出会い
――遡ること二年前――
宵の口も過ぎ、歓楽街が最も活気に満ちる時間だ。
客が楽器演奏を披露出来る大衆酒場にて、三つ揃えの白いスーツ姿のハルが煙草を咥えながら、低い舞台の上でギターを弾いていた。
「ハル、今日もサボりかよ」
「あぁ??店の娼婦達が全員客を連れて戻って来たから、俺が客引きに出向く必要がないし、残るは閉店後に店の取り分を娼婦達から回収するだけで、その間が暇なんだよ」
「そうかい、そうかい。いいよなぁ、お前は楽な仕事で」
他の客から嫌味を言われたハルはカチンときたが、やり返すでもなくギターの演奏に集中することにした。もっと若い頃なら、すぐにギターを放り出して嫌味を言った客に掴み掛かっていたが、無駄な争い事など損をするだけだと悟って以来、つまらない喧嘩はしなくなったのだ。
それと、演奏しながらも気になっている事があり、その様子を窺いたかったのもあった。
カウンター席の左端に座る男女――、男の方はハルと同じくポン引きなのだが、彼は歓楽街の中ですこぶる評判の悪い男だった。(ポン引き自体が、決して良い評判を得られる仕事ではないのだが)
女の方は、亜麻色の長い髪とエメラルドグリーンの大きな瞳が印象的で、決して美人ではなく、いかにも田舎から出て来たばかりといった、垢抜けない雰囲気だ。おそらく、ふらりと立ち寄った酒場で男に声を掛けられ、掴まってしまったのだろう。
ハルはポン引きの中でも比較的真っ当な部類で、店の娼婦が仕事に対して余程の怠慢な態度を取ったり、脱走でもしない限りは彼女達と程良い距離感を保った、友好的な関係を築いている。
だが、娼館のランクが下がれば下がる程、ポン引きの質も悪くなる。
件の男は、自分の店の娼婦達を阿片付けにして言う事を聞かせ、劣悪な環境で働かせているのだ。ひょっとすると、あの娘を強引に勧誘し、娼婦として働かせるつもりかもしれない。
騙す方より、騙される方が悪い。
これは、一見華やかな世界と見せ掛け、厳しい苦界である歓楽街で生きる者達の矜持の一つだ。ハルもそう考えている。
それなのに、男が娘に何かしようものなら、すぐに止めてやりたいと思っているのだ。
理由は分からない。
しいて言えば、何の疑いも持たずに男と呑気に会話を交わしている娘の様子が、余りに危なっかしくて目が離せないのだ。あんな田舎くさくて野暮ったい女など、ハルの好みでも何でもないのに。
娘が目を離した隙に、男はポケットの中から小さな紙包みをサッと取り出し、手早く彼女の飲み物に白い粉を混ぜる。
阿片か、睡眠薬か。
きっと薬で彼女の意識を失わせ、待合宿にでも運んで身を奪うのだろう。
その後、口八丁手八丁で言い包め、娼館で働かせる気か。
(……そうはさせるかよ!)
すぐさまハルは舞台の上から降り立ち、ギターを持ったまま、足早に男と娘に近づく。
「よぉ、ドハーティ。冴えないお前が女連れとは、珍しい」
ドハーティ、と呼ばれた男は大袈裟なくらいに肩をビクッとさせて、ハルを振り返る。
「……ハロルド・サリンジャーか。俺に何の用だ」
「いや、特に用はないんだが……」
ハルはちらりと娘に視線を送る。
「お前に用はないが、こっちのレディに用がある」
「さすがは女たらしで有名なだけあって、男連れだろうと見境いないな」
「まぁな。でも、酒に薬混ぜでもしなきゃ、女を手に入れられないような奴には言われたくないが」
するとドハーティは、うっ、と呻き、言葉を詰まらせたかと思うと、分厚い唇をワナワナと震わせ始める。
「分かり易い野郎だ」
ハルは蔑んだ眼差しでドハーティを見下ろし、嘲る。
「そういう訳だ、レディ。こいつと一緒にいると、阿片付けにされて死ぬまで売春させられる羽目になるぜ??それよりも、これから別の店で俺と飲み直さないか??勿論、俺の奢りだ」
終始戸惑った様子で二人の応酬を眺めていた娘の肩に手を置き、ハルは整った顔に不敵な笑みを浮かべて誘いかける。
「……クソ、舐めやがって!!」
ドハーティは、着古した流行遅れのスーツの内ポケットからペティナイフを取り出し、ハルの背中を狙って襲い掛かる。が、持っていたギターでハルに頭を打たれ、怯んだ隙に、いつの間にか白スーツの内ポケットから抜き出した短銃を額に突きつけられていた。
「今すぐ失せろ、三下が」
ハルの脅しに恐れをなしたドハーティは、慌てて飲み代をカウンターに置くと逃げるように素早く酒場を後にしたのだった。
「ハル!うちの店で騒ぎを起こすなよ!!」
すぐさま酒場の店主から怒鳴りつけられ、「あ、すんません!!」と即座にハルは頭を下げて謝罪する。
先程までの殺気に満ちた恐ろしい姿と、バツが悪そうに店主に謝り倒す姿の落差に、娘は大きな瞳を白黒させて、ただただ呆気に取られていた。
「……さてと。邪魔者は追っ払ったことだし、飲み直しに行こうぜ??」
ギターをケースの中に片付けながら、ハルは薄い唇の端を持ち上げて、娘にニッと笑い掛ける。柄の悪い男の悪戯めいた笑顔にどう反応していいか、困惑している娘は曖昧に笑い返す。
「あの……、助けてくれてありがとう」
「あぁ、礼には及ばない」
「お礼になるかは分からないけど……、私で良ければ、お酒のお付き合いするわ」
「そいつはありがたい。ところでレディ、あんたの名前は??」
娘は迷う素振りを見せたが、すぐに口を開いた。
「私の名前はアドリアナよ」
「いい名前だな。ただ、呼ぶにはちと長いから、アダって呼んでもいいか??」
「どうぞ。貴方の名は??」
「ハロルドだ。周りはハルって呼んでいる」
こうして、ハルとアダは出会ったのだった。