第二章 ⑤
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綾香を待つ間、睦朗は中庭のベンチに座り、本を読んでいた。全学年が授業選択説明会で、中庭には睦朗のほかに誰もいない。
そよ風が吹き、開いたページに桜の花びらがはらはら落ちる。それを払うために文章を追うのを中断した際、睦朗はついに堪え切れなくなって、顔を上げた。
さっきから視線を感じ続けていたのだ。
職員室の廊下の窓。
睦朗が顔を上げるのと同時に、窓から離れる人影があった。
(二木先生……)
人に見られるのは慣れている。こちらを見る視線の中には、執拗なものもある。こんな目立つ容姿に生まれてきたのだから、仕方がないとは思っている。
けれどそんな視線を注ぐのが、担任教師とあっては話が別だ。
睦朗は小さく舌打ちした。苛立ちをぶつけるように、音を立てて乱暴に本を閉じる。
彼の視線は入学式からずっと感じ続けていた。気味が悪かったので、二木一郎のことを少し調べさせてもらった。
(新規採用のくせに学年主任。教職は一年目……)
いくら郷田川が変わった高校だからといって、そんな人事は普通じゃない。コネかなにかあるのなら、もし彼が自分になにかしたとしても、適切な処分が下るかどうか。
アメリカでの悲しい経験を思い出す。
睦朗は無意識に、本を手にしていないほうの腕で、守るように自分を抱きしめていた。
「五百万?」
「わたしの中には父さん犯罪者説ってのがずっとあったわけよ……。確定しちゃったような気がしてこわいよー」
「五百万くらいなら、ある程度資産のある大人なら出てくる額じゃない? それを子供にポンと渡す非常識はおいておくとしても」
「五百万『くらい』っていう感覚、わたしにはわかんない……。このおぼっちゃんめ」
昼どきの学食。まだ午後の授業はないので、生徒はあまり入っていない。
綾香の前にはカツカレー。睦朗は先に食事を済ませ、自販機のコーヒーをすすっていた。
「それより、お父さんらしき人を見たってほうが気になるな。確認しないでデザイン事務所に行ったのはなんで?」
「……だってそのときエレベーターで降りてきたのが、スキンヘッドで鼻ピアスの白人のひとと2メートルくらいありそうなマッチョな黒人のひとだったんだもん。日本語教室が国際的犯罪組織の隠れ事務所だったりしたらどーすんの?」
「国際的犯罪組織ねえ……」
「でもやっぱり調べるべきだったとは思うの。今日このあと、また行ってみるつもりなんだ。もしかしたら父さん、一階のインド料理屋にカレー食べに入っただけかもしんないけどね」
綾香はそう言ってカレーを口に運んだ。
睦朗はしばらく無言で、はふはふ言いながら熱いカレーを食べる姪を見つめていた。
「僕も行こうか?」
綾香は驚いたように顔を上げた。なにか言いたげだったが、口いっぱいのカレーが発声を邪魔している。「んんへ?」という音声が「なんで?」と言ったものと理解できたが、睦朗はわからないふりをして、答えなかった。
君みたいに僕に普通に接してくれる友人は、ほかにいないから。
いたことはあったけど、失ってしまったから。
力になれることがあったら手伝いたいんだ。
心の中でだけ、睦朗は答えた。
綾香に伝えて、変に意識されてしまったら嫌だったから。