第五章 ④
エプロンの中年女性はお手伝いさんだった。彼女は、目を開けて二木先生を呆けたように数秒見つめたのち、「う~ん」と言ってまた気を失った。
……美しさは罪。心臓に悪い。
二度目に目を覚ましたお手伝いさんは(二木先生は念のため離れていた)、がばっと睦朗のふとんに這い寄り、口端の傷に気付くと「ぼっちゃま―――!」と狂乱した。
「申し訳ありません、またしてもこんな目に! あああ警察と児童相談所のヒトはなにやってんの!? 電話したのに……って、してない!? あたししてない!? 電話の前に立ってから先おぼえてない!? あたし寝てたの!? ぎゃっ! あなたたち誰!?」
「私は睦朗君の担任教師で……」
「うそっ! ハリウッド俳優でしょ!?」
「ハリウッド俳優が来るわけねーだろーがよ……」
「ぎゃっ! ハリウッド女優! ぎゃっ! 普通の女の子!」
(普通の女の子でぎゃっ!はないでしょうよ……)
「あのー……。わたし、赤ノ倉綾香です。紀香の娘で……」
「赤ノ倉綾香さん? えっ、紀香さんって、確か奥様の……」
「紀香は美千代の娘。こいつはそのまた娘。美千代の孫で、ぼっちゃまの姪」
「え――――っ!」
「で、こいつはほんとに睦朗の担任教師で、私は紀香の友人。頭入ったか? 入ったな? じゃあ訊くぜ。なにがあった?」
「旦那様がいらしてぼっちゃまと倉に! しばらくしたら悲鳴が聞こえて、ああまた折檻だ、もう黙っちゃいられないってあたし、警察に電話したんです……いえ、してない。するつもりで受話器をとって……そこから覚えてないわ」
「ダン・グラボスは何時頃来た?」
「夕方です。暗くなる前だったわ。あの人、またぼっちゃまを……」
「半殺しだ」
「なんてこと……! ああぼっちゃま……!」
「よくあるのか? こういうことは」
「しばらくありませんでした……。あたしがここに通うようになったのは、ぼっちゃまがアメリカに行ってらしたころですから、それ以前は知りませんけど。ぼっちゃまが日本にお帰りになった日に、旦那様がぼっちゃまを倉にお連れになって、なにするんだろうと思ったら……。ひどいわ。ひどすぎます。父親のやることじゃないわ。『負け犬め』なんて罵って、体中に蚯蚓腫れができるくらい痛めつけて。行きたくもないアメリカに行かされて、うまくいかなかったからって折檻されるなんて……。かわいそうです。かわいそう過ぎます。それにぼっちゃまが日本に帰ってきたのは、勉強がうまくいかなかったからだけじゃないんですよ! ぼっちゃまはアメリカで、大切なお友達を亡くされたんです。ショックに決まってるじゃないですか! そんな話を聞きもせず、逃げ帰ってきた結果だけで怒るなんて、あんまりだわ!」
「友達を亡くした……?」
「あたしも後から聞いた話です……。旦那様にも奥様にも言えなかったそうです。そんな家庭……家庭じゃないわ。かわいそうなぼっちゃま。うー……」
お手伝いさんは目を覆って、嗚咽をこらえるように口元をふるわせていた。
綾香も同じ表情になっていた。なにかしゃべったら、涙が堰を切る。
(睦朗……)
「あたしは何度も奥様に言ったんですよ。旦那様のなさることを止めるのは母親の義務でしょうって。なのに奥様は泣きながら見てるだけ! 見てるだけなんです! 奥様のかわりにあたし、ぼっちゃまを叩く旦那様の腕にすがりついたこともあるわ。ぼっちゃまが家を離れて、東京の高校に行くことが決まって、あたしはほっとしました。心配だけど、この家にいるよりましだと思って。なのにまた……ひどいわ。先生、ぼっちゃまを守ってください。このままではいつか、ぼっちゃまが壊れてしまう!」
「……わかりました。私は、睦朗君を守るためにここへ来ました。彼の置かれた状況は尋常ではないので……。私は郷田川高校一年学年主任の、二木一郎と申します」
「森田です。どうか、どうかぼっちゃまをお願いします……。綾香さん、あなたにもお願いします。ぼっちゃまの味方になってあげて!」
森田さんは両手でひし!と綾香の手を取り、涙の盛り上がる瞳を向けた。
「はいぃぃぃ!」
綾香の目からも、だばだばと涙がこぼれた。
森田さんが「お風呂の支度をします」と言って部屋を出たあと、まずミラフが口を切った。
「ダンが倉から跳んだのは、ヴァラックスに追いつかれたからだと思ったんだが……違う気がしてきた。誰がなんのために家政婦を気絶させて倉に運んだ? ヴァラックスだったらそんなことする理由がねーだろよ?」
「そうですね……」
「そもそもなんのための半殺しだ? いまさら睦朗構ってどうするよ? ダンの目的は赤目をもう一匹作ることじゃなかったんか? 構うべき相手は睦朗でも美千代でもなく、こいつだろう」
ミラフは綾香を指差し、続けた。
「ヴァラックスから逃げるんじゃなけりゃ、ダンはなんで無理して魔界に跳んだ? 美千代を抱えてだぞ? 扉なしでだぞ? 半端な消耗じゃねえぞ? せっぱつまった事情があったんだよな。どんな事情だよ?」
「……後で睦朗君に訊くしかないようですね」
二木先生は意識のない睦朗に目をやった。




