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第一章 ②

「おお、赤ノ倉、合格かあ!」

 綾香が手にした入学手続き書類を見て、担任の井田先生はいつもの大声で言った。

「郷田川、人気校だからなあ。おまえが受かるとは思わなんだぞ!」

「思わなんだって……。そりゃないですよ。受けろ受けろって言ったの井田先生じゃないですか!」

「おまえの運と底力を見込んでみた。よかったなあ! ご両親には報告したか?」

「それが……連絡つかなくて」

 何度も電話してみたけれど、携帯は留守録サービスにつながるばかりだし、職場の番号にもかけてみたけれど、母は外出しているらしかった。予想外の事態に、無駄だと思いつつ父親にもかけてみた。そっちはいつもどおりつながらない。だもんで、ふてくされた気分で学校に報告に来たのだ。

(母さん、どこ行っちゃったんだよー。忘れられてるとしか思えない……)

「そーか、報告は今夜か? まあこれで一安心だな。ゆっくり休め。遊ぶのもいいがあんまりハメは外すなよ! おめでとうな!」

 がはははと豪快な笑い声に送られ、綾香は職員室を出た。

 もう今日は学校に用はない。ひとりさみしく帰るしかない。

 一週間前の綾香だったら、母に電話して出なかった時点で即、仲良しグループ全員に合格の報告をしていただろう。でも、それはできない。

(はー……)

 綾香はため息をついた。自分が友達からうざがられてるとは、先週までかけらも気付かなかった。我ながら、鈍感にもほどがある……。

 女子トイレ。聞こえてきた、鏡の前の悪口大会。悪口の対象は、個室で用足し中の綾香だった。悪口に興じているのは、仲良しグループだと信じて疑わなかった友人たち。

 よくある学校の風景。よくあることだけど、自分の身にふりかかるとは思わなかった、最悪の出来事。

「綾香って無神経じゃない? 自分はもう志望校の試験が終わったからって、映画観に行っちゃったとか、春服買いに行っちゃったとか、そうゆうこという? 都立の試験はこれからなのに」

「いいよね、お金持ちのうちは! うちは第一志望私立にするなんて言ったら、親に首絞められちゃう」

「なにげに自慢すんだよね。お父さんはバーバリーのコートしか着ないとか? お母さんは渋谷でデザイン事務所やってるとか? お洒落でいいなーって、そんなに言わせたいかあ?」

「親はオシャレでも綾香はアレじゃん」

「ぶ。言えてる。センス的に小学生男子?」

 映画は観に行ってない。観たのはテレビで放映されてたやつだ。

 春服は買いに行ったというより、母さんの事務所に用事があって出かけたときに、たまたまいいのが目について衝動買いした。

 お金持ちだったら、3LDKの中古マンションなんかに住んでないと思う。私立に行かせてもらえるのは、ひとりっ子だからだ。

 父がバーバリーのコートが好きなのは事実。

 母がデザイン事務所を経営してるのも事実。でも渋谷じゃない。渋谷に乗り入れしてる私鉄沿線の某駅だ。小さな事務所で、スタッフは母を入れて三人しかいない。

 ファッションセンスがいまいちなのも事実。

 ボーイズスタイルが多いのは、動きやすいのが好きなのと、身長が173センチもあるためサイズ的な問題があるから。

(んだよ、言いたいほーだい言いやがって!)

 ガコン! 綾香は蹴飛ばして個室のドアを開けた。その勢いに友人たちがなにごとかとこちらを振り向き、みんなして硬直する。

 本人が出て来て固まるくらいなら、でっかい声で悪口言うな! 怒りの形相で、綾香は友人たちを睨みまわした。

 彼女たちの中に、美里がいた。

 綾香は思わず怯んだ。

 美里が自分の悪口を言っている声は、聞こえなかった。けれど美里は、小学校のころから親友だと信じて疑わなかった美里は、友人たちの話をなにひとつ否定せず、悪口に興じる彼女たちの輪の中にいたのだ。

