第八章 ②
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ミラフは悪魔たちの間を泳ぐようにすいすいと羽ばたいた。防御結界に包まれた天使に届く攻撃はない。そして伯爵のもとへたどり着こうという直前、侯爵を見てミラフが叫んだ。
「ヴァラックス! くるぞ!」
ズシンと、巨人の足音のような音が響いた。
さっきまで伯爵がいた場所周辺の悪魔は、全員、血糊をまとった肉塊と化していた。
大理石の床が、大きく丸く陥没している。
直径十メートルの鉄球が激突した後のような光景だった。
瞬時に飛び退って重力魔法を避けたヴァラックスは、眉をしかめてその惨状を眺めていた。
「……かつて私の育ての親だった工房の頭領は、職人たちをそれはそれは大事にしていたぞ」
悪魔たちの死を悼むように、ぽつりとヴァラックスは言った。
重力を放ったと思われる侯爵は、伯爵の言葉を鼻先で嗤った。
「なんの寝言だ。おまえもたった今、散々殺しただろう」
「私は敵だからいいのだ。でもおまえは、死んだこの者どもの頭領だ。身内だ。身内を殺すとは、なんと痛ましいことだ。――ミラフ、拡大」
「五分だ」
「三分でいいぞ」
伯爵の半径三メートルのところに渦巻いていた凶器化した風は、辺りに転がる無残な圧死体をさらに無残に切り刻みながら、その範囲を大きく広げ、侯爵を飲み込んだ。
防御結界を張ることのできる侯爵は、切り刻まれはしない。霊天が補助してふくらませた凶暴な空気の檻。その内部に、侯爵は伯爵とともに閉じ込められる形になった。
ヴァラックスは、侯爵とサシで勝負するために、意図してこの状態にしたのだ。
彼はグラシャラボラスに剣の切っ先を向けた。
「言い残すことはないか」
「おまえの命はあと数分だ、ヴァラックス」
「それはこっちのセリフだと思うがな」
「下の結界が解かれた。『門』が開く」
「『門』?」
「――――さらばだ、愚か者」
侯爵の顔に、勝ち誇るような嘲笑が浮かんだ。
***
「ぐわ! 重! ごめん赤ノ倉さん、ホントもうだめ!」
「こっちは破力まで避けきれないよ! 結界ふんばってよ青島君!」
綾香は悪魔の爪や剣などの物理攻撃を避けるので精いっぱいだった。傷つけられて血を流すのは、極力避けたかった。レッドアウトの状態になったら……敵を傷つける罪悪感など、跡形もなく消え去ってしまう。
こわい。
そんな自分が、まだこわい。
「だってもう霊力が重すぎて……あ、あれ?」
「なに! 防御結界解いちゃったの!?」
「軽くなった! もうちょっといける!」
ふいに光が射して、青島君の顔が明るくなった。
真っ暗闇だった吹き抜けの大穴に、下からまばゆい光が射していた。
魔界らしからぬ白い自然光が、吹き抜けの下部から城全体を明るく包み込む。穴を囲んでいたバルコニーの手摺が、石壁に長い影を映す。
「なにこの光……?」
射すはずのないまばゆい光は、どこか不吉なにおいがする。
睦朗が手摺から下を見た。
「……天使だ」
(天使?)
謎めく光におびえたのか、悪魔たちがバルコニーから広間の中へ逃げる。
戦闘から解放された綾香は、睦朗のとなりに駆け寄った。
穴の底は、先ほどまでとは逆に、あまりにもまぶしくてよく見えない。
けれど目を細めて様子を探ると、翼のある者たちの一群が、上に向かって飛んでくるのが見えた。羽ばたいているのは――――白い翼。
天使。
大勢の天使。
「ひゃっほう! 味方だ!」
青島君が小躍りするのを、青い顔の睦朗が腕をつかみ、止めた。
「味方じゃない……! あれは……」
睦朗は険しい顔をして、もう一度下を見た。
「あれはきっと……『別世界』の……」




