第三章 ⑥
綾香は紀香と共に応接間から紀香の私室へ移動した。絵画の代わりにフランス映画のポスターが飾ってある。
部屋にある長椅子に、気を失っている睦朗を寝かせた。
紀香は「目を覚ましたら困るなあ。睦朗君に聞かせられる話じゃないんだけど……」と不安そうだが、別室に寝かせたら悪魔親父がなにをするかわからなくて心配だった。
「なにから話したらいいのかな……」
ラタンチェアに腰かけて、紀香はつぶやいた。
「母さんは、睦朗のこと知ってたの?」
「知ってたけど、ちゃんと会ったのははじめて。綾香が生まれたとき、あなたをお母さんに見せたくて、一度新潟に帰ったことがあるの。エドと一緒に。……でもすぐに戻ってきちゃった。赤ちゃんを見せに行ったら、母も赤ちゃん抱いてるんだもの。びっくりしたし……父親の名前をきいて、腹も立ったし」
「ダン・グラボス?」
綾香の問いに、紀香はうなずいた。
「母さん、睦朗のお父さんとなにかあったの?」
「……拉致監禁されかけたのよ。高校卒業してすぐのころと、つい最近」
「え……」
「最初のときはミラフが助けてくれて、この前はエドが助けてくれた。『子供を孕ませる』ってはっきりした目的があってのことよ。こんなこと、睦朗君には言えないよ……」
「子供……。ミラフは、赤ノ倉とグラシャラボラスの間には特別な子供が生まれるって言ってたけど……。『赤目』って、なんなの? グラシャラボラスは、なんのために『赤目』とやらを作りたいの?」
「『赤目』っていうのは、何百年も前に天界に大打撃を与えた伝説の悪魔だって。天界最上層の大天使を何人もやっつけたんだって。天界を襲ったあと人界へ降りて、人間の女との間に子供をつくったんだって。子供は……双子。男の子と女の子の」
赤ノ倉家の伝説――赤ノ倉家の創始者が残した、男女の双子……。赤ノ倉家は、双子のひとりの女児が継ぐ。鬼子と呼ばれた残虐な男児はどこへ行ったのか?
「赤目が人界で栄えさせた家は、女の子のほうが婿をとって継いだらしいわ。赤ノ倉家の祖先よ。男の子のほうは、悪魔的資質が強すぎて、人里にはいさせられなかったみたい。残虐すぎて」
赤ノ倉家の伝説――倉を血で染めたのは、鬼子と呼ばれた残虐な息子。赤ノ倉家の創始者が残した、男女の双子のひとり。
「男の子の残虐行為が、『赤ノ倉』の名前の由来よ。倉の中で村人を何人も面白半分に殺して……。倉の内側から白い外壁に、血が染み出すほどだったって言われてる」
赤ノ倉家の伝説――赤ノ倉の名前の由来。赤とは、血。「赤ノ倉」は血に染まった倉を示す。
「双子以来、赤ノ倉家じゃ男の子が誕生しないの。家系図をたどると、四百五十年近くもずっと、男児が生まれてないの。ありえないでしょう? 男児は生まれても間引かれてたんじゃないかと思ってたんだけど……」
赤ノ倉家の伝説――赤ノ倉家には、過去四百五十年間、男児が誕生していなかった。
「でもミラフの話が事実なら……本当に赤ノ倉家には、四百五十年間、男の子が生まれてなかったらしいの。――――睦朗君が生まれるまで」
赤ノ倉家の伝説――赤ノ倉家に男児が生まれたら、それは鬼。
綾香は眠っている睦朗の、人形のような白い顔を見た。大天使を何人も殺し、天界に大打撃を与えた悪魔? この女の子にしか見えない華奢な少年が、その同類?
