第八章 ③
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(穴の下の巨大結界が解けた!)
ミラフが吹き抜けの底に意識を向けると、きつく結ばれた結界の気配はなくなっていた。
代わりに立ち上がってくる、空間の広がり。明るい光。
(扉が開いた。なんだこの光。天界みてぇな……)
「この小細工がなんだと言うのかね」
ヴァラックスはたじろぐことなく、言葉と一緒に正確な剣先を突き出した。かろうじて避けた侯爵の軍服の袖が、大きく裂ける。
「小細工だと思っていればいい。狭い世界しか知らぬ愚か者め」
光が増す。
突如として広間に現れた、白い翼の群れが放つ光。
「なんだこいつら! 下の扉から湧いて――?」
同族の出現に、ミラフの拳銃を構える手が一瞬ゆるむ。
瞬間移動で広間に跳んできた十数人の白い翼の者たちは、一斉にミラフを見て、なにか言った。
ミラフが聞いたことのない言葉だった。
天界言語でも、魔界言語でもない……。
「おまえらなんなんだよ……」
忌々しかった霊々天がうろたえる声を聞き、侯爵が薄く嗤った。
***
大勢の天使たちが、まばゆい光をまとって穴の底から舞い上がる。ドレープの寄った古代衣裳のような白い装束。首や腕を飾る、金色の装飾品。
白と金の一群。美しい種族。
「……どこの所属の方ですか?」
ニケが天界言語で、先頭の青い瞳の少年天使に尋ねた。
戸惑う力々天の問いに答えを返すことはせず、少年天使は後ろに控える青年天使と、嘲るように嗤い合った。彼らは他の天使も巻き込んで、さらに大きく嗤った。
石の城塞に、天使たちの不吉な嘲笑が反響する。
「なんかこいつらムカつくんすけど!」
こめかみを引きつらせて、新米天使はニケに訴えた。
青島君が失礼な天使の群れに背を向けたそのとき、綾香は反射的に飛び出し、彼を背にかばった。
天使たちから、明確な殺意を感じたからだ。
天使なのに、おなじ天使の青島君になぜ……?
気味の悪い天使たちは、なおも嗤い続ける。虫けらに向けるような蔑みと殺意をにじませながら。
「……頭は、どれ?」
綾香は睦朗に訊いた。
戦うつもりだった。
殺意を向けてくるならば、相手は敵だ。
「駄目だ、綾香」
「わからない?」
「わかる。青い目の若いやつ。――でも勝てない! 逃げろ綾香!」
構えを固めた少年天使が、綾香に向かってきた。綾香は見事な反射神経で、勢いを持って振り払われる剣を黒いナイフで受け止めた。
「ああああああっ!」
キン!と大きく響く、澄んだ音。一瞬、綾香は衝撃で腕がちぎれとんだかと思った。
重い一撃を受け止めきれず、指の先から肩まで、しびれるような痛みが走る。黒いナイフが手から離れる感覚すら、衝撃に持っていかれて知覚できなかった。
それでも防ぐことができたのは、二木先生が少年天使の腕を掴んでいたからだろう。少年天使は、力々天に与えられる苦痛に顔を歪めていた。
「力天です! まともに太刀を受けてはいけません!」
「先生、こいつらなんなの!?」
「わかりません……」
青い瞳の少年天使から手を放し、二木先生が生徒たちを守るように前へ出て構えをとった。
綾香は睦朗と視線を見合わせた。
二木先生と青島君は、きっと同胞を殺せない。
それより、この天使たちは彼らの同胞なのだろうか? 彼らに向けられたこの殺意、敵でなかったらなんなのだろう。
どうする。
どうしたらいい?
「わたし、勝てないの……?」
「僕の力……赤目の力……どうやったら出る? なにが出る? 翼しか出ないなんて!」
あせりをにじませ、睦朗がつぶやいた。
「翼を無理矢理発現させられたときは、あいつが……。フィルが」
「フィル……」
綾香がフィルの冷たい青い瞳を思い浮かべたそのとき、にわかに場に緊張が走った。
「あっ!? えっ!? フィル!?」
綾香は驚きの声を上げた。
邪悪な天使たちの群れの向こうに、大きな銀の翼が羽ばたいたからだ。
はじめて見るフィルの翼は、黒くなかった。
それは鈍い光沢を放つ、水銀のような銀色だった。




