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果たされなかった約束

 アダが、娼館で働き出してからおよそ二年が過ぎた。

 パチーン!

 肉を打つ音がした直後、アダが頬を手で押さえていた。彼女の目の前に立っているのは、三つ揃えの白スーツを着た長身の男、ハルだった。どうやら客と揉めたらしく、ハルがアダを平手で叩いたのだ。

「おい、アダ。お前、今のその顔は一体何だ!あれはお前にとって、数少ない指名客なんだぞ!有り難いと思いこそすれ、嫌がるとは随分と良い身分だな!!今すぐあの客を追い掛けて、謝りに行け!そして、店に連れて戻って来い!!連れて来なかったら、相応の罰を受けてもらうからな!!」

 店中に響く程の大声を出して、ハルはアダを怒鳴りつけた。アダはそんなハルを、キッときつく睨み返すが、客を追いかける為にすぐに店から走り去って行った。

「ハロルド、ちょっとやりすぎじゃないか??」

 店主が見兼ねて、ハルを咎める。

「あいつがいくら俺の女とはいえ、仕事で甘やかす気はないんでね。逆に、他の娼婦より厳しいくらいが丁度いい」

「そういうもんかねぇ。まぁ、お前のそういう部分が儂は信用出来るんだがな」

「そりゃどうも」

「時にハロルド。お前に話があるから、儂の部屋に来てくれ」

 店主はいつになく真剣な面持ちをして、ハルを自室へ呼び寄せた。

「ハロルド。年が明けたら、この店をお前に任せようと思う」

「……と言う事は、この店を継げってことか??ちょっと待ってくれよ、俺はまだ二十五だぜ??店主になるには若すぎないか??」

 寝耳に水とはまさにこのことである。

 いずれはこの店を引き継ぐことになるだろうとは予測していたが、思っていた以上に早く機が巡ってきたことにハルは戸惑っている。

「確かに、お前はまだ青二才の域を超えていない。だが、娼婦の管理等、仕事の手腕は最早儂なんかよりもずっと長けている。それに、もう儂は年だし、とっとと隠居生活に入りたいんだ」

「…………」

「考えてくれるか??」

「…………」

 ハルはしばらく黙り込んでいた。

 それは迷っている訳ではなく、もしも店主から店の引き継ぎの話を持ち出されたら、絶対に言おうと思っていたことを頭の中で整理していたからだ。

「分かった。この話を受けることにするよ。その代わり、俺が店主になった暁にはアダを身請けさせてくれ。俺はあいつのことを女房にしたいんだ」

「別に構わんが……。アダはろくでなしの親父に背負わされた借金を、まだ完済していない。それを払ってもらうまでは……」

「だったら、それも俺が払う。いつかはあいつを身請けするために、この二年の間金を溜めていたから、そこそこ蓄えはある」

 ハルが店主に金額を教えると、「よくもまぁ、たかだか女一人の為にそんなに溜めこんだもんだ」と酷く呆れていたが、「それだけあれば、充分だ」とも告げたのだった。

 そして夜は更けていき、深夜の三時――、閉店時刻となる。

 この時間ともなれば、朝まで泊まり込む客や何人もの指名客が相次いで訪れない限り、大体の娼婦は仕事を終えて眠りにつき始めるので、ハルも自室に戻っていることが多い。

 上着を脱ぎ、ネクタイとシャツのボタンを緩め、自室で一人寛いでいると部屋の扉を叩く音がした。こんな時間に自分の許へ訪れる人間は一人しかしない。

 ハルは椅子から立ち上がり、ドアを開ける。予想通り、そこにはアダが立っていた。

 仕事上のことが原因とはいえ、アダに手を上げてしまった罪悪感から、ハルは目線を逸らしながら部屋に入るように促す。アダも気まずいのか、小さな身体をますます縮ませて、部屋に入る。

「アダ。さっきは殴って悪かった……。痛かっただろ??」

 自分が殴ったせいで腫れてしまったアダの頬に優しく触れ、すまなさそうにハルは謝る。

「ううん、あれは怒られたとしても仕方ないもの……」

 アダは頬に触れるハルの手の上に自身の手を重ね合わせ、微かに微笑む。

「それに、ハルは仕事の時以外は私にすごく優しいわ。仕事で厳しくするのだって、私を特別扱いしているって、他の娼婦達が私を苛めたりしないようにするためだもの。それだって優しさだと思う」

 こいつには本当に敵わないし、勝てる気がしない。

 ハルは自嘲気味に僅かに苦笑した後、アダを抱きしめる。

「……アダ。何故、あの客を断ろうとしたんだ??何か理由があるんだろ??」

 アダは少しの間黙っていたが、やがて口を開く。彼女が客を嫌がった理由を聞いたハルは、いたたまれなくなって更に強く抱きしめた。

「……そりゃ、断りたくもなるよな……」

「……でも、レベッカみたいな売れっ子ならともかく、私みたいに人気がない訳じゃないけど、売れているとも言い難い、中途半端な稼ぎ様じゃ断るなんて許されないし……」

「…………」

 店には現在十人の娼婦が働いていて、順番で行くとアダは五番人気だった。レベッカを含む上位三名の娼婦は指名客だけでも充分稼げるので、客引きに出たりしなくてもいいが、アダを含む他の七名は店の開店から夜九時までに指名が入らなければ、街へ出て客引きに出向かなければいけない。

 ハルとしては、アダを客引きに行かせることが内心嫌で仕方なかった。

 歓楽街には犯罪者や、犯罪者予備軍がたむろしているので、いつ何時事件に巻き込まれるか心配だったし、特にここ二カ月前から娼婦ばかりを狙った、猟奇的な通り魔事件が頻発しているので、アダが客引きに出向く度にハルは彼女が戻ってくるまで気が気でなかった。

 だが、そんな心配からも、彼女を抱く客達への密かな嫉妬心からも、年が明ければ全て解放される。

「アダ。よく聞いてくれ。年が明けたら、俺はこの店を継ぐことになる」

「……えっ!?そうなの??良かったじゃない、おめでとう」

 まるで自分の事のように、アダはハルの報告を喜んでくれた。

「それでだな……。俺が店主になったら、お前を身請けするつもりだ」

 アダは、エメラルドグリーンの大きな瞳を見開いたまま、ハルの金色掛かったグリーンの瞳を凝視する。

「……でも、私、まだ借金が……」

「それも俺が払う。その代わり、俺の女房になってくれ」

「…………」

 アダは顔を俯かせると、ハルの胸に額を押し当てながら、「……嬉しい……」と呟く。

「……私で良ければ、お願いします」

「……これで決まりだな。後は、年が明けるのを待つのみだ。と言っても、あと二カ月もすれば年が明けるから、あっと言う間さ」

 新たなに開かれた未来の先には、幸せが待っている。

 この時の二人は、そう信じて疑わなかった。

 一か月後に、アダが殺されるまではーー。

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