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第四章 ⑥

 部活見学をしようという青島君につきあって、帰りが遅くなってしまった。

 空手部の人が綾香を覚えていて、熱烈な勧誘攻撃にあった。興味はあるけれど格闘技系はまずい。絶対にまずい。

 綾香は青島君と学校中を逃げまわった。しつこい勧誘には困ったものの、逃げるのは結構楽しかった。男の子とかけまわって遊んでいた小学校時代に戻ったみたいで。

 学校を出るころには薄暗くなっていた。睦朗は学校に来なかった。電話はつながらないし、メールの返信もない。

 綾香は睦朗のマンションへ寄ってみることにした。

(……やっぱり出ないや)

 エントランスで睦朗の部屋番号を押しても、チャイムがむなしく響くだけだ。あきらめて外に出る。

 すぐそばに公園があったので、ベンチに腰を下ろしてもう一度メールを打つ。

 ふと、視線を感じた。

 顔を上げる。すべり台などの遊具がある広場を挟んだ、向かい側のベンチ。

 その後ろに立つ、黒いコートの外国人。背の高い若い男だった。

(誰……?)

 薄暗くて顔ははっきり見えないが、知ってる人物ではないことくらいわかる。欧米系で背の高い若い男性と言ったら、知り合いは二木先生しかいない。

 黒コートの男は、体格的には二木先生に近い。けれど、雰囲気が全く違う。二木先生の佇まいはもっと柔らかい。

 綾香はぶるっと身震いした。男の冷たい視線に。

 男はこちらを見ている。不自然なほど、まっすぐに。

 シャープな顎の線。肩幅の広い左右対称のシルエット。薄闇でもわかる、色素の薄い髪色。季節外れのロングコート。

 殺意はない。綾香の本能は殺意を感知しない。

 でもわかる。

 ――自分よりも強い。

 ――彼は、人界にいるべき存在じゃ、ない。

「綾香!」

 どこからかミラフが走り出て来た。

 ミラフは男に気付くと、ぎくりと立ち止まった。

 天使は綾香の腕をつかんだ。跳ぶんだと思った。つかまれた腕には鳥肌が立っていた。

 体に重力がかかる。足場がなくなる。

 次の瞬間、見覚えのある景色が目に映る。押されたように前につんのめり、桜の散った地面に膝をつきそうになるのをミラフが支えてくれた。

「――学校?」

 郷田川高校の中庭だった。校舎の窓から明かりが漏れている。

 ミラフは綾香の二の腕をつかんだまま、昇降口に駆け込んだ。

「どこ行くのミラフ!?」

「いいから来い! あいつまで出てきやがった! 私ひとりじゃ守りきれねー!」

「今の人誰?」

「グラシャラボラスだよ」

「えっ!? うそ、若かったよ?」

「ダンじゃねーよ、息子だよ! フィル・グラシャラボラス。睦朗の腹違いの兄貴になる。野心なんか無縁のやつなのに……。くっそ、ダンのやつ、やっかいなの引っ張り出してきやがって!」

