第五章 ⑤
赤ノ倉本家に一泊した翌朝、綾香は庭に出てみた。
ミラフの言ったとおり、錦鯉のいる池があった。縁にしゃがみこんで眺めていると、鯉はえさをもらえると思ったのか、次々にぬおー、ぬおーと水面で口を開ける。
鯉のまぬけ面を見ていると、砂利を踏む足音がした。森田さんだった。森田さんは通いのお手伝いさんだけれど、きのうは特別に泊まり込んでくれた。
森田さんは「奥様」が「旦那様」とともに姿を消したことに、激しく憤慨していた。
「もう警察行きます! 虐待は犯罪です!」と怒りまくるのを、二木先生がなんとかなだめたようだった。
「おはよう綾香ちゃん。眠れた?」
「はいー。それ、鯉のえさですか?」
森田さんは麩のようなものが詰まったビニール袋を持っていた。
「うん。やる?」
「やるやる」
ふたり一緒に池に麩をまく。鯉がうじゃうじゃ水面に群がってきた。
「その黄色いのがキンコで白いのが絹子。頭に赤い斑点があるのがベレー。ベレー帽みたいだから。名前は奥様がつけたんだけどね」
森田さんが鯉の名前を教えてくれる。
「……で、あの真っ黒いおっきいのがダン! このこのこの! えいえいえい!」
森田さんは迫力のあるひと際大きい鯉めがけて、えさを投げつけた。強く投げられたからって麩にダメージを受ける鯉ではないが、憎しみのこもった力投である。
(なんかこの人おもしろいな)
五十代だろうけど、仲良くなれそうな気がする。
ビニール袋が空になったので、屋敷へ戻ろうと綾香が振り返ると、玄関から誰か飛び出してきた。
「睦朗!」
睦朗はこちらに駆け寄ろうとして、傷が痛んだのか突然しゃがみこんだ。
「ぼっちゃま駄目です! 無理なさっちゃ!」
「森田さん……」
睦朗は顔をあげて森田さんを見た。
目が潤んでいた。
「……よかった……森田さん……生きてて……」
「なに言ってんですかぼっちゃま。あたしならぴんぴんしてますよ。それよりぼっちゃまですよ! もー、痛いなら走っちゃだめですよ!」
森田さんは睦朗が立ち上がるのに手を貸した。睦朗はその手にすがるようにしがみつき、下を向いたまま「うー……」とくぐもった声を出した。
しずくが点々と飛び石に落ちる。
睦朗は泣いていた。




