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第五章 ③

 ミラフが応急処置をしたものの、睦朗はまだ満身創痍で気を失ったままだった。二木先生が睦朗を抱きかかえる。エプロン姿の中年女性は綾香が背負った。

 屋敷の玄関で人を呼ぶ。返事はなかった。

 玄関の引き戸は鍵が閉まっておらず、明かりもついているのに。

「すみませーん。ごめんくださーい!」

 綾香がもう一回奥へ向けて声を張り上げるが、やっぱり返事はない。

 赤ノ倉本家は、嗅ぎ慣れないよそのうちのにおいがした。暗い色調の日本画が掛かり、牡丹だかシャクヤクだか、花びらの多いもったりした花が壺に生けてある。重々しい雰囲気の玄関。たたきの床石は黒く、奥へと続く廊下の床板も時代を経て黒光りしている。

「入るぜ」

「えっ、勝手に……?」

「誰もいねーよ。少なくとも人間は」

 睦朗と中年女性を横たえ、広い屋敷の片っ端から襖や障子を開けていく。どの部屋もあまり物がなく、骨董的な調度品がそれぞれの部屋にしっくり溶け込んでいた。

 やっとのことでふとんを見つけ出し、ふたりを寝かせた部屋に運び込む。

 気絶しているふたりをふとんに落ち着かせると、ミラフは畳に倒れ込むように大の字になった。

「つっっっかれた――――! 今敵が来たら、おまえらでよろしく頼む」

「さっきすごかったよミラフ。霊々天って傷の治癒までできるんだね!」

「滅多にやんねえ! すげー疲れるから。考えてみりゃ、なんで私が睦朗助けなきゃなんねーの? あーくそ、ほっとくんだった」

 ミラフはそうぼやいて、すみれ色の瞳を閉じた。

 そんなミラフを、二木先生がやさしい目で見ていた。

「睦朗大丈夫かな……。なにがあったんだろ」

「扉なしで魔界に跳べるのは魔力の大きい者にしかできませんから、倉にはグラシャラボラスがいたと考えるのが妥当でしょうね。それに、ニコル……」

 二木先生はつらそうに目を伏せた。

「睦朗君を見張っていた彼は、破力天第十二階級です。決して弱い天使ではない」

「……グラシャラボラスって、お父さんのほうですか。それとも……」

 冷たいまなざしの、息子。睦朗の兄。フィル。

「ダンでしょう。フィルは空間越えができないのです。霊属性の能力はない。ダンは跳べますが、フィルは跳べない。それに、フィルはさほど強くはない」

「強ええって!」

 ミラフが口を挟む。

「……主観的な霊々天はそう言っていますが、天界が入手した情報によれば、フィルは生まれつき魔力にはあまり恵まれず、魔界で恐れられる存在ではない。形だけダンの傘下にいる、その他大勢に過ぎません。ダンにはフィルよりもっと強い配下が何人もいます。今回ダンがフィルを使うのは、戦闘目的ではないでしょう。『グラシャラボラスの血筋』を使いたいのだと私は見ています」

「グラシャラボラスの血筋……」

「ダンは赤目をまた生み出したいようです。睦朗君のお母さんは閉経したため、もう子供を産めない。紀香さんは魔界の実力者であるヴァラックス伯爵が守っている。となると、今一番危険なのは、綾香さん、あなたになります。ミラフが個人的に守護しているようですが、天界上層が公的にあなたにつけている天使は、青島君しかいないわけです。公申様にお考えがあるのでしょうが、さすがに私も手薄だと感じます。ダンとフィル、ふたりであなたを狙ってくる可能性がある以上、守護はもっと手厚くする必要がある。公申様にそう申し上げましたところ、私が綾香さんの守護も兼ねることになりました」

「えっ! 先生が?」

「睦朗君の守護と兼ねてですので、綾香さんと睦朗君はなるべく行動を共にしていただきたいのですが……」

「あーそれで、私と綾香も連れてけって言ったとき、あっさりOKしやがったわけか」

「……もっとはやく、私からあなたに協力を求めるべきでした。そうすればニコルは……助けられたかもしれなかった」

 翼をもがれた天使。彼の亡骸はまだ、血塗られた倉に横たえられている。

「……どうして睦朗のお父さんは、こんなことするんですか。天使を殺して……睦朗をこんなに傷つけて。お父さんなのに……」

 綾香は睦朗を見た。

 顔色はよくなってきているけれど、口の端が切れていてひどく痛々しい。

「わかんない。どうしてこんなことするの? 睦朗はどうしてこんな目に合わなきゃいけないの? 『赤目』とかいうのに生まれついたから? でも『赤目』なんて遠い先祖の話でしょ。睦朗はそんな化け物じゃない。見た目は綺麗だけど、すごく普通の男の子なのに。強くてやさしい男の子なのに。おばあちゃんはどこなの? 睦朗のお母さんはどこ? どうしてこんなときにいないの? どうして睦朗をお父さんから守ってあげないの? 睦朗、こんなに怪我してるのに……。こんなとき、どうしてそばにいないの? 一番そばにいてあげなきゃいけない人なのに!」

 綾香は立ち上がった。そうだ。おばあちゃんだ。

「おい、どこ行く?」

「おばあちゃん探しに!」

「半径十キロ圏内にゃいねーよ。美千代の気配は探った」

「どこ行っちゃったの! こんなときに!」

 熱り立つ綾香を無視して、ミラフは寝転がったままニケに視線を向けた。

「『美千代番』の天使もいるんだろ? どこ行ったっつってる?」

「……最後の報告では、この屋敷ですが」

「いねぇじゃねーか。ダンと一緒に跳んだんか?」

「かと思われます」

「綾香、さっきの答えだ。『おばあちゃんは魔界』」

「魔界っ!?」

「……静かに」

 二木先生が唇に人差し指を当てた。

「女性が目を覚ましそうです」

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