思わぬ再会
アダに突然別れを告げられてから、一週間が経過した。
その間、ハルは一度話し合いをしたくて彼女のアパートを訪ねたが、すでに部屋を引き払った後で中はもぬけの空だった。
アパートの家主なら何か知っているかもしれない、と思い、家主に聞いてみたが、「さぁ……。本当に急だったんだ。何せ、仕事も突然辞めちまったみたいでね。行き先??さぁ……。もしかしたら、田舎に帰ったかもしれないよ」と、余り当てにならない返事が返ってきただけであった。
こうなったら、アダの故郷まで彼女を探しに行くしかない。
そう決心したものの、問題は養父である娼館の店主に、店を長期間開けることになるかもしれないとどう伝えるか。この国最北端までの旅費をどう工面するか。旅費はともかくとして、店主の説得が問題だ。
「女に本気で惚れ込むようじゃ、ポン引きとして二流以下だ」と豪語する男なだけに、女を追って外国へ旅に出るのと大差ないような遠い土地へ行こうとしたら、真っ向から反対するに決まっている。
そしてもう一つ、アダは本当に田舎に戻っているのだろうか、という疑問も持っていた。
それと言うのも、アダは母親の話はよく聞かせてくれたが、父親の話は一切持ち出さなかったからだ。生きているのか、死んでいるのかさえもハルにはよく分からない。
もしかすると、アダは何らかの理由により父親と別に暮らしたくて、わざわざ遠く離れたこの街に来たのかもしれない。そうだとしたら、田舎に帰ることはまずないだろうし、まだこの街のどこかで暮らしているかもしれない。
コンコンと、部屋の扉を叩く音がした。
「何だ、レベッカか」
「ハル。店主が呼んでいるわ。すぐに部屋に来てって」
「用件は??」
「新しい娘が入ったから、品定めして欲しいって」
「……分かった。すぐ行く」
この娼館では新しく入ってきた娘を裸にして、身体つきや肌の質、生娘か否か等をくまなく調べ、その結果で値段を設定するのだ。(その後の人気や働き次第で、値段設定は変動していくが)
以前は店主が調べていたが、「こういうのは儂みたいな老いぼれよりも、ハロルドみたいな若い男の方がうってつけだろう」と言って、二年前からはハルが調べている。馬鹿な男からは役得だと羨ましがられるが、実際は女を無理矢理犯しているような気分になるので、余り気持ちの良い仕事ではない。ましてやここ数日、ハルにしては珍しく気分が冴えないので(と言っても、表には絶対に出したりしない)、尚更気が重たかった。
店主の部屋の扉を叩く。中から、ロマンスグレーと言った雰囲気の、痩せた老紳士――、娼館の店主が顔を出した。
「ハロルド、遅いぞ。もっと早く来んか」
老紳士風の見た目とは裏腹に、柄の悪い口調でハルを叱りつける。
「あぁ、悪い悪い」
店主は細かいことにもいちいち難癖を付けたがる性格なので、ハルは適当にあしらいながら中に入る。
「で、新しく入った女っていうのは……」
ハルが後ろ手で扉を閉め、丁度自分と向かい合わせで立っている女に視線を送る。すると、金色掛かったグリーンの瞳をこれでもか、というくらいに見開き、その場に立ち尽くす羽目になった。
ハルのすぐ目の前に立つ、亜麻色の長い髪でエメラルドグリーンの大きな瞳をした、色の白い小柄な女は、紛れもなくアダだったからだ。
アダもアダで、ハルに気付くと口許を両手で押さえ、驚いた表情をして固まっている。
「何だ、ハロルド。この娘と知り合いなのか??」
二人の様子を見ていた店主が、怪訝そうにしてハルに尋ねる。
「……いや、知り合いかと思ったが……。人違いだ」
「そうか。まあ何にしろ、よく調べてくれよ」
店主はハルの肩をポンと叩くと、そのまま部屋から出て行った。
部屋に取り残された二人は、しばらく無言でお互いの様子を窺っていたが、沈黙に耐え切れなくなったのか、アダが先に口を開いた。
「……吃驚した。まさか、ハルが働いている娼館だなんて……、知らなかった」
