絶望
三つ揃えの白いスーツを纏った男が、歓楽街の中を一人彷徨っている。
厳密に言えば、思いつく限りの場所へ足を向けては、ある人物の行方を捜しているのだが。
まだ初冬とはいえ、深夜の空気はぐっと冷え込みが厳しくなるにも関わらず、男の額には薄っすらと汗が滲んでいる。探し人の捜索を始めてから、すでに一時間半は経過していて、その間ひたすら歩き回っているからだ。
男は、一旦小休止するように道の端で立ち止まり、フゥッと息をつく。その際、被っていた、スーツと同じ色の山高帽を頭から取り外し、髪を掻き上げる。帽子と、ブルネットの長い前髪の下に隠れていたのは、整った甘い顔立ちと金色が入り混じったグリーンの瞳。如何にもポン引き風情、と言った派手な様相に似つかわぬ程、男は美しい青年だった。
「ちくしょう……。アダの奴、一体、どこへ消えちまったってんだ……」
男――、ハルは、一人だけ店に帰って来ない娼婦の行方を追っている。
時たま、自由の身になりたくて店から脱走を試みる娼婦もいるが、彼が探している娼婦に限っては脱走など絶対に有り得ない。
(――まさか、とは思うが……。いや、それだけは……)
ハルは先程から頭によぎる、虫の知らせを必死で否定し続けている。しかし、歓楽街の表通りは一通り見て回った。残るは、人気の少ない裏通りだけである。
(あいつ……、あれ程、裏通りには近寄るな、と忠告したのに……)
焦りと苛立ちから、つい盛大に大きな舌打ちを鳴らす。
歓楽街自体が決して治安が良いとは言える場所ではない。その裏通りなど、犯罪の玉手箱と言っても過言ではない。ましてや、ここ二か月の間、娼婦ばかりを狙った猟奇的な連続殺人が起きているというのに。
本当ならば、ハルはアダを客引きなどに行かせたくはないが、商売に私情を挟む訳にも行かない。だから彼女に、「裏通りや、人気の少ない場所には絶対に行くんじゃない。どうしても客が捕まらなければ、俺の所へこっそり来い。俺がお前を一晩買うから」と、常々言い含めていた。それなのに。
何故、アダだけがいつまで経っても店に帰って来ない??
ハルの中で、不安ばかりがどんどん膨らんでいく。
(……とりあえず、ハリソン通りやサマセット通りに行ってみるか)
意を決し、ハルは裏通りに足を向けようとしていた。
ところが、程なくしてその必要はなくなる。
表通りから裏通りへ続く、煙草屋と古い賭博場の間の路地に近づいた時、人だかりを追い払おうとしている警官の姿が目に入った。ハルの頭の中で、警告音がけたたましく鳴り響く。
あの場所へ早く行け、と言う声と、行けば後悔することになる、と言う声が同時に囁きかける。だが、ハルは行く方を選んだ。
人だかりをかき分けて、警官が人々の目から隠そうとしているモノを一目見ようと爪先立ちで現場を見てみる。長身のお蔭で、野次馬だけでなく警官の頭すらも越えて見ることが出来た。
それは、人間の死体のようだった。
ようだった、と言うのも、四肢をバラバラに切り刻まれ、最早人の形をしていなかったからだ。
目を背けるべき悍ましいものであるはずなのに、その幾つかに散らばった肉塊からハルは目を逸らすことが出来なかった。なぜなら、頭部と思わしき箇所から亜麻色の長い髪が地面に散っていたのだ。
「……ちょっと待ってくれよ……」
呆然自失となるハルに構わず、警官が「おい、邪魔だからとっとと此処から立ち去れ」と彼の腕を掴んできた。
「……お巡りさんよぉ、あの死体、俺によく見せてくれないか??」
「はぁ??何言ってる。駄目だ駄目だ、あれは見世物なんかじゃない」
「……うちの店の娼婦が一人だけ、未だに戻ってこないんだ。見たところ、あの死体は恐らく亜麻色の髪の女だ。俺が探している女も亜麻色の髪をしている。だから……、身元を確認させてくれ……」
警官はハルの腕を放し、刑事らしき恰幅の良い男に交渉しに行く。すると、すぐに刑事は承諾した。
ハルは、漂ってくる死臭と血が混ざった臭いに耐えながら、死体に近づく。顔面が叩き潰されているので、身体の特徴で確認するしかない。
込み上げてくる吐き気をどうにか堪えていたハルだったが、右脚の太股と臍の近く、左足の裏側にそれぞれ黒子があることに気付いた途端、壁に手を付き、派手に嘔吐した。
「大丈夫ですか??」
若い巡査がオロオロと狼狽えながらも、ハルの背中を撫でさする。
「……いや、余り大丈夫ではないな……」
ハルは口許を歪めて笑ったが、目は全く笑っていなかった。
「……あの死体……、間違いなく、うちの店の娼婦だ……。名はアドリアナ、周囲の人間は彼女をアダと呼んでいた……」
「証拠は??」
「……アダは、亜麻色の髪をしている。黒子が出来やすい体質で、身体のあちこちに黒子があることを密かに悩んでいた。あの死体には、彼女の身体と同じ場所に黒子があった……、少なくとも三か所は一致した……」
言い終えると同時に、ハルは壁に手を付いたままズルズルと地面に崩れ落ちた。そして、横目で変わり果てたアダを見ながら、誰にも聞き取れないような小声でポツリと呟く。
「……アダ、おかえり……」