飢えた者
夕日が沈もうとしていた。
険しい山並みの向こう側にまばゆい夕焼けの光を残して、山々の頂上をきつく照らしつけながら、ふもとの方から真っ黒な影を徐々に引っぱり上げていた。
隆々とつきあがる山地の間にはぽっかりと盆地があり、山の陰がさしていち早く夜が来ていた。
かつてはここに人間が住む村があったのだった。わさわさと生い茂った丈のたかい草が覆った景色にはそういった名残はほぼ見受けられない。最後の家屋が倒壊して土に還っていったのはもういつの頃だったか。木々でさえ自分たちと人間という生き物が一時でも共生していたことを覚えているだろうか。今は草の足元に打ち捨てられている家屋の柱をしていた木材が虫の食餌として消化され尽くすのを待っているのみだ。
日が沈み、彼のまとう光のマントも大空にひるがえってするすると山の向こうに消えて行った後、闇がやって来て大気から温度を奪っていく。冷気が地中から湧き上がり、風が攪拌した。
男は目を覚ました。普通の者が太陽の訪れを感じて目覚めるのとは逆に、彼は太陽が去ったのと同時に意識が目覚めた。男は現在の身の上になってからはついぞ日を拝んだことはなかったが、昔の記憶を掘り起こせば出てくる太陽の映像と、体が知覚する太陽が消えた感覚を重ね合わせ、不吉にして優美な夕日の光景を思い描いた。
だが、男は飢えていた。眠っている間でさえ疼痛の熾き火のように燃える体の渇望から逃れることはできなかった。目覚めてからはより意識的に自分が飢えているのを実感した。全身の血管が焼きついた砂漠を流れる細い小川となっていた。からからに渇いて大動脈以外の毛細血管は死滅しているとさえ思えた。
すでに、飢えが始まってから長い時間が過ぎていた。昨日も、一昨日も、もうずっと前から男は飢えに耐えていた。彼にとって一日の始まりは忍耐の始まりでもあった。起きている間中、歯をかみ合わせ、震える体を抱きしめて、暗闇だけを見つめて、早く次の眠りが来るのを待つだけだった。
彼の住処は、昔、人がいた時代に墓地として使われていた場所であった。今はもうどこにも墓標は見当たらないが、そこの土を掘り返せば埋葬された人間を納めた棺桶が出てくる。彼らはすでに白骨化しており、死臭も散り去っていっそ清潔であった。
男はそのうちの棺桶の一つに寝泊りしていた。夜になれば棺桶を抜け出して外に出ることができた。ただし、遠くに行くことは不可能であった。朝が来る前に自分の棺桶に戻るのが彼のようなモノの本能だからだ。外に出る目的は決まっているのだが、現在のように自分の行動範囲内に人間が一人もいない状況となっては目的を達する望みもなかった。そのため、病んだ飢えを感じていながら、男はなんら行動を起こす気にさえなれないでいた。
男は寝床に寝転び、獲物に飢えていなかった時代のことを思い起こしていた。そんなことをすれば余計に飢えが増すだけであったが、満たされない欲求が無理矢理に記憶を引っ張り出すのだった。
始まりは人間として死に、埋葬された晩のことだった。
男は、この棺桶で第二の産声を上げたのだ。土から抜け出て、最初に目に入った産婆は奇妙な風体をしていた。漆黒の体色に、角と尻尾があり、三つ又の槍のような武器を持っていた。
その産婆は言った。
「お前は生前に犯した罪を償わなくてはならない。お前からは死後の休息は取り上げられた。魂は地上に放逐され、永遠に彷徨うことであろう。お前に憐れみをかける者は一切現われず、世界から忌み嫌われ、汚れた欲望に突き動かされ、死に望みをかけることもできない。それがお前の罰なのだ。」
暗い、夜露が多い、空気の冷たい晩のことだった。
男は欲望に従い、活動を開始した。物陰に潜み、通りがかりの人間に襲いかかった。殴りつけて気絶させた後、もらうものだけもらった。命を奪いはしなかった。そこまでしなくても欲望は満たされたからだ。被害者の首筋には二個の傷が残ったが、一ヶ月もすれば消える程度の小さなものだった。
人々は、凶暴な山の獣に襲われたのだと考えた。最初の頃はそれに異論をつける者はいなかった。獣の被害は毎年あり、珍しいことではなかった。また、男の欲望の生起は散発的で、一回やれば数日は何もしなくてもよかったので、時間が経つごとに被害者は増えていたが、それほど大々的に問題にはされなかったのだ。