ハルは自分がポン引きだということを正直にアダに話していたが、どこの娼館かまでは話していなかった。
「……知っていたら、別の娼館に行ったのか??」
金色掛かったグリーンの瞳で、ハルはアダを鋭く睨む。そんな彼に恐れをなしたアダは再び口を閉ざしてしまう。
「だんまりかよ。お前、俺のことを馬鹿にしているのか??」
「……ち、違う……」
「じゃあ、何故、いきなり一方的に別れを突きつけた??仕事も辞めて、アパートも引き払ってまでして、完全に俺の前から姿を消そうとした??あんなに頑なに守ってきた貞操を俺に捧げたのは、せめてもの餞別のつもりか??そうかと思えば、いきなり娼館で働こうとして……。俺にはお前の考えていることがさっぱり分からん」
自分でも驚くほどにハルはいつもの冷静さを失い、アダを執拗に責め立てる。アダにも何か理由があっただろうから、一方的に責めてはいけないと頭では理解しているが、この一週間燻り続けていた感情が遂に爆発してしまったのだ。
「…………父が…………」
逆上するハルに怯えながら、アダはぽつりと小さな声で呟く。
「…………父が、私の名前を勝手に使って、借金をしていたの……。それも、一回や二回どころじゃなくて……。最初は私の居所が分からなければ大丈夫だと思っていたけど……。私が働いていた製糸工場で同郷の人がいて、その人が故郷に帰省した時に私のことを話してしまったらしく……、しばらくして借金取りが私の所へ督促状を持って押しかけてきたの……」
「……で、自分の身と引き換えに借金を肩代わりしてくれる、ってことで、娼館で働くことにしたのか」
返事をする代わりに、アダは頷く。
「……もしかして、この街に来たのは借金取りから逃げる為だったのか??」
「それもあるけど……。父から解放されたかったの……」
アダによると、彼女の父は、仕事は誰よりも真面目に取り組む男だったが、反面、家にいる時は酒ばかり飲み、母やアダに暴力を振るう事もあったという。
「仕事だけはちゃんとしていた分、稼ぎはそれなりにあるはずなのに……、全部酒代に変えてしまうから、母の薬代がなかなか工面できなくて……。こんな言い方してはいけないけど、父は母を見殺しにしたのも同然なの。だから、縁を切りたかった……。折角、自由になって、ハルとも出会えて幸せだったのに……、結局は逃げられなかった……」
ハルは、アダが話し終えると傍に近づき、その小さな掌を握りしめる。
「アダ……、悪かった……。お前の苦しみに気付いてやれなくて……」
「……ううん。私こそ、ハルに何も話さなくてごめんなさい。貴方に迷惑を掛けたくなかったの……」
ハルはしばらくの間アダの掌を握っていたが、やがてアダの方からハルの手を放した。
「……そういえば、私、ここで裸になって色々調べてもらわなきゃいけないのよね??」
そう言って、アダがブラウスのボタンに手を掛けようとしたところを、「お前に限ってはその必要はない」と、ハルが制止する。
「調べなくたって、お前の身体はこの間しっかり全部見たし、色々確かめさせてもらったから」
ハルがニヤリと笑いながら、意味ありげな視線をアダに送りつける。瞬時に、アダは頬を赤らめる。その初な反応が可愛くて、尚もハルはアダをからかう。
「あと、すでに生娘じゃないことも確かだ」
「それ以上は言わないでよ!ハルの助平!」
「あぁ、悪い悪い」
頬を膨らませて怒るアダを適当に宥めながらも、ハルは真面目な顔付きをしてこう告げた。
「アダ。うちの店は他と比べて娼婦の待遇は良い方だが、それでも身を売る仕事は血反吐を吐く位に辛いものだ。あと、俺にとってお前は大切な恋人とはいえ、仕事に関しては他の女同様厳しい態度で臨む。それだけは覚悟しておけよ」
「分かったわ」
「ただ……」
「ただ??」
「もしも、どうしても辛いことがあったら……、閉店した後にこっそり俺の部屋に来い」
「……ありがとう……」
こうして、アダはハルの働く娼館で、娼婦として働くことになったのだった。