「息子!?  睦朗のお兄さん!? あの人も『赤目』を作りに来たの!?」

「あいつはまわりくどいことはしねぇぞ。あいつがその気なら、おまえの卵子絞りとって片っぱしから人工授精、代理母出産だ!」

「ええええ!」

「あのフィルが人界なんか来るわきゃねーと思ってたのに!」

 ミラフはためらいなく職員室に向かった。

 バン!と勢いよくドアを開ける。

「なんだね、君たちは?」

 教師のひとりが、駆け込んできた金髪少年と一年女子をじろりと見た。

「二木一郎はどこだ?」

 職員室を見回しながら、ミラフが言う。

「呼び捨てとは感心しないね。まず君が名乗りなさい」

「名乗れとよ!」

 ミラフが綾香をどん!と前へ突き出す。

「は? わたしが? い、1年4番の赤ノ倉綾香ですぅ」

「1年4番? 二木先生の担当生徒だね。二木先生になにか用かね?」

「はいい!」

 なんの用だかわからない綾香だったが、勢いで返事する。

 勢いに押されてか、教師は追及をやめて、様子を見ていた若い教師に「二木先生はもうお帰りになったんじゃなかったかね?」と訊いた。

「二木先生は保健室ですよ。担当の生徒が倒れたので、つきそいに」

「保健室だな!」

 ミラフはそう聞くやいなやくるりと向きを変え、職員室から走り出た。迷いのない足取りで保健室を目指す。

「ミラフ、二木先生になんの用なの?」

「私ひとりじゃ守り切れねっつっただろ」

 職員室のドア同様、天使は保健室のドアも勢いよく開いた。静かで薄暗い室内に乱暴な物音が響く。

 スツールに座った二木先生の後ろ姿があった。

 奥のベッドに誰か寝ている。先生と病人のほかは誰もいない。天井の蛍光灯はついておらず、机のスタンドが頼りない光を投げかけていた。

「……あなたに関わると、私は必ず邪魔をされるのですね」

 むこうを向いたまま、二木先生は言った。穏やかな口調だったけれど、責めるようなニュアンスがあった。

「運命だと思ってあきらめろ」

 ミラフの言葉に二木先生はため息を返し、こちらを振り返った。振り返るとき、先生の背中に隠れていた病人の顔が綾香の目に入った。

「先生、青島君どうしたんですか?」

「神経系を一撃ってかんじだな。あ~あ、こいつ当分使いもんになんねーぞ。死ななかっただけラッキーだな」

 二木先生の代わりにミラフが答える。綾香はミラフの顔を凝視した。

 どういうこと……?という問いを込めて。

「こいつ、綾香番にしちゃザコくね?」

 ミラフは言った。綾香にではなく、二木一郎に。

「あなただって、この年齢のときは弱かったでしょう」

「こいつ(しき)霊天(れいてん)だな? なんで『赤ノ倉』には戦いに向かない天使が見張りにつく? 天界は、『赤ノ倉』を侯爵から守る気ねぇだろ。私を紀香につけたときだって、私をナメくさっての判断だっただろ。『霊々天に戦闘能力はない』ってな。(こう)(しん)は赤ノ倉をどうしたいってんだ?」

「……」

「答えろよ、力々(りきりきてん)。戦闘専門の睦朗番!」

(綾香番? 睦朗番? なんのこと……?)

「あなたはとうの昔に『赤ノ倉』を保護する任務からはずれた。答える必要はないですね」

「はーん。じゃあお優しいおまえも、赤ノ倉の女はグラシャラボラスにどうされても構わないっつーわけだな?」

「いいえ。……もうやめましょう」

 二木先生は綾香の顔を見た。すまなそうな表情が浮かんでいる。

「先生……先生は」

 綾香の口からは、うろたえた声しか出なかった。

「……青島君は」

「青島は識霊天第二十六階級両翼。二木一郎は力々天第三階級両翼。こいつらの上役の大天使は識々(しきしきてん)第一階級両翼、(てん)(とく)(こう)(しん)貴天(きてん)またの名を郷田川博(ひろ)(のぶ)

 またしても、二木先生に代わって答えたのはミラフだった。

「郷田川博信って……」

「ここの理事長。天界が出資して統轄する、私立郷田川高校のな。なにがやりてーんだ、天徳公申は?」

「見てのとおり、高等学校の運営ですよ。優秀な人材の育成です。難関試験を突破して入学してきた者に質のよい教育と……天界に対する認識を与える」

「天界の手足になる人間の育成か……。人間だけじゃなく、魔族もOKか。さっすが風雲児天徳公申。ほかの大天使どもの青筋立て続けさせて二百年か? 赤目と赤ノ倉の入学は想定内?」

「想定外です。だから私が急遽ここに……」

「なぜふたりの入学を許可した。トラブル必須だぜ。すぐそこにもトラブルがいやがった」

「……フィルですか」

「この新米天使はフィルにやられたんだろ? おまえもフィルに会ったのか?」

「会いましたよ。私が行かなければ青島君は死んでいた。戦闘に向かない属性の若い天使が戦おうとして無茶をやるのは、あなたの悪い影響です。困ったものです」

「属性なんてもんは工夫次第で克服できんだよ。フィルが出て来たなら協力しろ。私もおまえの任務に手を貸してやる」

 綾香はミラフと二木先生を交互に見つめながら、ふたりのやりとりを聞いていた。理解できないところがたくさんある。けれど、はっきりわかったこともある。

 二木先生は。

 青島君は。

「天使だったんですか、二木先生……」

 綾香は二木一郎を見た。穏やかな琥珀色の瞳。優しげで柔らかな表情。ミラフなんかよりよっぽど天使らしい。やはりミラフみたいに、輝く白い翼があるんだろうか。

「そう呼んで頂けると助かりますが、私の本当の名はニケ。力々天ニケと申します」

 二木一郎こと力々天ニケはそう言って立ち上がり、右手を胸にあてて優美な物腰で礼をとった。

 綾香は返す言葉もなく、茫然と担任教師を見つめた。消毒薬のにおいがする殺風景な保健室が、一瞬にして典雅な宮殿の大広間になったような気がした。

「こう見えても怪力だぜ」

 ミラフが言った。

「戦闘における腕力の行使は極力控えさせて頂きます。戦いは嫌いです」

「ざけんな! すぐそこにフィルがいんだよ!」

「彼はそれほど危険な悪魔ではないでしょう? 私が行ったら、なにもせずに去りましたよ。悪魔の格付けではダンよりずっと下のはず……」

「格付け? 誰がつけた格付け? 整理整頓が大好きな天界が、対象と戦いもせずにつけた予想魔界番付? 笑わせる! 実際に一戦交えた私が言う。やつはやばい」

「……あなたは戦い向きではないので」

「あっ、バカにしたな。どーせ戦闘属性持ってねーよ!」

「自覚して頂きたいだけです。あなたは純粋な霊属性なんですよ。時空に天界という場を開いた尊い存在と同種の……」

「……の割りにゃー、雑な扱いされっぱなしだけどな!」

「あなたが、天界の規則からはみ出すからです。私はあなたを案じています。今のまま自由奔放にふるまったら、天界に混乱をもたらす存在として、上層に危険視されますよ」

「危険視されたらどーなるって?」

 挑発的にミラフは言った。

「最悪の場合、消されます」

 至極真面目にニケは答えた。

「喧嘩上等だ」

 ミラフは不敵に笑った。


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