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第七章 ②

 次の瞬間、綾香は黒く汚れた木の床に放りだされた。

 海も海水もどこにもない。

 ……どこだ、ここは?

 見たことのない石壁の部屋だった。色褪せた赤いビロードのカーテンが窓を隠している。

 綾香の家のリビングよりは広いが、父の城の応接間よりは狭い。石壁の一辺を天井まで高さのある棚が占めている。

 棚に並んだ冊子の背表紙に見たことのない文字を見て、綾香ははじかれたように窓に駆け寄り、カーテンを開けた。

 鉄格子の外に、ぐねぐねと雲が渦を巻く紫の空が見えた。

 魔界だ。

 一緒に落ちたはずのフィルの姿が見えない。綾香は警戒しながら、あらためて部屋の中を見回した。

 圧巻なのはやはり壁一面の棚だ。棚には何千冊もの冊子と、ラベルの張られたガラス瓶がずらりと並んでいる。赤黒い臓器のようなものが入っているガラス瓶の列も見つけ、綾香は思わずぞっとした。

 棚の向かいの壁に、頑丈そうな木製のドアがある。

 ドアノブを回したが、ガチッと抵抗があった。気にせずもう一度回す。抵抗感が最大になったところで両手を添え、力加減を「調整する」。

 ドアの鍵は綾香の破力にあっさり破れた。しかし、ドアを開けた綾香は落胆するしかなかった。

 ドアの外はすぐに石壁だった。この部屋の出入り口は石壁で塞がれているわけだ。

(部屋の主はどうやって出入りするのよ?)

 鉄格子の窓から? それとも床下から?

 綾香は黒ずんだ床を見た。

 そしてなにこれ!と思い絶句した。

 床には円や三角形などと文字らしきものが組み合わさった図形が、幾重にも重なり合っていた。一見、秩序のない黒い汚れに見えるほど、ごちゃごちゃした高密度だった。もしかしたらこれは、魔方陣とやらなんじゃないかと綾香は思った。重なり過ぎてひとつひとつが潰れているから、はっきり見えないけれど。

(落ちた海の上にも、ライト当てたみたいな赤い円があったっけ……)

 扉かなと綾香は思った。

 扉の形態はSF風あり洞窟あり襖あり、様々であることは経験した。このごちゃごちゃの魔方陣のどれかから、人界と行き来できるのかもしれない。

 綾香は床を踵で蹴ったり、はいつくばって耳を当ててみたりした。

 ……どうにもならない。

 無駄だろうと思いつつ、石壁にパンチを入れてみる。窓の鉄格子も曲げようと試みてみる。

 やはりどうにもならない。手が痛くなっただけだった。ついでにお腹も鳴った。

 昼食を素うどんで済ませたことを激しく後悔する。

 綾香は床の上にぺたんと座り込んだ。やばい。マジやばい。状況がひしひしと現実感を増すにつれ、心臓がどきどきしてきた。どうしようどうしようどうしよう……。

 そのとき。綾香の目の前に、ひらりと白いものが舞い落ちてきた。

 手を伸ばしてキャッチする。

 白い羽根。まぶしいほどに純白の――。

 綾香は天井を見上げた。そこには誰もいなかった。

 でも、確信できた。

 ミラフが近くにいる。

(よし……!)

 綾香は立ち上がった。棚に歩み寄り、糸で綴じた冊子を一冊手にとってみる。魔界の文字だろうか? アルファベットの雰囲気よりもアラビア語の雰囲気に近いという以上のことはわからない。

 あきらめて冊子を戻し、これまた何百個あるかわからない膨大な数のガラス瓶を眺める。内容物がグロテスクなものはそう多くなく、一番多いのは羽根だった。黒いもの、グレーのもの、銀色のもの、黒と銀のまだらのもの、グレーから黒へのグラデーションのもの、黒くて先だけ白いもの……。

(悪魔の羽根かな……。結構バリエーション多いんだな)

 白い羽根のコレクションもある。白は黒系よりずっと数が少ない。バリエーションもなく、大体みんな単色のオフホワイトかクリーム色だ。

 綾香は自分の手の中の純白の羽根を見た。さっき上から舞い落ちてきた羽だ。ガラス瓶に入った中に、ここまで真っ白の羽根はない。

(あ、あれは真っ白い)

 綾香の背丈よりの上の棚に、数個のガラス瓶が間隔を開けておいてある。隙間なくぎっしり並んだほかの棚の瓶とは違い、扱いが別格といった感じだ。その真ん中に、ミラフのものと張り合える白さの羽根がある。

 手の中の羽根ともう一度見比べる。同じ白さ。

(まさか、ミラフの羽根?)

 ふと見ると、別格扱いの列の中に、漢字のラベルが張られた瓶があった。はっきりと漢字だ。

「赤ノ倉睦朗」と。

(睦朗の羽根! 赤ノ倉家の倉の中で取ったんだ……)

 その漆黒の羽根が入った瓶に手を伸ばそうとしたら、綾香の手の中の白い羽根が横からすっと抜き取られた。

 いつの間にか隣にフィルがいた。気配をまるで感じなかった。

 綾香は息を飲んだ。

 体温も湿り気もまるで感じさせない、ガラス玉のようなアイスブルーの瞳をまっすぐ綾香に向け、フィルが小刀を手にして立っている。

「ぎゃああああああ!」

 フィルに髪をつかまれた。

 痛い! こいつバカ力! 絶体絶命! ミラフ助けて!

 ――と思ったらいきなり放り出され、床に尻もちをつく。

 フィルは右手に小刀、左手にミラフの白い羽と一緒になにやら黒いものを持っていた。毛束のような……。

(……髪の毛?)

 綾香は頭に手をやった。

 ほんの一部分だけ、髪が短くなっている。

 フィルは手にした綾香の髪をガラス瓶に入れた。瓶に張られた白いラベルになにやら書き込みをし、棚に置いた。綾香は尻もちをついたまま、ラベルに目をやった。

 赤ノ倉綾香。達者な筆跡で書かれたその下に。

 異国の文字列に混じって、「赤ノ倉」「仙ヶ崎」と書かれていた。

(『仙ヶ崎』……?)

「『仙ヶ崎』ってなんなの?」

 フィルは答えない。口がきけないんじゃないかと思うほど、こいつは声を出さない。

 返事の代わりに、フィルは立ち上がろうとする綾香を突き飛ばして転ばせた。

「こっの……!」

 また立ち上がろうとしたら、ふいに足の下の床が消えた。


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