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無償の愛情

 住んでいる安アパートの前でアダがハルの迎えを待っていると、花束を抱えた彼が現れた。

「アダ、待ったか??」

「いいえ、私もさっき部屋から出たばかり……って、わぁ、ありがとう!」

 ハルから花束を渡され、アダは嬉しそうに微笑む。その表情を見たハルも、つられて笑みを浮かべる。いつもの彼からは想像できないような、とても優しい笑顔だ。

「これはフリージアね。私、フリージアは大好きなお花の一つなの」

 アダは花が好きで、種類や育て方、花にまつわる雑学などに詳しかった。だから、ハルが彼女と会う時は必ず、花束を持参するようにしている。

「アダ、花を部屋に置いてきていいぞ。今日は夜まで予定がびっしりあるし」

「いいの??」

「その代わり、早くしろよ」

 ハルの言葉に甘え、アダは花束を置きに一旦部屋に戻る。小走りで階段を駆け上がっていく彼女の後ろ姿を眺めながら、ハルは煙草に火を付ける。

 アダと初めて出会った四か月前の、あの夜――、ドハーティの魔の手からアダを助けた後、二人は別の酒場で酒を飲み交わした。

 アダはこの国で最北端の場所にある、山奥の過疎地からこの街にやってきたという。

「母は身体が弱くて病気がちな人だったから、私がずっと世話をしてきたんだけど……、半年前に亡くなってしまったの。閉鎖的な過疎地な分、考え方も古い人達が多くてね。女は家事以外の仕事をしちゃいけないし、十八歳までには結婚しなきゃいけない。母の看病に付きっきりだったとはいえ、二十歳になってしまった私はもう行かず後家として生きるしかなくて。そうかと言って、女の私が仕事をすることも嫌がられる。だったら、いっそのこと村を出て、別の場所で生きて行こうと思ったの」

「それにしたって、あんたの村から物凄く遠い場所であろう、この街を選ぶとは……。北にも確か、ここと匹敵する大きな街があったじゃないか」

「うーん。でも、どうせなら、村からうんと離れた場所がいいかなぁ、と」

 小首を傾げながら、呑気な口調で話すアダにハルは半ば呆れた。同時に、大人しそうな田舎娘、といった見掛けによらない行動力に密かに感心してもいた。

「あ、何だか、私ばかり話しているわね。ちょっと酔っているのかしら」

 北方生まれということで、アダの肌は抜けるように白く、透明感がある。そのせいか、酒を飲むと顔に出やすく、大した量を飲んでいないはずなのに顔色が真っ赤だ。

「いや、そんなことはないさ。むしろ、俺が知らない土地の話は興味深くて、聞いていて飽きない」

「本当??良かった!私、お喋りが余り得意じゃないから、そう言って貰えて嬉しいわ」

 酔いも手伝ってか、すっかりハルに気を許した様子のアダに、これはすんなりと落とせそうだ、と確信する。

「あんたの話をもっと聞きたいところだが……、そろそろお開きにしよう。送っていくよ」

 ハルは二人分の飲み代をテーブルの上に置くと、アダを連れて深夜の闇の中へ消えていく。待合宿へ彼女を連れ込むために。

 結局のところ、無理矢理に奪うか、口説いて合意を得るかの違いなだけで、ハルもドハーティと目的は同じなのだ。幸いなことに、アダは酔いのお蔭でハルの目的に全く気付いていない。

(危機を救ってやったし、酒も奢ったんだ。ヤラせてくれたって別にいいだろ??)

