ケンカジャンキーに恋をした
親の転勤で高校二年の夏にもなって転校を余儀なくされてしまった谷尾和子は、その登校初日、見事に迷子になってしまっていた。
特に方向音痴というわけではないが、転入前にたった一度車で訪れただけの場所を覚えていられるほど、彼女は記憶力に自信のあるタイプではなかった。
かといって、事前に下調べをしておくような殊勝さも持ち合わせていない和子は、元来のなんとかなる精神でもってロクに知りもしない町中を勘で闊歩するなどという暴挙に出たのである。
すでに時刻は午前九時をまわり完全に遅刻の状態なのだが、突き抜けた楽天主義者の彼女がその程度の事実に慌てることはなかった。
むしろ、放課後までに辿り着ければ儲けものとまで考えていたのだから、どれだけ緩い精神の持ち主であるか分かろうというものだ。
さて、鼻歌交じりに歩く和子が目の前を横切る茶トラの猫に一興とばかりについて行けば、いつの間にやら怪しい雰囲気を携えた裏路地に入り込んでいた。
太陽もとっくに顔を出しているというのに、大小様々なビルに囲まれたそこは酷く薄暗い。
だからといって不安になるでもなく、和子は「人の声の聞こえる方角に歩いていれば、いずれ大きな通りに出るだろう」と考え、至極適当に足を踏み出した。
が、彼女のその行為は、世間一般的に失敗と称される結果を招いてしまう。
喧騒を頼りに進んだ先で、彼女はいかにも不良といった、すこぶるガラの悪い集団に出くわしたのだ。
ただ、彼らは学ランを着ているわけでも、特攻服を着ているわけでもなかったので、どちらかと言えばチーマーという表現の方が正しいかもしれない。
少し開けた袋小路を占拠するその集団は、道の先に現れた和子の存在には気が付かなかった。
が、それもそうだろう。
彼らは絶賛ケンカ中であったのだから。
危機感に乏しい和子が立ち去りもせず観察したところによると、中央付近にいる長身で赤毛の男一人を十人程で囲んでいる様子だった。
とすれば、これはケンカではなくリンチであろうか。
しかし、多勢に無勢で何発か食らっているとはいえ、今現在の勢いで言えば、赤毛の男の方が圧倒的であるように和子には感じられた。
たった今も、彼の右ストレート一発で中々ガタイの良い男が沈んだところだ。
こうして彼女が見ている間にも屍の数はひとつ、またひとつと増えていっている。
ブル、と小さく身体を震わせて、和子は唇の端を不敵に上げた。
「……いいねェ、滾るわ」
呟きつつ、彼女は腕に巻きつけてある極細のチェーンを緩め、そこに下がる分厚い指輪を親指を除く四本の指に装着する。
ちなみに所要時間は約二秒だ。
直後、和子は甲高い奇声を発しながら集団の元へと飛び出して行った。
雄叫びに反応し振り向こうとした何人かの内、最後尾の男の顎先を目掛けて、彼女は容赦無く右拳を繰り出す。
スピード、角度、タイミング。
計算され尽くした衝撃が男の意識をバッサリと刈り取った。
かなりの熟練を要するが、顎を揺さぶることにより脳にダイレクトにダメージを与えることが出来るのだ。
白目を剥き地に倒れ伏す彼は、おそらく己の身に何が起こったのかすら理解していないだろう。
一部始終を目撃した男たちは、しばし混乱に動きを止めた。
第三者からの突然の襲撃。それも相手が女とあって、咄嗟の理解が追いつかなかったのだ。
その隙をついて、和子は右手側の男の鳩尾に左拳を打ち込んだ。
そして、呻き声と共に下がって来た頭を、待ってましたとばかりに踵落としの餌食にする。
これで二人。
制服のスカートの下にはレギンスを着用しているので、足をかっ広げることに対する羞恥心はない。
と、ここでようやく彼女を敵と認識した数人の内の一人が、激昂し吼えながら向かって来た。
中々強面の厳つい男で、通常ごく一般的な女子ならば少なからず脅え怯むであろう場面だったが、和子はむしろ笑みと共にそれを受け入れた。
攻撃を躱しついでにしゃがみ込んで、勢い付いた男の足を軽く引っ掛け転ばせる。
それから、うつ伏せに倒れた彼の、腎臓の辺りを目掛けて体重を落とし込んだ全力の肘を食らわせた。
三人目。
素早くバック宙を数回決めて集団から距離を取る和子だったが、その途中で目に入った光景により彼女は張っていた気を緩め、体勢をのんびりと整えることにした。
ちょうど、赤毛の男が敵勢力最後の一人を蹴り飛ばそうとしているところだったからだ。
ざっと髪を手櫛で梳かそうとして、まだ指輪をしたままだったことに気付き止める。
過去に、何度か絡まって痛い目を見ていた。
そうこうしている内に、不良達を片付け終わった赤毛の男がまだ息も荒いままで和子を睨んで来た。
例え彼女の性別が女であろうが、あれだけの力を垣間見せられれば、更にそれが見ず知らずの目的も分からぬ人間ともなれば、彼も容易く警戒を解くような真似などできるはずもない。
これがもし、良かれと思って彼を助けに入ったのであれば、和子もそんな恩を仇で返すような行為に少なからず憤りを覚えることもあったかもしれないが、完全に自分本位の理由で乱入した彼女にとって、それは逆に好感度が上がってしまう態度だった。
男が口を開こうとするのを遮って、和子はヘラヘラと気の抜けた笑みを浮かべて言う。
「いっやァー、悪ィ悪ィ。
あんまり楽しそうだったもンで、つい交ざりたくなっちまった」
「……あ?」
その予想外の内容に、男は片眉を上げて怪訝な表情を見せる。
「いや、だってさァ。
多分だけど、アタシが入らなくてもアンタなら一人で勝ってただろ?
