第四章 ②
魔界に留まるのかと思ったけれど、睦朗も人界へ戻った。新潟の赤ノ倉家へ行くと言っていた。伝説を詳しく調べるために。
綾香が「一緒に赤ノ倉本家へ行く」と言ったら、断られた。「親父の来そうなところに君がいたら危険じゃないか。君こそ魔界に留まったほうがいいんじゃないか? 君だって、お袋や紀香さんと同じ赤ノ倉家の女だよ」と。
(それはそうなんだけどさ)
状況を知ってしまったのなら、いっそのこと魔界に留まったらどうかと、紀香も勧めた。
けれど、ミラフが守ってくれるからいいと断り、綾香は人界に戻ってきた。
(だってあのまま魔界にいたら……きっと悪魔になっちゃう)
それは嫌だと思った。
でも。
そのほうがいいのかもしれないとも思い始めていた。
(母さん、最初に電話で言ってたっけ……)
暴力は避けて。逃げて。とにかく逃げて、隠れて。戦っちゃ駄目……。
人界で戦ったらいけない。もしここで、東京の街中で、「あれ」になったら。
真っ赤な視界。レッドアウト。
――悪魔の時間。
誰もいない自宅マンションに帰りつく。
洗面所で手を洗うとき、脱衣籠の中のパーカーが目に止まった。マジェンタが落としてくれたけれど、落ちきらなかった魔物の血が、うっすらと不気味な模様を描いている。これはもう着る気になれない。
気に入ってたのにな。どこで買ったんだっけ……。
ああ、思い出した。原宿だ。美里と一緒に……。
(美里)
あれっきり。距離を置かれたっきり。
卒業式でもそっけなくて。春休みにも会わなくて。
(もう戻れないのかな。親友に)
人界には家族も友達もいない。
必要としてくれる人もいない。
綾香は洗面所の壁に背中をつけて、そのままずるずる沈むように座り込んだ。
今まで泣かないようにしてきた。
母さんがいなくなって、ひとりになってからも、できるだけ泣かないようにしてきた。
でも。
もう、いいんじゃないかな……。
「うぇ……う……。うっ……く」
薄暗い洗面所に、自分の嗚咽だけが響く。
のっぺりした白い壁に囲まれた、箱の中みたいな狭い洗面所は、ひとりで泣くのにちょうどいい。
おもいきり泣こう。
魔界に行ったら、きっと泣けないから――。
どのくらい座り込んでいたのか時間の感覚がわからなくなったころ、放りだしたままの鞄からスマホのメール着信音が鳴った。
放っておこうとしたけれど、睦朗からかもしれないと思い直し、鞄に手を伸ばす。新しくわかったことがあったのかもしれない。
メールは、睦朗からではなかった。
(美里……!)
心臓がどきどきした。
あわてて文面を開く。
『お誕生日おめでとう! もし私のことを許してくれるなら、プレゼント渡したいな』
綾香は乾いた涙が貼りついたままの顔で、しばらく文面を見つめていた。
さっきとは違う意味の涙が、瞳の表面に盛りあがる。
そして、返信ではなく、震える手で美里の電話番号を表示した。迷わず通話ボタン。呼び出し音。
〈はい〉
……大好きな友達の、なつかしい声。
「美里ぉぉぉ……」
綾香は第一声から、泣き声になってしまった。