半年ほどは男にとって平和な時間が過ぎた。(この時のことを思い出すのが男の楽しみであったが、この後のことは苦々しい思い出であった。)
しかし、そろそろ事を不審に思う者が出てきた。被害が度重なる間、村は対策を講じていた。罠の仕掛けや、夜回り、山狩りなどをして犯人の獣を捕まえようとしたが、そんな物の影も形も探りだせず、痕跡さえ突き止められなかった。そうなると当初の山の獣の仕業という仮説は信憑性を失い、今度は視点を変えて調査が開始された。被害者の状態、事件発生の状況と傾向、またそれぞれの現場の位置関係が精密に検査され、犯人確保の捜査線がせばまってきた。そうしてついに、男は現行犯の現場を目撃された。その時はからくも追っ手から逃れられたが、男の命運は尽きていた。
村人たちはある仮説に基づき、墓地の埋葬者をかたっぱしから掘り返した。そして、腐敗していなくてはならないのに生前と変らぬ姿の男を見つけてしまった。やることは決まっていた。用意されていたハンマーと木の棒杭を用いて男の心臓を貫いたのだった。
夜、苦悶のうちに男は目を覚ました。そして、己の左胸に突き立った木の棒杭に気づいた。それなのに、男は死ななかった。あの黒い産婆の言ったとおり、男に死の休息は与えられなかった。棒杭は抜いたが、男のからだは疲労していた。吸い込まれるように男は深い眠りについた。今度は翌日の晩になっても男は目覚めず、村には本当の平穏が訪れた。
それから百年が過ぎ、ようやく男は力を蓄えた。そしてまた、前のように活動を始めた。成り行きは同じように進んだ。今度は男は全身を火で燃やされ、深い眠りについた。
次の百年後、男は太陽の下にさらけ出され、全身を焦がされた。
次の百年後、男は心臓を切り出された。
次の百年後、男は刃物で全身を刺された。
次の百年後、…………………………………。
男と人間は、絶えず闘争を繰り広げた。最後には必ず男は敗れ、葬られた。それでも、懲罰として与えられた不死は次には必ず男を地上に送り出し、不和と恐怖を広げ、人間と争わせ、男を苦痛の中に置いた。その原理を男は知り尽くしたが、それに逆らうことはできなかった。男の本能が人間を求めたし、男の性質が人間と争わせたし、男の罰則が地上から解放させてくれなかったからだ。
そして、次の百年後、起きてみると人間は誰もいなくなっていた。そこに根を下ろしていた人々は他の所に移住してしまい、村は自然に飲み込まれようとしていた。人間がいなくては男の欲求は満たされなかった。人間を求めて遠くに行くことも叶わなかった。この地が男の刑務所であったからだ。なお悪いことに、欲求が満たされなくても男は生きていられた。欲求は生の源ではなく、罰のために課せられた鉄枷であることがわかった。こうして男の飢えはつのっていった。
あんまりにも気持ちがくさくさして、回想にふけることも嫌になった。男は身じろぎし、外に行くことにした。
土から出ると、雨がしとしと降っていた。冷たい雫が疲労した体を無情に打ちつけた。夜の雲は闇よりも黒い。男は刑罰の鞭を思った。降り落ちる雨は男にとってはしなる鞭の音だった。
天が与えてくれるものなら火でさえありがたい。何者からも見離される寂しさに比べたら痛みでも恋しい。雨雲に隠れて月を見ることはできない。太陽から離された男の身では月光と星光だけが高きを仰ぐ唯一の対象であったのに。男の手につかみえるのは墓地の土だけであった。
男は草の間を這い進んだ。過去の度重なる闘いの後遺症が体に歴然と刻まれていた。左胸に穴が開き、体は黒く焦げ、頭髪は一本もなく、顔面から頭部にかけてひどい火傷があり、くちびるもまぶたも焼け落ちて、足はねじり曲げられ、手を動かすのがやっとだった。
これが男の現実であった。こんなことが未来永劫続くのだ。人間が滅び去った後でも、男は変らず激しい飢えのために起き出して、すべてに見離された虫けらのように辺境の片隅の草地のうえを這い回る運命なのだ。そのことを思うと男は声を上げて泣きたくなる。しかし、涙を流すことはできない。彼の体は生きた人間のような反応を示すことはできないのだ。声をあげるとむなしい反響が空間にこだまして己の胸の内にはねかえり、しばらく飛びはねた後、徐々に錆びていく。それから、また忌々しい飢えがおしよせるのだった。
