第八章 ⑥
綾香が跳んだ場所は、元いた広間だった。
戦闘状態で騒然としていたはずなのに、今はいやに静かだ。
それもそのはず。広間の天井近くに跳んだ綾香の眼下に見えるのは、床一面を覆う黒い羽と白い羽だった。積み重なって倒れた、悪魔たち、天使たちの死骸。
「戦いとは無残なものだ」
綾香を持ちあげて飛ぶ腕の持ち主が、声を発した。見上げるまでもなく、父エドワード・ヴァラックスだ。
「あれは……睦朗!?」
眼下に羽根の乱れた黒い翼があった。翼からは点々と血が滴っている。顔は見えないが、睦朗だ。
綾香は真上から睦朗の姿を見る形になっていた。
睦朗の眼前にはダン・グラシャラボラスがいた。ダンと睦朗は正面から向き合い、顔がくっつきそうな至近距離で睨み合っている。
「クソ侯爵の重力攻撃がこない。息子と見つめ合ってなにを固まっているのだ、あの野郎は」
ヴァラックスがぼそりと言う。
「重力攻撃って! 睦朗あぶない!」
「こら暴れるな、綾香。重い」
「睦朗が!」
「……ふーむ。睦朗君は攻撃中のようだぞ。破力や霊力が激しく動いている」
「攻撃中?」
綾香の目には、睦朗と侯爵が立ちすくんで睨み合っているだけに見える。
「トドメを刺す手間が省けたようだ。ここの連中だけなら五分で片付いただろーに、わらわらわらわら白いのが湧いて」
あらためて、綾香は広間を見回し、顔をしかめた。
死屍累々。
その多くは人型をしている。苦悶の表情のまま事切れている死骸を正視できず、綾香は目を閉じた。
これが、魔界。
自分が生きるはずだった世界。
睦朗が、これから生きる世界――。
綾香は目を開いた。
睦朗は、将来ここで暮らすかもしれないのだ。自分は睦朗の相棒なのだ。この無残な光景から目をそらしてはいけないと思った。
「うむ。お家騒動は終焉のようだぞ」
言われて綾香は、父の視線を追った。
じっとして動かないダンの背後に、長剣を手にしたフィルがいた。
「……!」
綾香は息をのんだ。
フィルは、彫刻のように微動だにせず睦朗の目を見ていたダン・グラシャラボラスの背に、ためらいもせず深々と剣を突き立てた。
ずぶりと肉を突き刺す音が、天井まで聞こえた気がした。
ダンは一瞬目を見開き、なにが起こったのか理解していない表情のまま、睦朗の眼前で膝を折り、床に崩折れた。
大柄な侯爵が倒れる音が、広間に響く。
この巨城を治める悪魔にしては、あまりにもあっけない最期だった。
周囲を見回すと、倒れていない悪魔がほんの数人残っている。
綾香は身構えたが、彼らは事のなりゆきを遠巻きに見つめるだけで、攻撃を繰り出してはこなかった。
彼らはうつむく睦朗を見ていた。
生き残り悪魔のひとり、ピンストライプ柄のスーツをまとった若い細身の悪魔が、睦朗に向かって発音のあやしげな日本語で言った。
「フィルの弟。顔をあげろ」
無言で侯爵の屍を見ていた睦朗が、言われてのろのろと顔をあげる。
「えっ……!?」
「おやっ?」
綾香とヴァラックスは、同時に驚きの声をあげた。
睦朗ではなく別人のように見えたからだ。睦朗より年上の少年に見える。
「えっ? えっ? 睦朗じゃないの?」
上からの角度で見ているのがもどかしい。
「父さん、降りよう」
「うむ」
綾香とヴァラックスは、睦朗の顔がよく見える位置に着地した。
ふたりの気配に、ぼろぼろの黒い羽を背負った睦朗が、疲れきった顔を向ける。
そして綾香の無事な姿を認めると、ほっとしたように目を細めた。
別人……では、なかった。
たしかに睦朗だった。
こんな魔性の美貌、睦朗のほかにいないと綾香は確信した。
ただし、その美貌と体つきは、三年分ほど成長した姿だったのだけれど……。
「えっ!? うそ!? 睦朗どうしちゃったの!? 男子高校生に見える!」
「彼はもともと男子高校生じゃなかったかね?」
「そうだけど! でも見た目は女子中学生ってかんじだったでしょ!?」
「思春期は成長がはやいと言うがなぁ」
「はやすぎでしょ! ていうか、やだうそ睦朗、かっこいい! えー!?」
「綾香の好みなのかね?」
ごちゃごちゃうるさい父と娘を無視して、ピンストライプスーツの悪魔が睦朗に語りかける。
「――フィルの弟。まだ終了していない。吸収した力を貸せ」
「……吸収した力?」
睦朗がだるそうに、ピンストライプのほうを向く。
声まで低く変わっているが、睦朗本人は疲れ果てているためか、意識していないようだった。
「君は今、赤目の能力を発揮し、侯爵の力を我が物にした」
「赤目の能力って……?」
