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第五章 ②

 跳んだ先は倉の前だった。

 倉には明かり取りの窓があるが、中からの光はない。赤ノ倉家の屋敷からこぼれる明かりが、倉の白さをぼんやりと闇から浮かび上がらせている。

 綾香が倉の戸に手を掛けようとすると、二木先生に止められた。

「危険です。……ミラフ、中にいるのは何名ですか?」

「気配消してないやつは、睦朗以外に人間ひとり。……睦朗ともども、気絶中だな」

「……気配を消している者がいる可能性は?」

「おおいにありだぜ。力々天、まずおまえが突撃だ」

 二木先生は倉の観音開きの戸に手をかけ、開けようとした。ガチャリと音がする。中から閂か掛っているようだ。

 一瞬だけ、彼の肩が盛り上がった。

 ベキッと鈍い音に続いて、金属が地面に落ちる音がした。二木先生はすっと戸の前を退き、ミラフと綾香を背に庇うようにして構えをとった。

「なにも出てきませんね。……入ります。あなたは綾香さんとここに。危険を察知したらすぐに跳んで逃げてください」

 力天ニケは真っ暗な倉の中へ入って行った。地面には壊れた閂の残骸が転がっていた。

(睦朗……なにがあったの?)

 綾香も、はやく中へ入りたかった。待っているのがもどかしい。夜の暗がりの中で、さらに真っ黒い口を開けている倉。一体、中でどんなことがあったのだろうか。

「ニコル!」

 二木先生の張りつめた声が聞こえた。

 綾香は弾かれたように倉へ駆け込もうとし、ミラフに腕をつかまれた。

「入るぜ」

 ミラフに手を引かれ、ゆっくりと倉の中へ歩を進める。

 吹き溜まったような濃い闇とねっとりした空気。黴とほこりと錆びの匂いが鼻をつく。

 なにかが足に触れる。ざわりと脛をなでる柔らかいもの。ぼうっと闇に浮かんで見える白いもの。

 綾香は足をどけた。どけた先についた足先が、ちゃぷんと音を立てた。

 水……? なにか液体。

「睦朗! 先生、睦朗は……!」

「綾香さん、ミラフを呼んで下さい!」

「私ならいるぜ。敵はいねえな……。光が要る」

 ぽうっと、あたりがやわらかい光に照らされる。ミラフが翼を広げている。淡く発光する大きな白い翼。

 綾香は足元を見た。

「……っ!」

 ……翼。白い翼。血にまみれた翼。もぎとられた片方の翼。

 綾香のスニーカーを染める赤い血溜まり。

 二木先生が膝をついて誰かを抱き起こしている。力なくずるりと床に引きずられる裸足の足は、あちこち血で汚れていた。

「睦朗っ!?」

 綾香は二木先生に駆け寄った。

 先生が抱える誰かは、糸が切れたように動かないままだった。

 睦朗ではない。綾香の知らない少年だ。

 そのとき、倉の最奥からミラフが怒鳴る声がした。

「おい! 返事しろ睦朗!」

 ミラフの翼が、溜まった闇ににじんだ光を投げかけ、対象を淡く照らす。

 綾香は母の言葉を思い出していた。

 ――男の子の残虐行為が、『赤ノ倉』の名前の由来よ。倉の中で村人を何人も面白半分に殺して……。倉の内側から白い外壁に、血が染み出すほどだったって言われてる――。

 赤ノ倉家の伝説――赤とは、血。「赤ノ倉」は血に染まった倉を示す。

 赤ノ倉家の伝説――倉を血で染めたのは、赤ノ倉家の始祖が残した、男女の双子のひとり。

 睦朗は、鬼じゃない。

 双子の片割れではないのだから。

 睦朗は、鬼じゃない。

 こんな痛々しい、折れそうにか細い鬼なんかいるものか。

 倉の奥。春の星空が明かり取りの窓に四角く切り取られている、その下に。

 睦朗はキリストの磔のように、十字に組んだ角材に両腕を広げて縛り付けられていた。膝は地面につき、濃い睫毛をふせた顔はななめにうなだれていた。大きく切り裂かれたシャツから覗く白い体におびただしい傷跡がつけられ、赤い血が幾筋も肌を伝って、服地を染めあげていた。

「睦朗――――っ!」

 綾香は睦朗に駆け寄り肩を揺すった。「おい!」とミラフが制止の声を上げるが、止められなかった。

 目を開けてほしい。反応してほしい。

 生きている証拠を見せてほしい!

