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第七章 ⑥

 二木先生がドアノブに手をかけ、「堅牢ですね」と言った。言った直後に二の腕がちょっと盛り上がったと思ったら、メキッと音がして、ドアノブの周囲と極太の閂が差しこまれていた壁の一部が、本体からもぎとられた。

 薔薇柄のクロスが壁を覆い、毛足の長い絨毯が敷かれた、クラシカルな内装の部屋だった。木製チェストや小机が壁際に置かれ、銀の燭台に蝋燭が燃えている。蝋燭のささやかな明かりで見渡せるほどの、窓のない小さな部屋。

(おばあちゃん、いない)

 祖母の姿が見えない代わりに、部屋の突き当たりにドアがある。

 二木先生がそのドアに歩み寄ろうとすると、ミラフが言った。

「美千代に会ってどうするんだよ」

「睦朗君と共に、人界へ連れ帰ります」

「あの女がここにいることを望んだら? 美千代は、ダンと一緒に魔界に来ることを選んだのかもしんねぇぜ?」

「……そうかもしれませんが、話をしてみないことには」

 綾香は霊々天と力々天の顔を交互に見ていた。

(おばあちゃんは、どういうつもりなんだろう)

 新潟の、あの古い広い家で。彼女は何を思い、何を感じ、日々を重ねてきたのだろう?

(ぜんぜんわからない。一番わからない。おばあちゃんが一番、わからない)

 二木先生が、奥のドアに手をかけた。

 ドアはあっさりと開き、また似たような小部屋が現れた。小部屋の奥の壁には、またドア。けれどそのドアは開け放たれていて、さらにその奥の部屋が見えた。

 中心部に向かって、長く連なる暗い小部屋。

 なんだかおかしな夢を見ているようだと綾香は思った。

 最奥の部屋には明かりがないようで、小部屋の連なりは暗闇に飲み込まれている。光が要ると判断したのか、ミラフが発光する白い翼を出現させた。

 力々天と識霊天も、霊々天に続いて薄暗がりに翼を開く。翼が放つ光は、やはり霊々天が抜きん出て明るい。青島君がまぶしそうな顔をして、ミラフの翼に見惚れていた。

 いくつ小部屋を抜けただろう。

 先頭をゆく二木先生が足を止めた。

 その部屋の突き当たりには、ドアの代わりに暗闇に向いたバルコニーがあった。赤紫の薄闇ではない。バルコニーの先は、黒々とした真っ暗闇だった。

 バルコニーの部屋には、天蓋つきのベッドがあった。

 ベッドには和服姿の婦人が、身じろぎもせずに腰かけていた。



「……ひさしぶりだな。おばさん」

「ミラフちゃん」

 綾香には、美千代がほほえんだように見えた。ミラフは紀香と同じ高校の友人だったのだ。祖母のほほえみは、娘の友人に向けられたごく普通のほほえみに思える。

 でも、ここは魔界で、娘の友人は真っ白い天使の羽を広げている。

 美千代の笑顔は不自然だった。

「積もる話は置いとく。――睦朗はどこだ?」

 美千代はバルコニーを指差した。バルコニーの向こうの、ねっとりとした暗闇を。

「あの暗闇はなんだ? 外じゃねぇはずだぞ。あそこは、城の中心部だろう? 上から下まで空洞が貫いてんのか?」

「どうかしら。私にはなにもわからないのよ。ごめんなさいね」

「あんたはなんで魔界に来たんだ」

「……居場所がなくて。役目が、終わったから」

 なんの光も宿さない瞳をして、美千代は答え、まぶたを伏せた。

 なにもかもあきらめたような顔。すべてが終わったような顔。

 美千代のおだやかな表情を見て、綾香は猛然と怒りを感じた。

 二木先生がなにか言いかけるのを遮って、綾香は前へ歩み出て、祖母と向き合った。役目が終わっただなんて言わせない。決してなにも、終わっちゃいない。

「終わってないでしょ、おばあちゃん! 睦朗、まだ大人になってないもの。まだまだおばあちゃんが……お母さんが必要でしょう? 森田さんだってそう言って……」

「終わったの。四百五十年の、赤ノ倉家の歴史が」

「赤ノ倉家の歴史なんかじゃなくて……」

「歴史なんか? 歴史なんかですって!? 家を出た娘の子供が、なにを言うの!」

 突然の祖母の大声に、綾香は思わず言葉を失った。

 さっきまでのおだやかな諦念の表情をどこへやってしまったのか、綾香を見据える祖母の瞳は興奮でギラギラと光り、唇は小刻みに震えていた。

「先祖代々守ってきたものをなにも受け継がなかった子が、今さらしゃしゃり出てきてなにを言うの! あなた、なにひとつ知らないでしょう? 私と、私の母と、私の祖母と、私の曾祖母と……赤ノ倉家の女が受け継いできたものを、あなたなにひとつ知らないでしょう!」

「わたし……わたしは……」

 祖母の剣幕に、綾香は思わず後ずさった。

「赤ノ倉の女は、ずうっと、ずうっと待っていたのよ? 双子の片割れが戻ってくるのを、ずうっと、ずうっと待っていたの。 幼いころは寝物語に、娘時代は倉の古書に学んで……学ばされて……」

「……母さんも?」

「紀香は、あの子は拒絶した。……私の教え方が悪かったんだわ。だから、私が、紀香に代わって赤ノ倉の女の務めを果たしたの。私が、私が、男の子を産んだの。別れた血をひとつに戻すために、鬼の子供を私が生んだの! 翼が出たのよ! 私が生んだあの子に、翼が出たの。だから……もう……いいのよ」

 美千代の気迫に押され、綾香は心のうちに湧きあがっていたはずの言葉を、戸惑いの中に見失ってしまった。

 睦朗と一緒に帰ってあげて。

 睦朗を守ってあげて。

 睦朗を愛してあげて。

 ――――そんな言葉の数々を。

「おばあちゃん、睦朗を守りたくないの?」

「守る? あの子は、戦うために生まれてきたんですって。いつか鬼の国の底から、仙の国のてっぺんまでと戦うらしいわ。……ふふ」

 美千代は薄く嗤った。

 綾香はぞっとする思いだった。わからなかった。祖母の心がどうなっているのか、本当にわからなかった。

 この人の心を占めているのは、赤ノ倉の務めだけなのだろうか?

 「人でなし」と、言ってやればいい。けれどそんな言葉を投げつけたところで、なんの意味もないのではないか。祖母は母親であることなど、最初から投げているのではないか。

(ううん)

 綾香ははたと思い当たった。

 白い寒椿。ガクラン。合格発表。

 苦役の最中のような顔をしながらも、シャッターが切られるのを黙って待っていた睦朗。笑い合っていなくとも、あのときのふたりには親密な親子らしさが漂っていた。

 あのときのような親子の思い出は、日々重なっていったはずだ。

 家族としての日々があったはずだ。

 だから。

 人でなしとののしるかわりに、綾香は言った。

「……合格発表のとき、カメラ落としちゃってごめんなさい」

「――え?」

「写真、撮りそびれちゃって」

 美千代が顔をあげた。

 不意を突かれたような、不思議そうな表情をしている。

「おばあちゃんの代わりに、わたし、睦朗を守るから」

 美千代が綾香の顔を凝視する。

「だから、安心して」


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