雨に濡れた草のにおいが鼻にふたをしていた。男はその中に自分が求めてやまないある芳しい匂いを嗅いだ気がした。男は知っていた。それが、地獄の飢えのためにおこる幻であることを。何度、彼は幻にだまされて偽りの希望にむかって駆け寄り、それが蜃気楼でない証拠を見つけるために盲滅法になったあげく、増大した飢えと疲労を抱えて迫りくる朝から逃げ帰ったことだろう。何度も同じ目にあい、またそれがくると懲りもせずに望みをかけて、結局裏切られるのだ。
だから、わかっていることだった。これもまた幻の匂いで、蜃気楼のオアシスに過ぎないことを。だが、それは意味のないことだった。砂漠の放浪者が、たとえ幻影に過ぎずとも、泉を目にしてそちらに行かないことがあろうか。極限の渇きをいやすために徒労を犯さない者がいようか。少なくとも、男の理性は彼を抑えることはできなかった。
男の向かう先には倒壊寸前の小屋があった。昔、墓守の番の者が寝起きしていた粗末な建物だった。未だに形を保っているのが奇跡だった。
男は自分の目を疑った。その小屋の中に小さな明かりが灯っているようだったからだ。
誰かいるのだろうか。もしかして、人間? いやいや、まさかな。目まで幻にだまされているのかもしれない。しかし、確認しなくては……。
男は小屋に這い進んだ。徐々に速度が速まった。幻覚かという疑いは次第に縮まり、最近にない熱々とした希望が膨らんできた。小屋には間違いなく明かりが灯っていた。それは、何者かがそこにいるという確固とした証拠であった。人間が、男が猛烈に求めていた人間がいるのだった。
小屋の戸口のそばまで忍び寄り、そっと中をのぞいた。明かりの正体は石の上に設置された一本のろうそくであった。風にゆれてかぼそく柔らかな光を投げかけていた。その近くにいたのは一人の少女だった。ろうそくのそばに縮まり、積まれたわらの束を背にして目を閉じていた。
男は躍り上がらんばかりの歓喜を感じた。わが身を責め苛んでいた飢えが今度は強大な力に変化して体を動かそうとした。だが、いきりたつ心とは反対に痛めつけられた肉体は思うようになってくれなかった。立ち上がろうにも足が言うことをきかずばたばたするだけで、小屋の壁に手をついて起き上がろうとしたが、手がすべり無様にも転倒してしまった。
しかも、無用心にもそのときに大きな音をさせてしまい、少女は驚いて眠りからさめてしまった。(場所が場所だけにそれほど深くは眠っていなかったらしい。)
「誰かいるんですか?」
少女は戸口を見すえて身構えた。不安のために怖ろしそうな表情をしていた。
男は心底情けない気持ちになった。目の前に彼の目的があるのに、彼の体はすでに欲求を満たすに足る力を残していないのだ。このままでは、たとえ襲いかかれたとしても、この少女のきゃしゃな手足ででも簡単に突き飛ばされてしまうだろう。
万事休すだ。こうなったらどうにでもなれ。
男はやけくそ気味な行動に出た。
「私に………あなたの持っている物をくれませんかねぇ………」
男はかすれたかぼそい声をしぼり出した。よりにもよって獲物に声をかけるなんてどうかしているとしか言えないが、このときの男はやはりやけになっていたのだ。
「まあ、あなたはどういう方なの? 姿を見せてください。」
「いいえ、いけません。あまりにも目に毒です。」
「そうおっしゃらずに。わたくしは平気ですわ。」
平気だと? ふん、小娘が。ようし、それならひとつめいっぱい怖がらせてやるかな。
男はずるずると地面を這いずって明かりのもとにきた。
少女は目を見開き、無意識のうちに一歩後ろに下がった。
「ひどいわ。これは一体どうしたことなの。」
「見ての通り、私は立つこともできないのです。」
「こんなひどいこと、誰にされたんですの?」
「たくさんの人たちにですよ。」
「でも、なぜ?」
「悪いことをしたからですよ。私は悪者なんです。これがその罰ですよ。」
「こんなことをされるなんて、あたはよほどの事をしでかしてしまったのですね。それでも、これほどの傷を負って生きておられるなんて、神様の慈悲ですわね。」
男はその言葉を聞いてぶるりと震えた。
「やめてください………神様の話などしないでください………」
「なぜですの? わたくしたちが今生きていられるのだって………」
「やめてください! やめてください!」