 随分と傲慢な考えだとは思うが、初対面の男と夜遅くまで二人きりで飲むのであれば、それくらいは覚悟しておくべきだ。

 待合宿が立ち並ぶ一画に近づくにつれ、お互いの身体に絡まり合う男女や男にべったりとしなだれかかる女など、淫靡で怪しげな光景が目に入ってくる。さすがのアダも、異様な雰囲気に徐々に不安を感じ始めたのか、大きな瞳でハルの顔色を伺う。

「あの……、ここって……」

「あんたの想像通りだ」

 ハルは建物の陰にアダを連れ込むと、壁に押し付け、逃がすものかとばかりに壁に両手をついて、彼女に迫る。動揺したアダのエメラルドグリーンの瞳には、恐怖の色が滲んでいる。

 獲物を仕留める豹のような鋭い目付きをして、ハルはアダの顎を掴んで唇を奪おうとした。

「……いや!やめて!!」

 ドン!と、ハルの胸に強い衝撃が走る。次の瞬間、ハルは地面に尻餅をついていた。アダに力一杯身体を押し返され、身体のバランスを崩したのだ。

 今までも、迫った女に拒絶されることを何度か経験しているが、ここまで露骨に態度で示されたことはなかった。ましてや、相手は伊達男のハルには不釣り合いな、野暮ったい田舎娘である。ハルの自尊心は大いに傷つけられた。

「……あ、ご、ごめんなさい」

「…………」

 返す言葉すら見つからない程にショックを受けたハルは、座り込んだまま憮然としている。

「決して、貴方が嫌とかじゃなくて……」

「…………」

 アダは、次の言葉を口に出すのを躊躇っていたが、すぐに一際大きな声でハルに向かって深々と頭を下げながら、言った。

「し、死んだお母さんと『結婚するまでは貞操を守りなさい。キスも夫以外の人とはしちゃいけません』って、小さい頃から約束しているの!!」

 アダから告げられた予想外の理由に、ハルは呆気に取られる。

 娼館で生まれ育った彼の周りで貞操観念など無いに等しかったし、この街自体が自由恋愛は当たり前なので、婚前交渉に対する抵抗を持つ人間は少数だった。

 だから、婚前交渉は当然として、キスすら結婚までしない、というアダの考えが理解不能なのだ。

「……あぁ、分かった分かった。そういうことなら、仕方がない。嫌がる女に無理矢理手を出す程、俺は外道じゃない」

 自尊心を傷つけられたことより、アダの発言による衝撃の方が遥かに上回ったことで、ハルの怒りはすっかり消え失せてしまった。その代わり、他の女にはない生真面目さや、大人しくて頼りなさそうな見掛けと違って、一本芯が通っている部分に対して、興味を持ち始めていた。

 もっとアダのことを知ってみたい。

 ハルはサッと立ち上がり、スーツについた土埃を手で払い落しながら、アダに告げる。

「アダ、俺はあんたが気に入ったよ。あんたさえよければ、これからも俺と会ってくれないか??」

「え……??」

「強引に手を出そうなんて、もう二度としない。今度からは昼間に会って、あんたの話をもっと聞いてみたいんだ。勿論、嫌なら断ってくれていい」

 アダは困ったように、しばらく迷う素振りを見せていたが、やがて「私で良ければ……。私も、ハルさんともっと色々話してみたい」と、おずおずと答えたのだった。

 そして四か月経った今も、二人は触れ合う事はしないまま、会い続けている。

「お待たせ」

 丁度煙草を吸い終わったと同時に、アダが息せき切りながらハルの許へと戻って来た。 

 早くしろというハルの言葉に従って、急いで用を済ませてきたのだろう。ハアハアと忙しない呼吸を繰り返している。いじらしい奴。

 いじらしいと言えば、今日アダが着ている女性用スーツはハルが選んだものだ。前ボタンがたくさん付いた上着、タイトな作りのスカート。黒で統一された禁欲的な雰囲気は落ち着きと知的さを醸し出していて、やや幼い印象ながらも生真面目なアダによく似合っている。

この四カ月の間、野暮ったい田舎娘のアダを垢抜けさせるために、ハルは彼女に似合う服を着せ、化粧や肌の手入れ等美容に関することを教えていた。女の世界で生きている分、ハルはその手の事に関して詳しかったし、美人ではないものの、磨けばそれなりになるのでは、と思ったからだ。

 素直で従順なアダはハルに勧められるまま、彼が選んだ服を身に着け、化粧を覚えていく内に、出会った頃とは比べ物にならない程美しい女性に変貌していった。そのことは、ハルを大いに満足させたのだった。