だから、せっかくのお楽しみ邪魔して悪かったと思ってよ」
和子の主張は、男にとって意味不明なものだった。
彼は自身が絡まれることも、それに付随する暴力行為も、くだらないことだと思っている。
殴って、殴られて、そんなことの何が楽しいのか、全く理解ができなかった。
ケンカに勝とうが負けようが、彼の中に残るものなど、せいぜい痛みと虚しさぐらいだ。
「…………別に、楽しんじゃいねぇ」
ゆえに、素直な心情が口をついただけのことだったのだが、逆に彼女にとっては、男のその発言こそ想定外のものだったらしい。
「は? それマジ言ってンの!?
ケンカと祭りほど血湧き肉躍るイベントもねェだろ!
男じゃねェなーっ」
和子は驚愕し、ほとんど反射に等しい速度で目を見開き拳を握った。
彼女の言葉を侮辱と取った男が、睨みの光を更にキツくする。
「……意味分かんねぇ。
要は、俺、ケンカ売られてるってことか?」
「あ? 違ェよ。
アタシ自分から売らねェ主義だし。
それに、アンタみてェな強ェ奴が相手なら、やっぱお互い全力出せる状況じゃねェとな。
面白くねェし、もったいねェ」
ふん、と鼻息をひとつ鳴らして、和子は半目になりながら腕を組む。
どうやら本気で言っているらしいことを見て取って、赤毛の男は彼女に対する警戒を緩めた。
いつでも攻撃に移れるように出していた両手をズボンのポケットに押し込んで、いかにも気だるげに歩き出す。
彼から敵意が消失したことで、和子もまたメリケンサック代わりの指輪たちを慣れた手つきで外していった。
チェーンを再び腕に巻きつけている彼女の側面を男が通り過ぎようとした瞬間、あっ、と声を発して和子が彼を見上げる。
「なァ、アンタ。
西院央高校の場所知らねェ?」
「あぁ?」
「今日から転入なンだけど、コレが見事に迷っちまってさァ」
言われて、彼女の格好が彼の高校の制服であるという事実に、男はようやく気が付いた。
ついでに、アレだけの強さを持っている稀有な女の名が今の今まで全く売れていなかった理由と、地元では悪い意味で有名な彼を全く怖れる様子を見せずに話かけてきた理由にも納得がいった。
「…………余所者か。道理でな」
「ン? 今なンか言ったか?」
「いや……ついて来い」
顎をクイと動かして、男は再び正面を向き、長い足を動かし始める。
「おっ、何。もしかして、案内してくれンの?」
期待の眼差しと共に、彼女が横を通り過ぎた彼を追って体を捻れば、男は一瞬だけ動きを止め、顔半分だけでその問いに答えた。
「……理由はどうでも、一応助けられた形になるだろう。
これで貸し借り無しだ」
「律儀か!
まァ、ありがとなー。助かるわ」
再び歩き出した彼の広くも無愛想な背へと、和子は嬉しそうな笑みを浮かべて駆け寄っていく。
全く己の言葉を疑うそぶりを見せない不用心な彼女に、男はどこか釈然としない思いを抱きながら無言で足を進め続けた。
これが、西院央の暴れ鬼こと鬼堂英彦と、かつての地元で狂犬と怖れ親しまれた谷尾和子の、世にも珍妙な出会いであった。
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「おーい、鬼堂ーっ」
覚えのないソプラノ声で喜色混じりに名を呼ばれ、彼が背後に訝しむような視線を向けてみれば、そこに西院央高校の制服に身を包んだ小柄な女が立っていた。
彼女は「へーえ、やっぱりアンタが鬼堂だったか」などと呟きつつ、男のすぐ真横に並ぶ。
ほんの数日前、彼が柄の悪い集団にケンカを吹っ掛けられた際に、なぜか乱入してきた暴力女……そう、和子だった。
やたらと親しげな様子が気に喰わなかったらしい男こと鬼堂が軽く睨み付けてみるも、彼女はそれを全く意に介さず、何やら一方的にペチャクチャとおしゃべりを始める。
ソレを無視して歩き出せば、女は当たり前のように彼の隣をついて来た。
聞くともなしに聞こえてきた話の内容によれば、彼女、谷尾和子は、鬼堂と同じクラスになってしまったらしい。
そして、そこでクラスメイトに彼の噂をあること無いこと好き勝手吹き込まれたそうだ。
身体的な特徴が合致したことと、先の日に目の当たりにしたケンカの実力から、和子は彼が鬼堂その人であると推測したということだった。
随分と余計なことをする輩もいたものだと、彼は苛立ちと共に小さく舌打ちする。
その音が届いたのか、和子が話を止め、疑問符を浮かべながら鬼堂を見上げた。
ちょうど良いと、彼は冷めた視線で彼女を見下ろしながら口を開く。
「……で?