男は枯れた喉の底から声を限りに少女の言うのを遮った。あまりの調子は少女は変に思ったが、怯えきった様子の男を見てかわいそうになり、それ以上はやめることにした。
男はあらためて少女を見上げた。骨が浮き出るくらいにやせこけた貧しいみなりだった。少女の衣服は薄汚れ、くたびれていて、彼女が長い間苦労を重ねてきたことが如実に現われていた。その上から雨風を防ぐための合羽のようなものをかぶっていた。その服装は旅人にも山越えの人にも見えず、まるで町中の少女が小一時間外出する際の出で立ちであった。見ると靴も泥まみれ、ぼろぼろ、穴も開いていた。
男は奇怪な存在であったが、少女もまた奇妙な存在であった。
「失礼だが、あんたは何者ですか? どうしてこんな辺鄙な場所に? それにあんたの外見は、貧乏な家の娘っ子のようだが、あんたには全然似合っていない」
少女には、その出で立ちとは裏腹に気品のようなものが漂っていた。
「わたくしは旅をしていました。」
「いいえ、そんなはずはありません。だって、あなたはどう見ても旅人には見えない。」
「持ち物は道中で人にあげてしまったのです。全部あげてしまって、最後に残ったのはこの服だけでした。」
「盗賊か、追いはぎにでもあわれたのでしょうか?」
「いいえ、そうではありません。わたくしの方から人にあげたのです。」
「わかった。あんたは修道院の方でしょう。」
「いいえ、おそれ多い。わたくしはもっと下等な人間ですわ。」
男は少女に対する嘲りを覚え、それを隠せなかった。
「下等な………ね。高貴なヤツほどそうやって自分を低く言うものです。」
男の嘲笑に少女は少し傷ついた表情をした。
「どうして、わたくしを高貴などと?」
「見ればわかるのですよ。本当の、下等な者からすればね」
少女は少しうつむき加減にして言葉を切った。そして、ぽつりぽつりと呟いた。
「わたくしは………恥ずかしいですわ。」
「何がです?」(面白い。小娘の身の上話でも聞いてやろう。)
「わたくしは、大金持ちの家に生まれました。父がやり手の商人で山ほどの財産をもっていました。わたくしは生まれたころから使用人さんや小間使いさんに囲まれて育てられました。それで、わたくしは教育を受けるとすぐに思いました。ああ、自分たちはなんて罪深いのだろうと。わたくしたちは、自分の物ではない富を自分だけの物のようにして好き勝手に独占しているのです。父は吝嗇家で、わたくしはその父を恥じました。母は着飾るのが大好きで、わたくしはその母を恥じました。わたくしの周りにいる人たちの傲慢な態度を恥じました。町の人たちのわたくしたちに対する眼差しを恥じました。富裕なことそれ自体を深く恥じ入りました。そこで、わたくしは自分が持ち出しえる物をありたけ持ち出して家を出ました。それからずっと、わたくしは物を持たない人たちにわたくしの持ち物をあげながら旅をしてきたのです。」
口を閉じた少女を、男はじっと見つめた。はたして、彼女の話は真実だろうか、嘘だろうか。にわかには信じがたい話であった。そんな人間が存在するのかさえ想像したこともなかった。彼女の口ぶりには迷いはなく、明瞭であり、嘘を言っている素振りはみじんもなかったが、それが逆に、今度は彼女の精神が変調を来たしているのではという疑問にも逆転した。また、嘘であったとしても、こんな辺境で、この男のような人間離れした存在に、わざわざ虚栄を言い張る必要もないのだった。真実であれ、虚偽であれ、少女はおかしいという結論になるのだった。
だが、急に男は一切がばかばかしくなった。この少女がどういう人間で、どのような事情でこんな所にいるかなど自分には関係がない。それよりも自分は最初の目的を忘れている。何より大事なのはこの飢えを何とかして癒すことではないか。
男はある発想にいたった。そして、それを実行したくてたまらなくなった。こうすれば、少女に対する疑問も、男を現在悩ませている問題もいっきに解決できるのだ。
「では……それでは、あんたは俺にもくれるんでしょうね? 他の連中にあげたっていうなら、この俺にだって差別せず、あんたの持っている物をくれるんでしょうね?」
「ああ、わたくしに何が差し上げられるというのです? 今あなたが必要としている物はわかっています。しかし、残念ながら、わたくしには医術の心得はありませんわ。」
「ちがいます。そんなものではありません。」