「やだ……やだ……どうして!? 目を開けてよ! 目を開けて、睦朗――っ!」

 綾香がそばで叫んでも、睦朗のまぶたは伏せられたままだった。

「くっそ……やばいぞ」

 ミラフが睦朗の手首を縛っている縄を解いた。力なく崩れる睦朗をふたりで支える。

「危ない!」

 二木先生の大声が響いた。

 大きな羽音がした。狭い倉の中に黒い鳥がはばたく。カラスのようで、カラスではなかった。鳥類の足とは思えない巨大な鉤爪のついた、四本の太い足がある。

「雑魔じゃないか!」

 鉤爪を避けながらミラフが叫ぶ。

 三羽。ミラフが一羽を拳銃で撃ち抜く。二木先生が一羽を空中で掴む。綾香は天使たちより速く、素手で叩き落として頭を踏み潰していた。スニーカーの底に、ゴリッと固い頭蓋が砕ける感触を感じた。黒い羽根が何枚も飛び散っている。

「……なんで雑魔がここに」

「誰かここから魔界に跳んだな」

 ミラフは黒い羽根が舞い落ちたあとの空中を見つめていた。

「魔界に?」

「扉を使わずに魔界に跳ぶと、しばらく空間が不安定になるんだ。ここにも次元の亀裂が入ってる。雑魔どもは亀裂から睦朗の気配を嗅いで、パニクって跳び込んだんだな」

「……これを戻せませんか」

 二木先生が、羽を開かせないように両手で抱えた雑魔をミラフに差し出した。

「戻せねーよ、亀裂広げる気か? バカかおまえ。なに生け捕ってんだよ」

「……」

「殺すぜ」

 二木先生は雑魔を宙に放った。羽を開く前に、ミラフが拳銃を抜く。ギャア!と嫌な声で鳴いて、雑魔は床に落ちた。

「ったく、世話が焼けるぜ! 亀裂が開いてこの村が雑魔だらけになってもいいっつーんなら、おまえもここから魔界に放り込んで、跳んだやつにトドメ刺してきてもらったけどな! 扉なしで無理に跳んだんだ、敵さん今ごろへたばってるさ。チャンスだな!」

 ミラフは一気に言い放つと、ぐったりと横たわった睦朗に向き直った。

「バカになに言っても時間の無駄か」

「ミラフ、睦朗は……。あの男の子は……」

「ニコルは死んでる。睦朗はちょっとやばめ。もうひとりは無傷。気を失ってるだけだ」

「もうひとり?」

 ミラフは顎で古書の積んである一隅を指し示した。

 古書の山の近くに、エプロン姿の中年女性が横たわっていた。睦朗の母親ではない。はじめて見る顔だ。誰だろう?

「睦朗君に救急車を呼びましょう」

「人間じゃねーんだぞ?」

「しかし……」

「……しゃーねぇな」

 ミラフは睦朗の脇腹にざっくり開いた、一番大きな傷口に手を当てた。

「……ん……」

「ミラフ?」

「静かにしてろ」

 二分ほど手を当てていただろうか。ミラフの額にうっすらと汗が浮き出るころ、天使は睦朗の体から手を離した。

 驚いたことに、血を流していた傷口が塞がっている。元通りきれいに治ったわけではないが、傷の生々しさは消え、乾いてかさぶたになりかけていた。

「うわ、すご……」

「ミラフ、あなたいつの間に治癒能力まで……」

 二木先生が驚いた顔でミラフを見た。

「黙ってろって。次いくぞ、次」

 ミラフは別の傷口に手を当てた。

 綾香と力々天はなすすべもなく、ぽたぽた汗を垂らして集中する霊々天と、睦朗の青白い顔を交互に見つめていた。


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