その危険人物にわざわざ近付いて、お前は何を企んでる?」
凄む様に投げられた言葉を、瞬き二度ほどの時間をかけて理解した和子は、やがて薄っすらと顔に苦笑いを滲ませた。
「あー、その……企ンでるって程のアレじゃねェよ?
有名な暴れ鬼と一緒にいりゃあ、そのケンカのお零れに預かれンじゃねェかって思っただけだし」
「はぁ?」
思わず顔を歪めてしまう鬼堂。
これまで、そこそこ顔の良い彼の庇護下に入り甘い汁を吸いたがる女はいたが、さすがにその周囲で頻発する厄介事を目的に近付いて来られたのは、当然ながら初めてのことだった。
「言ったろ?
アタシは自分からケンカ売らない主義なンだ。
でも、女一人で適当にブラついたって精々軟弱なナンパ野郎が引っかかるぐらいでなァ。
そりゃあ、ナンパ断ってキレる奴もいっけど、そういうのノしたって楽しくねンだよ。
やっぱ、バトる気満々で来てくれる奴じゃねェとさァ」
「……知らねーよ」
「それに、確かケンカ好きじゃねェって言ってたじゃン?
そういうアンタなら、獲物横取りすることンなっても許してくれンじゃねェかと思ってさァ。
………………やっぱ、ダメか?」
性を武器に迫ってくる女達とは違う、媚びのない純粋な懇願の眼差しに、鬼堂はこれまでにない複雑な感情を覚えた。
その正体を悟ることのないまま、彼の口が思考を通さず動き出す。
「……好きにしろ」
「マジか! ぃやったァ!」
鬼堂が自らの発言に驚きほんの一瞬固まった事実に、喜びにはしゃぐ和子が気付くことはなかった。
「やっぱイイ奴だな、アンタ! 鬼堂!
あン時、学枚まで送ってくれたし、悪い奴じゃねェって言ってンのに、クラスの奴ら誰も信じやしなくてよォ!」
「はぁ!?
てっめ、何やらかしてくれてんだよ!?」
仲良く噛み合わない会話を続けるヤンキー二人。
その後、自覚がないながらも和子目当てで鬼堂が足しげく学校に通うようになり、色んな意味で恐ろしい二人のやりとりに一般生徒たちを震撼させたり、とある出来事をきっかけに鬼堂が己の恋心を自覚して即座に告白し、和子から強いところは好きだけど人としては好きじゃあないなどと素で返されて撃沈したり、自棄になった鬼堂に付き合わないなら俺のケンカに交ざるの禁止と言い渡されて、和子が本気で悩んだり悩まなかったり、結局一年後くらいには両思いになっていたのに、ケジメだとか何だとか言って本気の勝負をして二人揃ってボコボコになった後で付き合ったりしつつ、最終的には結婚して、バイオレンスかつ幸せな人生を送ったらしい。
めでたし、めでたし?
おまけ
◇本編終了直後の二人の会話◇
「てか、学校全然来てねェらしいじゃン。
サボってケンカばっかしてっから無駄に怖がられンじゃねぇの?」
「お前にだけは言われたくねーよ」
「いや、アタシは理由もなく遅刻も早退もサボりもしねェから。
宿題だってちゃンとやるし、これで意外と優等生よ?
ただケンカと祭りが三度の飯より好きってだけのフッツーの女子だから」
「はぁぁぁ?」
「それに、暴力で解決できる問題なら任せろっつって主張しとくとさァ、町歩くより断然ケンカの機会増すっつーか。
依頼でカツアゲ野郎に灸を据えてやった後なンか、ほぼ確で仲間連れて報復来るし。
めっちゃ効率いンだわ」
「お前……」
「あっ。そーだ、メアド交換しよ! メアド!
赤外線分かるか?」
「うわ……まだガラケーなんか使ってんのかよ」
「だってさァ、スマホすぐ画面割れンだろ?」
「…………あぁ、察した」