第三章 ⑤
古城はオール電化でシャワーも完備。それはありがたいけど、どうしてこんな服しかないの?
綾香が着替えを済ませて応接間に行くと、紀香の姿はなく、睦朗が石壁にかかった絵を見ていた。一枚は、赤い衣をなびかせた女神と空を舞う天使たちの絵。もう一枚は、黒い直線でできた格子と赤・青・黄色の抽象画。
しかし絵よりもっと目を引くのは、ミラフが座っている真っ赤な唇型の大きなソファーだった。
(家は住人を表すっていうけど……。なるほど。ワケわかんなさがいかにも父さんだ)
綾香の気配に睦朗が気付き、服を見てのけぞった。
「……なんだその服」
「ドレスしかないんだって。父さんの趣味だって」
綾香が着ているのは体にぴったり沿う細身のイヴニング・ドレスだ。明るい水色は若々しいけれど、デコルテが広く開きすぎててどうなの……?という点は睦朗も同じことを思ったのか、一瞬綾香の胸元に目をやって、すぐそらした。
「母さんは?」
「紀香さんは伯爵を呼びに行ったよ」
「みんな伯爵って呼んで、いまいましいったら」
ミラフに並んで綾香も唇ソファーに腰を下ろすと、銀のトレイを持ったメイドが入ってきた。紺のワンピースにフリルのある白いエプロン。由緒正しいメイドさんスタイルだ。なのに仮面のような無表情で、爆発したようなもじゃもじゃのロングヘアが違和感半端ない。メイドが無言で置いた備前焼の湯呑みからは、赤ノ倉家定番の緑茶の香りが立ち上っていた。
(もうなにが出てきてもおどろくまい……)
メイド帽子の横から、猫耳が出ていても。エプロンの紐のちょうちょ結びの下から、長いしっぽが出ていても。
「こらマジェンタ。お茶を黙って出すのはいかん」
「うぎゃっっ!」
背後から聞こえた声に、綾香は不覚にもおどろいてしまった。なにが出てきてもおどろくまいと思った矢先なのに。
いつの間に入って来たのか、全く気付かなかった。唇ソファーの背もたれに後ろから手を置いて、にやっと笑う人物に。
「お客様にお茶をお出しするとき、言うべき日本語は教えただろーう?」
マジェンタと呼ばれた無愛想なメイドは、主人にそう言われて湯呑みに向き直った。そして彼女はおそろしく陰気な口調で、「おいしくなあれ、萌え萌えきゅん」と、凍りついた表情のまま言ったのだった……。
ご丁寧に、両手でハートをかたちづくる振りつきで。
言うほうも凍っているが言われたこっちも凍った。お茶も凍ったかもしれない……。
「よし。合格だマジェンタ」
「どこが!」
あらゆる面で不合格だ。
「むっ。そう言われるとお茶請けが出ていないではないかマジェンタ。ヨーカンだしなさいヨーカン。とらやのがあるから」
「なんでとらやの羊羹! ここ魔界でしょ!」
「綾香は洋菓子派だからなあ。む? なに? つぶつぶいちごポッキーがある? じゃ、うちのわがまま娘のためにそれも出してもらおうかねマジェンタ」
「わがまま娘って……!」
「おまえだ綾香」
「わがまま親父に言われたかないね!」
「私っ? 私のどこがわがままなのかねっ? 日夜家庭の平和のために心を砕いて」
「十五の娘ほっぽらかしてなにが家庭の平和だっ! どうしてなんにも言ってくれなかったの! どうしてなんにも言わないで母さんまで連れてっちゃうの! わたしがどんな気持ちで卒業式も入学式もひとりで出たと思ってんの? お金渡しにKIKAに行くなら、連絡くれたってよかったじゃない! 会いにきてくれたってよかったじゃない!」
「それどころじゃなかったのだ」
「そ・れ・ど・こ・ろ・じゃ・ないい~~~っ……?」
「む。今現在も親子げんかどころじゃないのであった! 睦朗君!」
「は、はい」
「捕縛!」
「は?」
「捕縛するぞう!」
「はあ? ……ちょ、ちょっと!」
ヴァラックスは右手を軸にひょいと唇ソファーを飛び越え睦朗の背後につき、睦朗の首に片腕を回して締め上げた。睦朗がぐっ……とくぐもった声を出す。
「ちょっとーっ! 睦朗になにすんの! バカ親父!」
綾香が駆け寄って、睦朗からヴァラックスを引き剥がす。
「スリーパーホールド。……ふ。落ちた」
くずおれる睦朗。
「技の名前なんかきいてない! なんでこんなことすんの! きゃー睦朗っっ!」
「マジェンタ、縄持って来なさい縄。とらやのヨーカンとつぶつぶいちごポッキーも」
「いらない! 睦朗! むつろーっ! 目を開けて。死んじゃいや!」
「殺しとらんがな」
「なんでこんなことすんのよ暴力親父!」
「捕縛するためー」
「捕縛ってなに!」
「とらえてしばること」
「言葉の意味なんかきいてない! ミラフ、この悪魔親父なんとかしてっ!」
ミラフは唇ソファーに落ち着いたまま、緑茶をすすっている。
「睦朗捕えてどうすんだ、ヴァラックス」
「人質にしてグラシャラボラスをおびき出す。あのバカを」
綾香は目を見張った。
グラシャラボラス? 睦朗のお父さんを?
「人がいいにもほどがある。あんた何年悪魔やってんだ?」
「人がいい? なに言ってんのミラフ! いきなり睦朗をこんな目に合わせて、凶悪にもほどがあるでしょ! この悪魔っっ」
「悪魔歴二百五十年」
「あんたの歳なんかきいてない。ヴァラックス、息子を人質にしたところで、グラシャラボラスがのこのこ出て来るわけないだろ?」
「私だったらのこのこ出て行くぞ! 娘のためなら!」
「だから人がいいっつってんだ……なあ? 紀香」
ミラフは応接間の入り口に顔を向けた。あきれ顔の紀香がいた。
「エドは悪魔的発想が苦手な悪魔なのよ」
「よく魔界で生き残ってこられたもんだ……。いいか、伯爵。グラシャラボラスは、あんたが睦朗をエサに自分をおびき寄せようとしてるって知ったら、睦朗を見捨てる。いくらせっかく作った『赤目』でも、自分の命には代えらんねぇからな。あんたと違って、侯爵は悪魔らしい悪魔だぜ? 我が子に愛情なんかないさ。睦朗が死んだって、赤目を作るチャンスはまだあるんだ。美千代は年齢的に無理でも、紀香と綾香は妊娠可能な年齢だ」
「私の妻で子供をつくらせるか! 娘でもだ! あいつは殺す!」
「エド。睦朗君がいるところで殺すとか言わないで。……彼のお父さんなのよ」
紀香は夫の腕に抱えられた睦朗に歩み寄ると、意識のない弟の顔を覗き込んだ。
「殺す殺す殺す殺す殺す」
「エドっ!」
「睦朗君は寝てるじゃーないかね。殺すっつったら殺す。やつが生きてる限り、我が家に平和は戻らないではないか」
「どういうことよ、父さん……」
父親の代わりに、天使が答えた。
「侯爵は『赤ノ倉』と『グラシャラボラス』の札をもう一回揃えたいのさ。睦朗みてぇな『特別』をまた生み出すために。赤ノ倉の女とグラシャラボラスの男との間に生まれる男児は、『赤目』って呼ばれる最強の悪魔だってよ」




