第八章 ⑤
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睦朗は全身が心臓になったようだった。
すべての血が逆流するようだった。
叫ぶことも忘れていた。
剣の刺さった翼の痛みなど完全にどこかへ消えた。
目の前で行われていることに、この光景に、細胞のひとつひとつが揺さぶりをかけられた。細胞全てに激情が行き渡った。細胞全てが怒りに震えた。
――睦朗は怒りに呑み込まれた。
綾香が、フィルに、穢される。
そんなこと、あっていいはずがない。
絶対に。
綾香が泣いている。フィルの行為に傷つき、いく筋も涙を流して泣いている。
自分を守ってくれようとした綾香を守らなければ。いつも自然体で隣を歩いてくれる綾香を守らなければ。
――いや、そんなことは建前かもしれない。
(ああ、そうさ。綾香に口づけるのは僕でありたかった……)
綾香が、好きだから。
たぶん、この気持ちは恋だから。
はじめての恋だから……。
(綾香――――)
睦朗は前に一歩踏み出した。
翼がメキッと嫌な音を立てる。
もう一歩踏み出す。
ぶつりぶつりと羽根が何本も抜ける。
次の三歩は一息だった。フィルの手が綾香のベルトに掛かったとき、睦朗はフィルに手が届く距離にいた。
フィルの手が綾香の上着をめくりあげるのを見て、激情がさらに暴走する。
やめろ。
綾香に触れていいのは僕だ。
その場所にいるはずなのは僕だ。
おまえじゃない。
おまえじゃない。
その場所をどけ。
どく気がないなら、おまえは、僕になれ。
おまえは僕になれ。
瞳の奥が、ちりちりと痛んだ。
視界が赤い。
――――レッドアウト。
そして無表情だったフィルが、濡れた唇を綾香から離し、はじめて薄く微笑んだ。
(なに笑ってる。おまえは僕だ)
瞳の奥が痛い。瞳の奥が熱い。瞳に直結した頭の芯が沸騰している。
おまえは僕だ。
フィルの顔を間近で見据え、その瞳に照準を定めた。アイスブルーのはずのフィルの瞳は、赤い視界に染められ赤く見えた。
だから。
はじけた力で捕えたと思ったフィルの瞳が、いつのまにか父の灰色の双眸にすり替わっていたことに、力を発現し終えるそのときまで、睦朗は気付くことができなかった。
***
(赤……!)
綾香は吸いこまれるように睦朗の双眸を見つめていた。不穏な気配を感じてきつく閉じていたまぶたを開いたとき、目に飛び込んできた睦朗の瞳。
真っ赤に染まった睦朗の瞳。
(こわい)
綾香の身体に震えが走った。フィルの行為とはまったく別の恐怖感が、背筋を這い上って来た。
自分の上にいるフィルが、緊張で身体をこわばらせたのがわかった。
恐ろしいなにかが起こる。
きっと恐ろしいなにかが――。
綾香が恐怖でまた目を閉じそうになったとき、重なりあった自分たちと睦朗との間に赤い光の輪が出現し、ふっと睦朗が消えた。
固くこわばっていたフィルの体が、綾香の上でほんの少しだけ弛緩する。
そんな変化を肌で感じるほどフィルと密着していたのだということを、綾香はそのときはじめて意識した。
「どけ、この色魔! あ……っ!」
綾香の繰り出す平手がむなしく宙をさまよう。
睦朗に続いてフィルまで一瞬で消えた。
ベッドに身を起こして呆然としていると、誰かの手が両脇に差し込まれ、綾香の体はすっと上に引き上げられた。