「敵の力を奪い取る能力だ。侯爵の得意とした重力を操作する破力が、大至急必要だ。取り急ぎ協力を要請する。『門』のあちらから敵の援軍が来る前に」
「『門』……?」
「天界でもなく人界でもないおぞましき『別世界』へと通じ、魔界の均衡を崩す悪しき扉だ。来い」
睦朗にそう言うと、ピンストライプスーツはヴァラックスのほうへ向き直った。
「……ヴァラックス伯爵、ここから先は貴方の関与する事柄ではない。邪魔立ては容赦しない」
「見てるだけならいいかね?」
ピンストライプはその場に佇むフィルに、指示を仰ぐように視線を向けた。フィルがかすかにうなずく。
「許可する」
急げと言うように、フィルが無言で剣の切っ先を睦朗に向けた。睦朗が怒りの再燃した反抗的な顔を兄に向けると、ピンストライプスーツが言った。
「我々が聞いたところでは、フィルの弟、おまえはフィルの手先になると言った」
「そんなこと言うか!」
「確かに言った。伯爵の娘を殺さないなら手先にでもなんでもなると」
「……っ! それは……」
「言ったはずだ」
ピンストライプはスーツの内ポケットから、薄い板状のものを取り出した。なんだろうと綾香は目を凝らす。
……どう見ても、スマホに見える。リンゴ印の。
ピンストライプが片手で器用に操作すると、〈お願いだ! おまえの手先でもなんでもなるから! 頼むからやめてくれ! 綾香を殺すのだけはやめろ! やめてくれ!〉と叫ぶ睦朗の声が広間に響いた。
悪魔の駄目押しに、睦朗は「貴様……」と呻いて押し黙った。
「ああああんにゃろ……」
綾香だって怒りで震えるしかない。
「録音するなんて……! ぐぐぐ」
「ほー。あの若いの、魔界であれを扱うとはなかなか」
ヴァラックスが感心したように言うのをきいて、綾香は魔界で人界の機械類を作動させるのは生半可な力ではできないことを思い出した。
生き残りのほかの悪魔も、みなフィルの次にピンストライプスーツを立てているように見える。
フィルを先頭に、睦朗とピンストライプがバルコニーに出る。伯爵と綾香もその後に続いた。まぶしいほどに明るかった吹き抜けは、カーテンを引いたように薄暗くなっていて、気味の悪い天使たちはひとりもいなくなっていた。
(みんな殺されたの……? まさか)
まさか、二木先生と青島君も?
綾香の顔から血の気が引いた。ミラフの姿も広間になかった。
「父さん……ミラフは?」
「下の扉を閉めに行ったぞ。男前と新米も一緒に行った」
「扉を閉めに? 『門』を……?」
「おや、戻ってきたようだ」
ヴァラックスが手摺から吹き抜けを見下ろすと、翼を広げた二木先生が、右肩にひとり、左肩にひとり、天使を担いで上がってくるところだった。
「二木先せ……」
呼びかけようとして、綾香は言葉を失った。
二木先生の白いはずのワイシャツが、鮮血で赤く染まっていたから。
そしていつも穏やかで美しい先生の顔が、悲しみか後悔か、なにか大きなマイナスの感情に覆われて、泣きだしそうに歪んでいたから。
(先生……戦ったの?)
力々天はバルコニーに降り立った。肩の上のふたりをそっと下ろし、床に横たえる。
青島君とミラフ。青島君は気を失っていた。
ミラフのほうは、薄く目を開けていた。綾香が近寄ってしゃがみ込むと、意志の強いすみれ色の瞳をはっきりと見せてくれたが、表情全体に激しい疲労の色が見てとれた。
「ミラフ……」
「また情けねぇとこ見られた」
「ちょうどいい。霊々天。君にも協力を要請する」
ピンストライプがさらっと言う。
「綾香、このオニは誰だ? クソ悪魔、こっちの状態見ろよ。霊力は全部出し尽くした!」
「魂玉」
ピンストライプスーツの悪魔は内ポケットから宝石のようなものを取り出し、横たわるミラフの口に押し込んだ。
ミラフは激しくむせかえった。
二木先生が、いきなりピンストライプの胸倉をつかみ上げる。無抵抗の相手に二木先生が乱暴な動作をするのをはじめて見たので、綾香はおどろいて口をあんぐり開けてしまった。
「ミラフに何をさせるつもりです……!」
「フィルに協力し、赤目とともに『門』を閉じる作業に従事することを要求する」
「下の変な扉なら、全力使い果たして閉じてきたぜ!」
「ひとりで?」
「ひとりでだ! ちっくしょー。疲労度限界だ」
「さすがだ。霊々天の迅速な対応に感謝する。『別世界』の援軍を気にせず余裕を持って作業が可能な上に、二重の予定だった封鎖を三重にすることが出来る。魔界の均衡を保つために、二度と『門』を開放してはならない」
ピンストライプスーツの細身の悪魔は、力々天に胸倉を締め上げられ半分床から浮きながらも、淡々と言った。