「お金ですか? 食べ物ですか? わたくしは本当に何も持っておりませんのよ。食べ物だって、川の清水と野の花よりほかはもう何日も口にしておりませんのよ。」
「そうではありません。俺があんたから欲しいのは、血ですよ」
少女は硬直して何も言えなくなった。男はその様子に笑わずにはいられなかった。人をおどかすのは小気味がよい。特に小心な幼い者が相手だとなおさら。数百年、闇に生きた生活が男にそんな習性を与えたのだった。
「血………? なぜ………なぜですの?」
「くくく……………あんたは俺が何に見えますか? かわいそうな傷病人? 貧しく清い物乞いですか? 俺はね、この辺を根城にしている恐ろしい吸血鬼なんですよ。世にもいとわしい夜の怪物なんですよ!」
少女は顔色が白くなり、膝から力が抜けてへなへなと座り込んでしまった。
「どうしました? 恐れました? ははあ、怖がっていますね。無理もないでしょう。でもね、実は俺のほうがずっと恐れているんですよ。あんたが今にもここから逃げ去ってしまわないかとね。どういうことかというと、見ての通りおれが不自由な体をしている。これはあんたを油断させるための見せかけなんかじゃなく事実なんですよ。信じない? まあ、どっちでもよい。とにかく俺はあんたを恐れている。あんたが立ち去ることをね。あんたがいなくなるとおれはまた飢えなくちゃならなくなる。それがたまらないことなんですよ。分っていると思うが、この地にはもう俺が血をいただける人間がいなくなってしまった。そのおかげで俺はもう何年何十年も飢えっぱなしなんです。もう地獄の責め苦ですね。苦しくて苦しくてなりません。いっそ死んでしまいたいくらいだが、それはできない。本当はね、あんたを見つけた時には即座に襲いかかって事を成し遂げようと考えてたんですよ。でもね、こんな体ではあんたのような小娘にだって負けちまう。情けない限りですよ。だから、頼みますよ。あんたの方から俺のところに来て血を分けてください。大丈夫、命を取ることはしません。そこまでの血はいらないのです。本当ですよ、信じてください。お願いします。ほんのちょっぴりで良いのです。あんたの首筋を、俺の口に。どうか、どうか、お願いします!」
これほどの長広舌が、疲れ切った男の喉から出てくるなど自身でも意外に思っていた。それに、物乞い口調もなかなかどうにはいった調子だった。実は、自分が思っている以上に男は乞食になっていたのだ。
それでも、男は自分の願いが叶えられるなどとはこれっぽっちも思っていなかった。そして、それはそれでも良いとさえ思った。もし少女が自分の願いを一蹴し、この場を去るならそれは彼女の信念を挫き、勝負に勝ったことになる。いつのまにか、男の中ではこれは少女との賭け勝負になっていた。どっちに転んだところで男の勝利になるというおいしい対決であった。
さあ、どうでる?
男は挑戦する気持ちで少女の出方を待っていた。
ややあって、少女は口をひらいた。
「二つだけ、聞かせてください。どうしてあなたは………そんなになってしまったのですの?」
「どうして? それはきっと………俺がこうなる前に犯した罪のせいでしょうね。」
「なんの罪ですの?」
「人間がここまで落ちなくてはならないほどの醜悪な大罪ですよ。それ以上言うつもりはありませんね。」
「では、もうひとつ。わたくしが、それをあげたら、あなたは救われるのですの?」
「そうですね………。少なくとも一時的には今の俺の苦しみは去ります。もっとも、時間が経てばまた元通りですが。」
そう、本来、これは割に合わない申し出なのだ。彼女にとって得になることなど何もない。そして、それは男にとっても同じ。少女の血が、彼を本当の意味で救うことはない。
少女は少し考えていた。しかし、やがて、そろそろと動き出し、男に近づいていって、男の要求に従い、首筋をさしだした。
今度驚いたのは男の方だった。むしろ恐ろしげな表情さえして少女を見つめた。
「何をしているのです? ははは、まさか冗談でしょう。」
「わたくしの…………血をお吸いください」
「ばかな! ああ、なるほど! あなたは自暴自棄になっているのですね。俺に血を吸わせて、自殺するつもりでしょう!」
「そんなこと………思っておりませんわ。」
「じゃあ、どういう真似です! 今まで、こんなことをした人間はいませんよ! こんなことをする理由を教えてください!」
