第三章 ④
「とぶぜ」とミラフが言うので、翼で空を飛ぶのかと思ったが違った。
綾香と睦朗はミラフに腕をつかまれた。体にいきなり重力がかかったかと思うと足場が消え、一瞬のちに背中を強く押されたようにつんのめって、地面に投げ出された。無様に一回転してやっと止まる。
「……痛いよ! なんなのまたー」
「瞬間移動的解釈でよろしく」
「瞬間移動?」
「異次元とか瞬間移動とか、人界にゃ説明がラクになる用語がどんどん出てきて助かるぜ。どこまで行くんだろーな? 人類の想像力と科学の進歩ってやつぁ」
「いてて……。瞬間移動なんて技術は実現してないぞ」
「そのうち実現すんじゃね? どこでもドア~」
後半ドラえもん口調でミラフは言うと、目の前の高々とした石壁を見上げた。
城壁だ。
城壁の向こうは、尖った塔のある中世風の小さな城だった。アーチを描く高窓が並び、内部の明かりが洩れている。
「父さんの城……」
綾香はごくりと唾を飲み込んだ。おぼろげに記憶があるけれど、夢だとばかり思っていた城が、現実のものとして目の前にある。
父・エドワードは綾香の前で、無責任なスチャラカ親父だったことしかない。綾香の知らない、「悪魔」としての父親との対面……。
(どんな顔して会えっていうの……)
「母さんも、ここにいるの?」
綾香はミラフに尋ねた。
「いるぜ」
「わたし、血まみれだ……。顔も手も服も」
「魔界じゃ血まみれなんて、めずらしくもなんともねーぞ?」
「母さんがこわがる……」
魔界じゃめずらしくもなんともなくとも。母は綾香が膝小僧をすりむけば、シャワーで流してきれいにして、白いガーゼや絆創膏で覆ってくれた。鼻血を出せば冷たいタオルを当ててくれた。綾香は小さい頃から活発で、怪我して血が出るのはめずらしくなかったけれど、それは綾香自身が流す血で、軽い手当で治る小さな怪我だった。
今の綾香の全身を汚しているのは、綾香が自分意外の生き物に流させた血だ。
いまさらながら震えがきた。
レッドアウトのときの自分はなんだったのだ? 軽い怪我を負わされただけで、頭に血がのぼった。傷の痛みで正気を失った。
自分の不注意で怪我をしたときに、そんな事態になったことはない。
殺意には、殺意で返す――。
(わたし……悪魔)
睦朗がポケットを探り、ハンカチを取り出すと綾香に差し出した。
「……綾香にだけ、手を汚させて悪かった」
「睦朗……」
「仕方ねーだろうよ。いい連携だったぜ? 血縁が近いと阿吽の呼吸でうまくやれることが多い。戦勝至上主義な魔界だからこそ、生き残るために高等生物は群をつくる。そのほうが戦いに勝ちやすくて、自己保存しやすいからな。悪魔も血縁関係は重視する傾向にある。……愛情じゃねーけど。力の連携のためだけど。魔界で生き延びるにゃ、役割分担の自覚は最重要。綾香は戦闘向きにできてるんだから、血を浴びることは誇りだと思え」
「殺しを誇りに思えっての?」
「人界の倫理は魔界に来たら、心の引き出しにとじこめとけ。それが礼儀だ」
「争うのが礼儀なの? そんなのおかしいよ!」
「持てる力を発揮することをやめるのは、魔界の生物にとっちゃ死より苦しい。人界の基準で魔界社会を判断するなよ。魔界はなかなか紳士的だぜ? 自分が力をふるいたいなら、相手が力をふるうのも許す。自分が殺したい相手なら、相手が自分を殺すのも許す。殺るか殺られるかの緊張関係で、全体のバランスが上手く保たれてる」
「わたしそんなのいや!」
「死にたいなら、人界倫理を守っとけ。『命を大切にしましょう』。人界倫理のために人界で死ぬのは尊いかもしんねーけど、人界倫理のために魔界で死ぬのはただのバカだぜ?」
「睦朗……」
綾香は助けを求めるように睦朗を見た。
「ミラフに一票だ。でも」
睦朗は天使に覚めた視線を送った。天使の白い翼は、いつのまにか消えていた。
「おまえみたいに割り切るやつは、嫌いだ」
「嫌いで結構。私の役目はおまえを守ることじゃねぇからな。おまえは勝手に死ね。めんどくせーから。綾香は死なせない」
「そもそも、なんで天使が悪魔の娘のボディーガードなんかやってるんだ?」
「紀香とヴァラックスに頼まれたからだよ。……話は中でゆっくりしよーぜ」
ミラフは城壁の一画につかつかと歩み寄った。薄暗くてよくわからないが、黒くて四角い機械のようなものが壁に付いていた。小さな赤いランプが光っている。
綾香は古着屋で見た扉のリモコンを思い出した。「光の扉」「異次元」「瞬間移動」――SF的展開を想像。
ぴんぽーん。
肩透かしをくらわせる、聞き慣れた機械音がした。
