍から見てもはっきりわかるくらいみるみる紅潮してしまい、一瞬まずいことを言ったかと思ったくらいだ。

「作業だ」

 ブエルが業を煮やしたように口を挟む。

 綾香がフィルのほうを見ると、フィルは場の空気になどまるで頓着せず、吹き抜けの薄暗い空間を見つめて考え込んでいた。まるで賢者のような風貌だと綾香は思った。

 しかしその手には、血がついた剣が握られている。彼の父親の血だ。

 綾香は無意識に、フィルが触れた唇を手の甲でぬぐった。


 ドォン、ドォンという大音量が、赤紫の空に鳴り響く。

 続いて、ガラガラと城が崩れる音も。

 鳥型の雑魔が音に驚き、森からバサバサ羽音を立てて飛び立ってゆく。赤ノ倉本家へ行ったとき、倉で殺したカラス型の雑魔と同種だろうか。

「わたしがはじめて殺した雑魔も、あれだっけ」

「そうだな」

 綾香とミラフは、グラシャラボラスの城が立つ崖の対岸にいた。靄の立ち込める谷を隔てて、巨城が崩れゆくさまがよく見える。

 グラシャラボラスの城は、見えない鉄球が何度も当たったかのように外壁をめり込ませ、衝撃に持ち堪えられなくなった部分から次々と崩れていく。

 この破壊活動をやっているのが睦朗だとは、綾香には信じられない気持ちだった。

 赤目の能力が他者の能力を奪うことというのは納得できたものの、こうして崩れゆく城を目の前にすると、こんな巨大なものを破壊する力を個人で宿すなど、ありえないという思いのほうが大きい。

 二木先生は悪魔たちから睦朗を守るため、睦朗についていっている。ブエルは二木先生の同行をあっさりと許した。ダンを殺し、生き残った悪魔たちの長となったフィルだったが、睦朗を傘下に加えて群れを強くしたいという心積もりはなさそうだった。

「フィルは門を塞ぎたかっただけなの……?」

「さあな」

 足を投げ出して座った姿勢で、ミラフは肩をすくめて見せた。

 綾香は体育座りだ。

「『別世界』の門を塞ぎたかったから、睦朗の力を覚醒させようとしたの? 邪魔になるダンの力を奪うために」

「フィルに訊いてみろよ。どうせなんもしゃべんねえけど。あいつがまともに話すの、聞いたことあるか?」

「ない。いつもなに考えてんだろ……」

 綾香は我が身を守るように、自分の両肩を抱いた。

 ダンは死んだけれど、フィルがいる以上、赤ノ倉の女である母と自分に平穏は訪れないと思った。フィルは、その気になったら、きっとなんでもする。

 睦朗の羽が飛び散る天蓋ベッド。両肩を抑えつけられたときのフィルの冷たい目を思い出し、綾香は再びぞっとした。

「――済まなかったな。危ない目に合わせて」

 城のほうへ顔を向けたまま、ミラフは言った。

「えっ?」

「安易におまえから離れたせいで、おまえが――」

「父さんに加勢するためでしょ? あの場合は仕方ないと思う。二木先生だって青島くんだっていたんだし」

「いや。昔、紀香を守ってたときも思ったけどよ……。私もまだまだだな」

「ミラフ……」

「もっと強くなりてぇ」

 ぽつりと言うミラフの横顔を綾香はまじまじと見つめてしまった。

 最も天使らしい天使。霊々天。

(ううん。そんなんじゃない。ミラフは――)

 母・紀香の友達。

 そして――。

「ねえ、ミラフ」

「なんだよ?」

「わたしとミラフって、友達?」

 綾香の質問に、ミラフはやっとこちらを向いた。

「まあ、そんなとこだ。友達だ」

 そっけなく言い放って、ミラフはまた城のほうを向いた。しかし思い出したようにもう一度、綾香を見た。

「……今度はセーラー服、着なくて済むな」

「へっ? なんのこと?」

「郷田川高校は私服OKじゃねぇか。公申がどこまで考えてるかわかんねぇけどよ、『別世界』だかなんだかでっかい案件が関わってきた以上、今さら逃がしてくれるとは思えねえ。入学させられるかもしんねーな、郷田川高校に」

「えっ、えっ、えっ? まさか、ミラフが同級生になるの!?」

 ミラフが口にした思いがけない予測に、綾香はがはっとミラフに詰め寄った。

 なんだろう……わくわくした。

 ミラフが同じ高校に入るかもしれないなんて!

 ミラフは苦虫を噛み潰した表情をしているけど、実はそれほど嫌がっていないという確信みたいなものが、綾香にはあった。

「ねえねえねえねえ、その場合、男子生徒なのそれとも女子なの?」

「決まったわけじゃねえぞ!」

「決定している。六月に留学生が来ることになっているので」

 突然、背後からこの場にいなかった人物の声がした。

 声のほうを見て、綾香はひゃっとすくみあがった。

 突然現れるのはバカ父だけにしてほしい!

「その留学生って私か? 公申」

 ミラフはたいして驚いていない。慣れた様子だ。

「男子生徒の予定だが。女子が良かった?」

 ディオール・オムのスーツを着込んだ天徳公申貴天こと郷田川理事長は、右手にガラス瓶を持っていた。

 光り輝く純白の羽根が入ったガラス瓶を。

「あ、それって、フィルの部屋にあった……」

 ミラフの羽根だ。

「フィルがしゃべるところ、見たい?」

「は?」

「見たい?」

「え、はあ、まあ……」

 マンションに来たとき同様、理事長の話は唐突すぎて、綾香にはついていけない。

「ミラフと一緒について来なさい」

 そう言い残し、理事長はふいっと姿を消した。さっきまでいた空間に、ひらりと一枚のカードが落ちる。地面に落ちたそのカードには、万華鏡の図像のようなものが描かれていた。綾香が拾い上げようとすると、灰のように崩れて消えた。

「そのカードは公申が跳ぶために編んだ識印さ。フィルのところに跳んだな。……やれやれ、行くか」

 ミラフは大義そうに立ち上がった。

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