序章
死に際に見上げる空に、星が見えなくてよかったと思った。
魔界では星が見えない。見えなくて本当によかった。星空なんて牢獄だ。だって星には絶対に手が届かないじゃないか。
横たわった自分を見下ろす森の木々。木が黒い切り絵に見えるのは、背景の空が夕暮れほどの暗さの、毒々しい赤紫だからだ。空は水に落としたインクを棒でかき混ぜているかのように、雲があらゆる方向に渦を巻いている。
奇妙にねじくれ絡まり合った木々に、羽音を立てて一羽、また一羽と、カラスに似た凶暴な雑魔が舞い降りる。下草の棘がちくちくと頬を刺す。痛いけれど、起き上がれない。地面に漂う濃厚な植物のにおい。
男が自分を見下ろしている。
敗因がなんだかわからない。奢りかな。たぶんそうなのだろう。
自分は誰からだって逃げられる。そう信じて好き放題やってきたからな。
私を捕まえられるやつがいるとは思わなかった。
世界って広いぜ。
でも世界ってどこからどこまでなんだろうな……。
私が死んだらあいつは泣くかな。
間違いなく泣くな。
私が死んで悲しいと思ってくれるのは、きっとあいつだけだろう。かろうじて、あいつの連れ合いもか?
ふたりを泣かせたくないから、指先に力を入れたら少し動いた。あ、神経生きてる。ラッキー……でもないか。羽音が続々近付いて、木にとまる個体数がだいぶ増えてきた。弱った獲物に敏感なやつらだ。
あーあ、「弱った獲物」だと? この私が。
ちくしょーそこのカラスもどき、見てねぇでさっさととどめ刺せよ!
せっかちな一羽が翼を広げた。あー、終わりだ…………。
あん?
ガキだ。
ガキが。背丈より長い長剣持って……。
(あいつの子供じゃねーか!)
指先しか動かなかったはずなのに、起き上がれた。死ぬのなんか怖くなかったはずなのに、歯の根がガチガチ鳴った。
自分は死んでもいい。でもこのガキは駄目だ!
だってあいつが絶対悲しむから! 自分が死ぬのなんかとはくらべものにならないくらい、悲しむから!
あいつの泣き顔が現実味を帯びて脳裏に浮かぶ。見たくない! あいつが自分の子供を亡くしたときの顔なんて、絶対見たくない!
「バカ……来んなよ。逃げろよ……」
驚いたことに声まで出た。我ながら不思議だ、この底力。
「だめぇ! 天使さま死んじゃう!」
「いんだよ……私は死んでも」
「だめぇ! きゃっ……!」
羽音。カラスに似た雑魔の黒い影が、ガキの前を横切る。
ガキの頬に一筋の傷。
茫然とするガキ。
だからいわんこっちゃない! さっさと逃げろ! ガキなんかに一体なにが出来……。
「あかい……」
ガキは頬の血を見たわけでもないのに、「あかい」とつぶやいた。
「逃げるぜ」
自分の底力をもっともっと信じてやる。気力をふりしぼって立ち上がり、ガキの腕をつかむ。あと一度でいいから跳んでやる。死ぬのはそれからでいい!
「あかい……痛くされた……あかい……なにこれ……」
「おい……あっ!」
ガキは手を振り切って、枝にとまった一羽目指して突進して行った。
身の丈に余る長剣を軽々と振りかざして。
――――全部が終わって、返り血に塗れた子供が剣を手にこちらを振り返ったとき、助けられた自分がうれしい顔をしているのか、それとも悲しい顔をしているのか、正直よくわからなかった。
ただ、あいつに済まないと、思った。