第二章 ②
睦朗の部屋を出てから、綾香はデザイン事務所KIKAに寄って帰ることにした。家の方向とは反対の、渋谷方面行きの電車に乗り込む。
今日はいろいろあったなあ……。
睦朗は『伝説』のことをざっと話してくれた。
決して『伝説』をそのまま信じているわけではないようで、要点だけだったけれど。
「赤ノ倉家に実際起こった、なにかの出来事を象徴してるんだと思うんだ。伝説ってそういうものだと思うから」と、彼は言っていた。
赤ノ倉家の伝説――赤ノ倉家には、過去四百五十年間、男児が誕生していなかった。
赤ノ倉家の伝説――赤ノ倉家に男児が生まれたら、それは鬼。
赤ノ倉家の伝説――赤ノ倉の名前の由来。赤とは、血。「赤ノ倉」は血に染まった倉を示す。
赤ノ倉家の伝説――倉を血で染めたのは、創始者の残虐な息子。赤ノ倉家の始祖が残した、男女の双子のひとり。
赤ノ倉家の伝説――赤ノ倉家は、双子のもうひとりの女児が継ぐ。村人から「鬼子」と呼ばれた残虐な男児はどこへ行ったのか?
「男の子のほうは、えらい僧侶が鬼の国に連れて行ったそうだ。でも、帰ってきちゃったけどな。四百五十年ぶりに」と言って、睦朗は親指を立てて自分を指した。
四百五十年ぶりに生まれた赤ノ倉家の男児――――睦朗。
(伝説なんてくだらないっていえば、すっごいくだらないんだけど。でも、はじめて自分の血筋に触れたってかんじ……)
友達には愛想をつかされ、両親は行方不明。
そんな孤独なときに出会った、はじめての「親戚」。
睦朗になにか協力できるなら、是非したい。
(「親戚」かあ……。なんかちょっと新鮮。えへへ)
いろいろあったものの、おかげで気持ちが浮上した。
つり革につかまりながら、明日もがんばるぞうと拳を握って窓の外を見る。電車はちょうど停車駅にすべりこんだところだった。
綾香はなにげなく混雑したホームを眺めた。そのときある人物が、ホームの階段を下りていくのが目に入った。
銀髪。
ひょろりと細長い長身。
ベージュのトレンチコート。
――父さん?
「すみません! すみません降ります!」
綾香は人をかき分けホームへ出ると、階段へ向かってダッシュした。
複数の路線が乗り入れる駅なだけに、夕方の時間帯は混雑していて、目標の人物を人混みから見つけ出すのに苦労した。やっとのことで見覚えのあるトレンチコートを再発見したときは、ずいぶん距離を置かれてしまっていた。
滅多に降りない駅なので土地勘がない。見失わないように足を早めたけれど、距離が縮まらないうちにその人物はフッと見えなくなってしまった。
どうやら建物の中に入ったらしかった。
トレンチコートが消えた場所へ駆けつけ、建物を見上げる。
いくつかのテナントが入った雑居ビルだった。
一階、インド料理店。
二階、若者向けの古着屋。
そして三階四階の窓には、「日本語教室」と大きく書かれていた。
綾香が「日本語教室」の窓を見上げて考え込んでいると、ポケットのスマホが震えた。KIKAのキリコさんからだった。
〈綾ちゃーん。やっと通じた! さっきから何度もかけてたのに〉
「ごめんごめん。電車だったから」
〈ともかく、すぐに事務所に来て。ついさっき伯爵が来たの!〉
「え! 父さんが?」
〈彼から預かってるものがあるの。ものというか……当面の綾ちゃんの生活費だって言って置いてったんだけど……〉
「お金?」
〈銀行振り込みにしてほしいよ、っていうか常識で考えてほしいよ、っていうか常識を培ってほしいよ、あの人には〉