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第八章 ④

 明るい銀髪、大きな銀翼、黒のロングコート。彼は場を圧する存在感を放っていた。

 フィルは唇を動かしてなにかつぶやいている。会話を目的とする発声ではない。経文のように途切れのない、低い低いつぶやきだった。

(呪文……?)

 驕慢な敵天使たちが、フィルを自分たちの味方と思っていないのは、彼らに走った緊張から見てとれた。

 青い瞳の少年天使が動いた。フィルに対する明確な殺意を持って、一撃が空を掃く。剣戟をかわしたフィルは、跳んでいた。

 睦朗の目の前に。

「睦朗! 危ない!」

 睦朗をかばうようにすがりついた綾香は、睦朗ごとフィルの翼に包み込まれた。

 フィルの翼越しに見る白い光の中に、かっちりと人工的な輪郭を持つ赤い光の輪が、スクリーンに投影したように鮮やかに浮き上がる。

 フィルが作る空間移動の扉だ。

 抗う隙はなかった。

 綾香は睦朗とともに、フィルによって光の輪の中に引き込まれた。

 赤い輪をくぐった途端、周囲の風景が変わる。跳んだのだ。

 小さな明るい部屋。光源は隣室の大窓だった。吹き抜けを照らすのと同じ白い光が、続き部屋から煌々と入ってくる。

 さっきまでいた場所から、おそらくそう離れてはいない。吹き抜けを囲むたくさんの部屋のひとつだろう。

 この部屋にも、天蓋のついたベッドがあった。ただの古風な西洋寝室だが、異彩を放つものがある。

 絨毯はなく、床一面を図形と組み合わせた異様な文字列が覆っている。ガラス瓶の部屋の床にあったものと同じような魔方陣だと気付いたが、綾香はじっくり観察する暇を与えられなかった。

 フィルにベッドへ放り投げられたからだ。

 物のような扱いに腹が立って文句を言いかけたら、フィルが片手で睦朗の喉元をつかんで、ベッドの対角の壁に押し付けた。喉を圧迫された睦朗が、激しく咳込む。

「やめて! 睦朗に乱暴しないで!」

 綾香は叫んだ。

 しかし、フィルは綾香の願いとは真逆のことをした。

 身体をくの字に折って苦しんでいる睦朗の右の翼に、深々と長剣を突き立てたのだ。

「うあああああああ!」

 睦朗が激痛に耐えかね絶叫を吐き出す。

「睦朗――――! いや――――っ!」

 フィルはさらに左の翼にも長剣を突き立て、睦朗の両の翼を壁に縫い止めた。

 綾香は睦朗を救おうとベッドから転がり出た。フィルが綾香の髪を引っつかみ、乱暴にベッドへ押し戻す。睦朗が縫いつけられた壁までほんの数歩なのに、綾香はフィルの怪力でベッドにうつぶせに押し付けられ、身動きがとれない。

「貴様ああああ! やめろおおおお! 綾香を放せえええ!」

 睦朗の叫びが悲痛さを増した。必死の表情でこちらを見ながら、刺さった剣を抜こうと足掻いていた。睦朗の黒い羽根が何枚も飛び散り、綾香の頬をかすめて落ちた。

「綾香に手を出すな! ニコルみたいに……ああっ」

 ――ニコルみたいに。

 その言葉で、綾香は自分が置かれた状況を理解した。

 フィルがしようとしていること……。睦朗に翼を出させたときのように、睦朗に赤目の力を目覚めさせようとしている……?

 睦朗の目の前で、自分を傷つけて見せることで。

「……! 冗談じゃないよ! 放せこのおおおお!」

 暴れても、押さえつける手はびくともしなかった。

 フィルは片手で綾香をベッドに押しつけながら、学者のように冷静に、睦朗の涙でうるんだ黒い瞳を見つめていた。

「お願いだ! おまえの手先でもなんでもなるから! 頼むからやめてくれ! 綾香を殺すのだけはやめろ! やめてくれ!」

 睦朗の叫び声はもう、かすれた涙声だった。

 綾香は歯の根が鳴りそうになるのをこらえ、必死で考えようとした。

 逃げなくては。

 なんとかして逃げなくては。

 睦朗のためにも。

(どうしてこんなときにレッドアウトしないの! 役立たず! わたしの役立たず!)

「やめろよ……。こんなのじゃ、僕はどうにもならない……」

 睦朗の声に絶望の色が混じる。

 その声を聞き、フィルは綾香を抑える力を緩めたようだった。フィルはまた物を扱うように、うつぶせの綾香を乱暴に仰向けに返した。

 フィルの両手が、綾香の肩を押さえつける。

 フィルの冷たいほどに整った顔が、綾香の目の前にある。

 そして次にフィルがしたことに、綾香の心臓が大きく跳ねた。

 予想もしなかったフィルの行動。

(な…………)

 フィルの唇が、綾香の唇を塞いでいた。

 綾香は眉間にきつくしわを寄せ、逃れようと身をよじったが、フィルは自分の唇から綾香の唇を逃がそうとはしなかった。

 執拗に続けられる、えぐるような深い口づけ。

 生温かいフィルの唇と舌の感触が、綾香の正気を麻痺させる。

 なにが起こっているのか実感できず、こんなのは嫌だ、こんなのは駄目だという思いだけが、胸の内をはげしく駆け巡る。

 けれど綾香のきつく閉じた目から涙がいくつこぼれ落ちても、フィルの口づけは終わらなかった。


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