男は、自分から言い出したことにも関わらず、少女の行動を理解できないばかりにどうしても口をつける気にはなれなかった。目の前の少女が、自分よりも怖いものに見え出していた。
「理由は、あなたが憐れだからですよ。」
「憐れ?」
「あなたはきっと、神様に見離されてしまったのです。それはどんなにつらいことでしょう。この世の何もかもから嫌われてしまって、それで悲しくないなんてことがあるでしょうか。あなたは、たくさん悪いことをしてきたのでしょうね。わたくしはそれを知りたいとも思いませんし、裁こうなどとも思いません。だって、そんな悪行に身を染めることがどれだけつらく、身を切られる思いがするか、わたくしでは思いも及びませんもの。あなたは今まで、罰を受けてきたのですね。それに耐えてきたのですね。わたくし、祈りますわ。あなたのために祈ります。神様があなたを見てくださるように。たとえあなたが望まなくても、わたくしが祈りますわ。あなたの罰が赦されて、天国の光があなたに照りますように。」
「だから、俺に血をくれるというのですか? 俺が憐れだから?」
「それ以外にはわたくしに出来ることはありません。神様でないわたくしが、どうしてあなたを救うことができるましょう。あなたを救うことができるのは神様だけですわ。わたくしはそれをお祈り申し上げるしかありません。あなたの救いがいつ遂げられるのか、わたくしにはわかりません。ですが、どうか耐えてください。そして、頑張ってください。あなたの上に神様のご加護がありますように。」
少女はもう何も言わず、黙って首筋を男の方にさらけ出した。彼女が怯えているのは目に見えてわかった。汗が浮き出て、細かく震えていた。何度もツバをごくりと嚥下していた。
男は少女の首筋を見た。白い肌の下を通っている青い大動脈を。そこに息づいている生命を見た。そっと顔をもたげ、口を開けた。獣類のように鋭く長い犬歯が火の明かりにきらりと光った。
今にも噛みつこうとした、その瞬間だった。男の中で、突如として大きな満足が広がった。それは男の全身を満たし、いや、棺桶で目覚めたあの日からずっと渇いていた魂を潤した。血を飲んではいなかった。それなのに、男はすでに飢えをまったく感じないほどの充実を得ていたのだった。欲求は急速に去っていった。男は口を閉じて、身を引いた。
目を閉ざし、口をきつく結んで耐えていた少女は、予想していたショックがいつになっても来ないので、そっと目を開き、男を見た。
「やっぱりいい。許してくださいね。」
男は地面を見ながらそれだけ言うと、這いずって小屋から出て行った。
少女は彼を思いやるどころではなかった。緊張がとけてぐったりと身を横たえ、そのまま意識を失ってしまったからだった。
男は来たのと同じく草地の中をいも虫のように進んで墓地に向かっていた。ただし、来たときとは逆に、男は飢えからくる苛立ちも、疲労も感じていなかった。むしろ穏和なあたたかい感情が胸の内にたまっていた。こんなことは初めてだった。人間だったころも、その後も、一回も感じたことのなかったものが彼を満たしていたのだった。
「お前に憐れみをかける者は一切現われない。」
男はあの黒い産婆の言葉を思い出していた。そして、少女のことも思い出した。男の中には新しい力が湧いてきて、墓地への帰り道を急がせた。
やがて、墓地に帰り着き、棺桶におさまった。まだ朝が来るには遠い時間であった。それでも彼は早く眠りたがっていた。男は予感していた。もういつものような飢えと疲労に彩られた不快な眠りではなく、安静な眠りが待っているであろうことを。
棺桶に横たわると、そこが眠る上でこれ以上なくくつろげる場所であることを初めて知った。これまで何百回も寝起きした場所であるのに、男はそれに気づけていなかったのだ。
「あなたのために祈りますわ。」
少女が言っていた言葉を思い出した。それが薄れゆく意識のなかで最後まで彼が握りしめていた花束であった。
ああ、もう大丈夫なんだ……………………。
男がいるのは、昔、人がいた時代に墓地として使われていた場所であった。今はもうどこにも墓標は見当たらないが、そこの土を掘り返せば埋葬された人間を納めた棺桶が出てくる。彼らはすでに白骨化しており、死臭も散り去っていっそ清潔であった。
終