 二人はまず、歓楽街の端にある寂れた小劇場にて、数人のコメディアンが出演する喜劇を鑑賞しに行く。上流社会の人々を風刺した劇は、皮肉に満ちた笑いで少々品がなかったが、アダはお腹を抱えてケラケラと楽しそうに大笑いしていた。

「あぁ、楽しかった!」

「アダ、お前は笑いすぎだ。しかも声がでけぇ」

 劇が終了した後も、まだ笑いがおさまらないアダの様子にハルは呆れている。

「まぁ、思っていた以上に楽しんでくれたのは良かった」

 理由はどうあれ、ハルはアダの笑顔を見るのが好きなのだ。

 青空に輝く太陽のように明るく、見る者まで明るい気持ちにさせてくれる。

「さて、笑いまくったから、そろそろ腹が減ってきただろ??飯食いに行くぞ」

 ハルは、通りにずらりと並んでいる辻馬車の一台に声を掛け、そのまま二人で乗り込むと歓楽街を抜け、中流階級の人々が暮らす一画に向かう。毎回とまでは行かないが、月に一度は美味い物をアダに食べさせてやりたいのだ。

 女とか男とか性別に限らず、ハルがこんなに一人の人間に尽くすのは生まれて此の方初めてであった。

 歓楽街という、人間の様々な欲望が渦巻く、一筋縄でいかない特殊な世界で育ってきたせいか、彼は他人と接する時はいつも計算や駆け引きを用いている。それは、養父である娼館の店主であろうが、店の娼婦達であろうが。幼なじみ同然のレベッカにも完全には気を許してはおらず、何の打算も用いずに心を開いていたのは母親のブランチだけだった。そのブランチも、ハルが十五歳の時に亡くなっている。

 しかし、アダの前ではひどく素直になれたし、彼女と一緒にいると今まで感じたことのないような安らぎを覚えるのだ。きっと、アダの素直さの影響によるものかもしれない。

 だから、「ハルにはいつもしてもらうばかりで申し訳ない」と言うアダに対し、「俺が好きでやっていることだから、お前はただ素直に受け取ってくれるだけでいい」という言葉は、まぎれもない彼の本心だ。

 アダの笑顔や喜ぶ顔がもっと見たい。

 ただ、それだけである。

 二人が食事を終え、レストランを出る頃にはすでに空は暗闇に包まれていた。懐中時計で時間を確認すると、八時半を回ったところだった。

 近くで客待ちをしていた辻馬車に声を掛けようとしたハルだったが、急にアダに腕を捕まえられる。

「何だよ??」

 怪訝な顔でハルはアダを見返す。アダは何か言おうとしているが、言い辛い事なのか、唇をもごもごと動かすばかりで中々口を開こうとしない。

「言いたいことがあるなら、さっさと言えよ」

「…………」

 ハルにせっつかれたことによる焦りから、アダは更に目線をキョロキョロと泳がせる。

「……も、もっと、ハルと一緒にいたい……」

「そうか。じゃあ、これから酒場にでも行くか??」

「……そうじゃなくて……」

「??」

 それきり、アダは再び黙り込んでしまった。心なしか、彼女の耳朶が赤くなっている気がする。勘の鋭いハルは、彼女が言わんとする意味にようやく気付く。

「……お前、自分が何言っているのか、分かっているのか??」

 アダは返事をする代わりに、コクリと頷く。

「死んだお袋さんとの約束なんだろう??」

「…………」

「俺としちゃ、願ったり叶ったりだが、お前は本当にいいのか??後で後悔しないか??」

 アダは先程よりも強く頷いた後、エメラルドグリーンの大きな瞳でハルをじっと見つめる。

「……分かった。お前が良いって言うなら、そうしよう。ここから大通りを一本超えて東に進むと、宿屋が集まっている地区がある。そこへ行くぞ」

 ハルはアダの小さな手を掴むと、足早に目的地へと向かったのだった。

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