 悪口を言われたことより、綾香は美里がいたことがショックだった。

 ドアを蹴り飛ばした勢いが急激にしぼんでいった。言い返す気も失せて、綾香は逃げるようにトイレを出た。

 美里が追いかけてきた。

 綾香は立ち止り、美里と向き合った。弁解なら聞こうと思った。むしろ弁解してほしかった。美里を失いたくなかったから。

「どうしてこそこそ悪口なんか言うの?」

 美里に向けた言葉は咎めるような口調になった。親友は目を伏せるでもそらすでもなく、綾香の強い視線を正面から受け止めた。

「こそこそとしか言えない人だっているんだよ」

「卑怯だよ。言いたいことがあれば、面と向かって堂々と言えばいい」

「じゃあ言うよ。綾香って無神経。真理が郷田川行きたがってたの、知ってたじゃない。でも真理は、下にふたりも弟がいるから私立はあきらめたって。なのにあんた、郷田川の話ばっかりするし。落ちろって思われたって仕方ないよ。さすがに落ちろとは言えないから、別のどうでもいい話で攻撃するんだよ」

「落ちろって思うなら落ちろって言えっての! わかんないよ! そんなフクザツな心理」

「そういう複雑な心理をちっともわかろうとしないから、うざがられるんだよ」

「うざがられてんの? わたし?」

「わりとね」

「美里も、わたしのことうざいの?」

「時々あたし、綾香のフォローすんの、疲れんの。あたしも第一志望の試験これからだから、距離置かせてもらっていい?」

 美里とはそれっきり話してない。

 綾香はもう一度盛大にため息をついた。人生の中でも記念すべきうれしい日のはずなのに、この孤独感ってどうなのよ……。

 うなだれていたらスマホが震えた。母親からだ。

 やっと合格の報告ができるとほっとして、電話に出る。

「母さん、どーして電話出てくれな……」

〈綾香、隠れて!〉

 疑問より先に、母の必死の声で瞬時に鼓動が早くなる。

「母さん、何があったの? どうしたの?」

〈理由はあとよ! 今すぐうちに帰りなさい! なるべく人通りのあるところで、タクシー拾って。警察はあてにならない。うちでエドからの連絡を待って〉

「父さんからの? 母さん、わたし今、学校の前にいるの」

〈タクシーに乗るまで先生についててもらって。私は大丈夫。エドと一緒よ。それよりあなたが心配。エドは綾香なら心配ないって言ってるけど……。暴力は避けて。逃げて。とにかく逃げて、隠れて。戦っちゃ駄目……〉

 通話は切れた。

 茫然とするしかない電話の内容から、いくつかの言葉が頭の中に再生される。

 警察はあてにならない。暴力は避けて。逃げて。隠れて。戦っちゃ駄目。

 なんなんだ、なんなんだ??? 

 どれをとっても穏やかじゃない。

 綾香は抱えた書類を見つめた。合格の報告をし忘れた。でも、それどころじゃないことが起こっているらしい。

 それどころじゃないことって、一体なに!? 

 「志望校合格」が霞んで消えるほどの大事が襲いかかってくるような、そんな大層な立場であったためしはない。母さんだってない。

 綾香の母・(のり)()は小さなデザイン事務所のアートディレクターで、綾香はそんな母に顔しか似てない運動部系女子で、趣味は違うなりに親子仲良く、放任気味かもしれないけど大きな不満も問題もなく、平和に暮らしていた。

 綾香と紀香の二人は。

(あいつだな――――っ!)

 綾香の胸に怒りの炎がめらめら燃えだした。

 赤ノ倉家の平和をかき乱す存在と言ったら、ひとりしかいない。あの正体不明のイギリス人が、なにかやらかしたに違いない。

 エドワード・ヴァラックス。

 戸籍上は赤の他人だが、どうやら綾香の生物学上の父親であるらしい、銀髪ちょび髭長身の、ふざけたあの野郎。あいつが騒ぎの原因に間違いない!

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