第四章 ①
綾香と睦朗はミラフとともに、魔界から人界へ戻った。
紀香からあずかった仕事の指示書やデータを届けるために、綾香はデザイン事務所「KIKA」へ行った。
目前に迫ったしめきりのため、キリコさんとカナちゃんは一分一秒も惜しい状態らしく、綾香が持って行った書類を「ありがとう!」と笑顔で受け取りはしたものの、あとは綾香に構う暇などまるでなさそうだった。
そうじでもしようかと思っていた綾香は張りつめた空気に気遅れして、差し入れのドーナツだけ置いて帰ることにした。「ドーナツ置いとくよ」と一声かけることすらためらわれる、殺気立った雰囲気だった。
魔界で雑魔に襲われることにくらべたら、平和な光景なのだろう。
でも、ここにも「戦い」があると綾香は感じた。
この戦いでは、綾香はなんの戦力にもならない。いても邪魔なだけ。
綾香はデザイン事務所を出た。
私鉄のいつもの駅まで、歩き慣れた道を歩く。
魔界では、ミラフの案内がなければ扉の場所に帰りつくことができなかった。「何度か通えば覚える」とミラフは言った。
自分の居場所はどっちなんだろうと、綾香は思った。
当然のように人界に戻ってきてしまったけれど……。
母さんは、父さんがグラシャラボラスの息の根を止めるまで、魔界の城から出してもらえないらしい。
綾香の父親が、睦朗の父親を殺すまで。
(……睦朗)
魔界へ行った日の睦朗のことを思うと、胸に重苦しさが広がる。
「ダン・グラボスを殺してください」
あの日彼はヴァラックスにそう言った。綾香の父親に、自分の父親を殺せと。
「そんなの駄目だよ! お父さんでしょ……? 殺せだなんて!」と綾香が抗議したら、睦朗は「僕とグラボスの関係を、君と伯爵の関係と同じだと考えてものを言うのはやめてくれ。父と子だってそれぞれだ」と、冷たく答えた。
あんまりな言いようなので、「同じじゃないならどう違うってのよ」と問いつめた自分は、無神経だったと後悔している。
「具体例をあげろってのか? なら言おうか? 小学生のころ、つきあってもいい友人は親父に決められてた。学業優秀なやつか、親に社会的地位があるやつ。それ以外の友達と遊んだのがバレたら即、倉の中で折檻だ。中学に入学してからは、友達づきあいそのものが禁止だ。学校から帰ってきたら家庭教師が待ち構えてる。土日は進学塾だ。挙句の果てはアメリカの天才育成機関に放り込まれた。まったくついていけなくて半年で逃げ出したさ! 僕の素質なんて大したもんじゃない。いいかげん親父も気付いてあきらめてくれるだろうと思ってたら、受ける高校まで全部決められた。ふざけるなと思って、折檻覚悟で全部白紙答案提出だ。折檻はなかった。声もかけられなかった。僕は見切りをつけられた。やっとだ。万々歳だ。僕は自由だ! そう思ってたら……見てみろよ!」
睦朗はコットンセーターを中に着たTシャツごと乱暴に脱ぎすて、後ろを向いた。
色白のか細い上半身。清らかな雪原のような背中。
「よく見てろ」
なめらかな背中……睦朗が力を入れた……背骨を挟んで線対称に二か所……隆起する瘤。
瘤?
動いている……。
大人の拳ほどの大きさのふたつの瘤は、薄く引き伸ばされた皮膚の内部に、なにか蠢くものを封じ込めている。
瘤はさらに大きくなる。皮膚はさらに薄く、内部を透かすほどに伸びる。
黒いものが皮膚を突き破りたそうな動きを見せる。
黒いもの……。羽根?
「ここまでしか出ない」
睦朗は言った。
「羽根……翼?」
「だと思うね。翼を発現すると成長が遅くなる、か。人界で過ごすのがもう限界なら、僕は魔界のやり方を身につけなくちゃいけないんだろう? ……敵は殺せっていう」
「敵なの……? お父さんだよ……」
「今まで僕を抑圧し続けた。終わったと思ったら、紀香さんを害そうとしてる。もう一度赤目をつくろうとしてるんじゃないか? 僕は父にとって失敗作みたいだから」
「失敗作だなんて……!」
「失敗作で結構だ。僕はあいつのものじゃない。僕がやるべきことは僕が決める。紀香さんは襲わせない。綾香も襲わせない。伯爵が父を追うなら、僕も追う。あいつは殺す」
「睦朗……」
「ダン・グラボスは敵だ」