「ミラフは、『赤ノ倉』と『グラシャラボラス』が揃うと『特別』になるって言ってたけど……。睦朗は、残虐な悪魔とはちがうんじゃないかなあ」
「そうね。そうだと願う。……きれいな子ねえ」
紀香も長椅子に近寄り、睦朗の顔を覗き込む。
「睦朗のお母さんは……わたしのおばあちゃんは……グラシャラボラスに、むりやり産まされたわけじゃないんでしょう? 睦朗を」
「うん……。だから余計、やるせない。バカだよね。腹立つよね。自分の娘、監禁しようとした男のこと、なんで赦せるの? わかんないよ。自分の娘より、得体の知れない男のほうを信じるなんて。ほんと……腹が立つったら」
「……だから母さん、家出したの?」
「……うん。なんとか別れてもらおうと思ってがんばったんだけど、無理だった。ミラフは、グラボスがお母さんとくっついてれば、わたしのほうにはこないからいいじゃんなんて言ってたけどさ。……あいつ、また来ちゃった。お母さんが歳で子供産めなくなったからって、あっさり」
「なんでそんなにしてまで赤目作りたいのよ? グラシャラボラスは」
「自分の群れを強くするためじゃない? 侯爵なんて言われてるくらいだから、魔界じゃ大きな集団の頭領みたい。デズモンドが言うには、ちかごろなにか企んでるらしいわ」
エドは伯爵って言われてても、配下は執事とメイドのふたりしかいないけどね、と紀香は付け足した。
「四百五十年ぶりの男の子だからって、睦朗が赤目とはかぎらないんじゃない?」
「うん……。でも、グラボスが試してみたくなった気持ちはわからなくもない。赤ノ倉に四百五十年間男の子が生まれてないなら、グラシャラボラスの血統には四百五十年間女の子が生まれてないんだって。人界も魔界も、偏った血統は天界がチェックしてるらしいよ。赤ノ倉家は代々天使に見張られてるんだって。わたしの見張りが、あのミラフだったの」
「ミラフが母さんの見張り?」
「高校の同級生だったの。セーラー服着てたんだから、あの子。女子高だったからね」
「セーラー服ぅ? ミラフって女?」
「男でも女でもないみたい。無性よ」
「天使ってそういうもんなの?」
「ううん、ミラフは特別。霊々天っていう、最も天使らしいって言われる貴重種なんだって。天使らしいなんて聞いてあきれるけどねぇ。高校一年から、ずっと友達よ」
「へええ~。今も母さんの見張り?」
「ううん。今じゃミラフ、ああ見えても天界じゃ結構、位が高いのよ。わたしの見張りは別の天使に代わったみたい。会ったことないんだけど。本来、天使は人間の前に出てきたりしないんだって。そういう面でもミラフは変わり者みたいね。大天使にしょっちゅう怒られてるらしいよ。天界の決まりじゃ魔界に許可なしにきちゃいけないんだけど、完全無視してこの城に入り浸ってるし。どうやら要注意人物みたいねえ」
「天使がここになにしに来てんの。遊びに?」
「まあそうなんじゃない? エドとは長いつきあいらしいから。わたしがエドに出会ったのもミラフがいたからだもん。見張ってる人間を悪魔とくっつけちゃって、やっぱり天界上層部にこってり絞られたらしいわ。バカねー」
「わたし、ミラフに会ったことあるよ。魔界で」
「三歳のときね?」
「うん……。雑魔と戦った。一緒に」
「あなたは小さいころから戦闘に適性があったから……」
紀香はちょっとさみしげに微笑んだ。
「小さいころから?」
「そう。いつか綾香が魔界を選ぶ日が来るんじゃないかって、覚悟はしてあるよ……。綾香が三歳のときここに滞在したのは、綾香を人界と魔界のどっちで育てたらいいか悩んだからなの。綾香は剣を振り回すのが大好きだったから、この子は魔界向きだなって思ってたら、デズモンドが『人界がよろしいと思います』って言うのよ。彼を信じて連れ帰っちゃった。正解だったと思う」
「そうかな……」
「将来魔界で暮らすことがあったって、あなたは人間よ」
娘の目をまっすぐ見つめて、紀香はきっぱりと言い切った。
綾香は赤く染まった視界を思い出した。痛みをきっかけに視界が真っ赤になってから、自分がやった残虐な行為を。自分が感じた感覚の流れを。
レッドアウト――遮断――転換――次いで解除。
――――本能の解放。
綾香は震えるように小刻みに、首を振った。
(わたし……人間じゃない……)
たまらなくなって睦朗の顔にもう一度視線をやったら、彼はぱっちり目を見開いた。
「睦朗。気付いたの」
「気付くもなにも、最初から気絶なんかしてない。全部『ふり』だ」
横になったまま眼球だけ動かして、睦朗は紀香のほうを見た。
「聞きました。全部。最初から最後まで」