「はーい」と言ったわけではないけれど、そんなニュアンスの応答が四角い機械から聞こえる。気のせいか、機械についている横文字が「パナソニック」と読める……。
「インターホン?」
ミラフが聞き慣れない異国の言葉でインターホン越しになにやら言うと、突然地鳴りがして、城壁の一部がごごごごおーっと上に持ち上がり、入り口となった。
石屑がぱらぱらと降る。ものものしい……。
「……意外なような、ある意味想像通りなような」
「映画かよ……」
中に進むと殺風景な前庭があり、城の入り口にはクラシックともモダンともつかないデザインの、金属製の大扉があった。幾何学的な意匠はどこかで見たことがあるけれど、中世風の城には「ちょっと違う」。
「アール・デコ様式だな」
睦朗が言った。そして城を見上げ、「建築様式が滅茶苦茶」とも言った。
「悪魔は人界の様式が好きなんだけどな、血で血を洗う歴史のせいか、美的洗練の余裕がなかったんだ。魔界の様式は、人界の様式の適当なつぎはぎさ」
ふいに、アール・デコの両開きの扉が開いた。
中の明かりをバックに、ちっちゃい小太りのシルエットが浮かび上がる。
「お嬢様、お久しぶりでございます。すっかり大きくなられて。奥様によく似てらっしゃる……。ようこそおいで下さいました、ミラフ様、睦朗様」
なんとなくペンギンを思わせるぽてっとした老人が、柔和な微笑を浮かべていた。
こういう西洋風のお城やお屋敷で、こういうクラシックなスーツで出迎えられたら、「執事」だろうと綾香は思った。お久しぶりと言われても覚えはなかったけれど……。
「伯爵夫妻にお目通り願うよ、デズモンド」
「かしこまりました。お嬢様もご一緒で、奥様はさぞかし驚かれますでしょう」
「母さんに会える?」
「お会いになれますとも。お嬢様のことを毎日心配しておられました」
デズモンドと呼ばれた老人は、ふんにゃりしたえびす顔になった。
(この人も悪魔なの? めちゃくちゃいい人そうなんだけど。日本語しゃべってるし……)
それにしても。
綾香はデズモンドに城の奥へ案内されながら、あたりをきょろきょろ見回した。
アーチを描く天井がやたらめったら高く、廊下にならぶ窓もやたらめったら細長くて高い。アーチと結びついて等間隔に並ぶ柱は一本一本装飾が施されていて、やっぱりやたらめったら高い。どうやって蛍光灯の交換をするんだ……。
(あ、ここの住人は翼があるのか……。って、普通こういうお城は蝋燭じゃないのかなあ? なんか空調もきいてるし。あったかい)
「電気どこから来てるんですか?」
「自家発電です。裏庭に発電装置がございます。人界のものは便利ですな」
デズモンドが微笑みながら答える。
「人界とは物理法則が違うのに、よくやるよなあんたも……」
心底感心した口調でミラフは言った。
石造りの城内は調度品もなくガランとしていて、立派なのだけれどあまり豊かな雰囲気は感じない。さみしいな……と思っていたら、灰色一色だった長い廊下に、点々と色彩が見えてきた。絵が飾ってあるようだ。通り過ぎながら眺めると、宗教画のような古めかしい絵もあれば、肖像画、静物画、風景画、抽象画もある。
「浮世絵? 写真? アメコミ?」
「ファン・エイク。アングル。シャルダン。ホイッスラー。広重。メイプルソープ。リキテンシュタイン。複製だけどな。節操のない趣味だぜ」
「そうでもないのよミラフ。エドの趣味はエドなりに筋が通ってんのよ」
長い廊下の最奥。広間のように開けた空間の入り口に、すとんとしたフルレングスの黒いドレスの人がいた。流れるようなラインのモダンなドレスは、肩が大きく開いた襟の部分だけショッキング・ピンク。
「母さん!」
「綾香! 会いたかっ……ど、どうしたの!? 怪我したの!?」
紀香はドレスの裾をたくし上げて、綾香に駆け寄った。
「あ……」
血でまだらに染まったパーカー。
紀香は綾香の頬の傷に気付き、心配そうな顔で検分するように娘の首や手の甲に触れた。
母のやさしい手の感触に、綾香は泣きたくなった。
(……ちがうの、わたしの血じゃないの。わたしが殺した生き物の血……)
「大丈夫なの?」
綾香の顔を覗き込むように紀香が訊いた。
綾香は目を伏せてうなずくしかできなかった。
娘の反応に、紀香は一瞬表情を曇らせたが、自分を納得させるように小さくうなずき、視線を睦朗に向けた。
紀香と睦朗の目が合った。
「……はじめまして」
睦朗の目が少しばかり泳ぐ。
紀香は着ているドレスがそうさせたのか、まるで西洋人のように、はじめて会う弟をやわらかくハグした。




