第二章 ⑧
かなり上空から落ちたはずなのに、不思議なことに地面まではすぐだった。まるで落下中にワープでもしたかのようだ。
綾香はなんとか受け身を取って、地面に打ち付けられる衝撃を最小限に抑えこんだ。
しかし次の瞬間、別の衝撃が上から降ってきた。
「ぎゃう! いでででで!」
「うー……」
「大丈夫? 睦朗」
「こっちのセリフだ。君の上に落ちたぞ」
「それは大丈夫なんだけど」
綾香は立ち上がった。
薄暗い。おまけに寒い。
気温の変化に睦朗も気付いたのか、「今は四月で、昼間じゃなかったっけ?」と言って、空を見上げながら立ち上がった。
黄昏時の暗さの、赤紫の空だ。
しばらく空を観察したのち、睦朗は睨むように綾香を見た。
「説明しろ」
端的な命令口調だ。
「あっちに父さんの城があるはず」
「それは説明じゃない。この空間はなんだ? あのSF風の『扉』はなんだ? 僕らは古着屋にいたのに、なんでこんなところにいるんだ? 僕らをここへ蹴り入れたのは誰だ?」
「それぜんぶ、わたしにもわかんない」
「じゃあわかりそうなことを訊く。なんで君はあわてず騒がず、疑問も持たないんだ?」
「なんとなーくだけど、思い出したから。……小さいとき来たことあるの。ここ」
「来たことがある?」
「ずっと夢の記憶だと思ってたんだけどなー……。うーん」
綾香は周囲を見回した。枝がねじくれ絡み合った奇怪な木々。下草は、周囲が赤紫の薄闇であることを差し引いても、緑色じゃない。紫か、紫がかった茶色だ。空には雲が流れているが、風はない。太陽や月や星、「天体」と呼べるものも見えない。粘度のある液体のような印象の空。
雲の上に高さを感じられない、息苦しい空。
「通常状態だったら、僕もこれは夢だと思っただろうな」
「通常状態?」
「異常事態。僕自身が。二週間前から」
「異常事態?」
「あの店員の女、『翼がないなら着地に注意』って言ってたな?」
「うん」
「ここの住人は翼があるのか……」
「睦朗?」
「『鬼の国』だな」
赤ノ倉家の伝説――赤ノ倉家に男児が生まれたら、それは鬼。
「どういうことよ? 睦朗……」
「ここは寒いから、証拠はあとで見せる。――なんの声だ?」
綾香は耳をすませた。耳には、なんの音も届かなかった。
けれどわかる。なにかが蠢く気配。息遣い。鼓動。
それから――――敵意。
何者かの敵意。殺意。
――恐怖?
恐怖から来る敵意。排除の意志。
「1、2、3、……三体」
綾香はつぶやき、ポケットからアウトドアナイフを取り出して刃を立てた。
「おい……」
睦朗が蒼白な顔を向ける。
「大丈夫。いけるよ……!」
うなり声をようやく「耳」が感知した。と同時に、繁みから何かが飛び出す。
やるべきことはわかっていた。
殺意には殺意で返す。
それが「ここ」のルール。躊躇が呼び込むのは死しかない。
綾香はわかっていた。完璧に。物心ついたときから。もしくはつく前から。
教えられたのではない。
――本能。そう呼ばれるたぐいの、種に特有の反応形式。
「犬!?」
睦朗が叫ぶ。
「なわけないっしょ!」
犬の口は耳まで裂けてない犬の牙は口に収まらないほど大きく尖ってない犬の目玉は側面にふたつずつ計四個もついてない犬の爪がこんな鉤爪だったら速く走ることができないでもこいつは速く走る必要はないだって蝙蝠みたいな羽があるから!
一頭目は力任せに眉間に刃を突き立て、そこから抜いた勢いで二頭目の羽をななめに切り裂く。暴れる鉤爪が綾香の頬を抉った。化け物の酸の強い返り血が傷に染みる。
傷に染みる。
傷の痛み。
痛み。
わたしに傷をつけた……。
目の前が真っ赤に染まる。痛み。感じさせられてはいけない感覚。
痛みを感じるべきなのはわたしじゃない。痛みにのたうつのは敵。
――頭に血が上る。視界が赤い。
この感覚。
なんて言ったっけ……。
そうだ、「レッドアウト」だ。昔、天使が教えてくれた。
レッドアウト――遮断――転換――次いで解除。
――――本能の解放。
「いってぇぇぇなこのお――――――――っっ!」
なぜか入学式の日の青島君との会話が脳内をめぐる。
瓦割りの人だよね~?あ、見ててくれたの?うん。すごかったね!強そーな空手部員を次々負かして。怪力だなあ!ああいうのは力じゃないんだよ。ボールなんかでも、打てばよく飛ぶポイントってあるでしょ?物にも叩けば壊れるポイントってあるんだよ物にも壊れるポイントってあるんだよポイントってあるんだよあるんだよあるんだよあるんだよ
生き物にも引き裂けるポイントってあるんだよ
あるんだよ
襲い来る化け物に向けて刃物を真横に構え、裂けた口に押し込む。
その勢いで綾香は口の中に潜り込む。化け物の口は流れるように裂けて裂けて裂けて、頭蓋心肺臓腑を通り抜けて尻まで裂けた。真っ二つに。短い刃渡りの軟弱な武器で……。
二枚におろされた化け犬は、上下二つに分かれてもなおぴくぴくと痙攣していた。
あと一体……あと一体敵が残っているはずだが、綾香の本能は「終了」を告げていた。
敵の殺意が消えていたのだ。
残ったのは「敵」ではなく、森に逃げ帰るあわれな獣。そして血だらけのアウトドアナイフ。あんな無茶な使い方をしたのに、なぜか刃毀れひとつない。
前やったときは……確か、長剣だった……。
(短いほうがやりやすい)
刃物が自分の手とひとつながりになったような気がして。
綾香の肘からなまあたたかい化け物の血が滴り落ちていた。浴びた返り血が頭から流れ落ちて目と口に入った。なまぐさい血をぶっと吐き捨てる。自分の荒々しい動作に高揚する。
地面に目をやったら、裂けた化け物の臓物が視界に入った。臓物、黒いな……と思って、綾香は赤かった視界が元に戻っていることに気付いた。
顔を上げたら睦朗と目が合った。
……きれいな顔。
自分の顔は化け物の血でぬるついている。
突然、羞恥に近い感情が湧きおこった。
高揚した気分が急激に冷えてゆく。
「むつろ……わたし……」
レッドアウトのとき遮断したものが、急激に蘇ってきた。
殺戮に対する、道徳的なためらい。
家庭で学校で世間で、小さなころから叩き込まれてきた言葉。
『命を大切に』。
足が震え始めた。力の抜けた手からナイフがすべり落ちて、ちゃぷんと音がした。二つの死骸から流れる血が、足元に小川のように流れていた。
赤ノ倉家の伝説――赤ノ倉家に男児が生まれたら、それは鬼。
(ちがう……。鬼はわたしじゃないか)
「綾香」
冷酷なほど落ち着いた口調で、睦朗が言った。
「感傷はあとだ。ナイフを拾え。……また来やがったぜ」
綾香の本能が敵の数を数える。殺意の数を。
――――二十二体。