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脳みその雨が降る

作者: 水芭蕉猫


「ご主人は一体、何をしているのかな?」

 テーブルの下で犬が首をかしげて聞いてみると、テーブルの上に座った鳥が得意げに教えてくれた。

「脳みその雨を降らせているのさ」

 いつもの鳥の言葉にふぅんと頷いて部屋を仕切るドアを見る。

 ご主人の部屋は、誰にも見られちゃいけない部屋だ。

 犬はテレビとソファとテーブルと回し車の置かれた真っ白な部屋の中で、いつもご主人が出てくるのを待っている。

 テーブルの色は白。革張りソファの色も白。テレビの色も白い色で、ご主人の居る部屋のドアももちろん白。真っ白な部屋の中では、犬と鳥だけ色がついていた。

「ねぇ鳥、いつも聞いてるけど、脳みその雨ってなんだよ」

 犬は脳みその雨を知らない。脳みそも雨もわかるけど、脳みその雨って何だろうと思う。毎回、ご主人があの部屋の中に入るたび、鳥に聞いてはみるけれど、鳥は知ってるくせに教えてくれない。

「ご主人にしか出来ない事さ。俺らみたいな鳥や犬には関係ないことだよ」

 そう言って、鳥は意地悪くクククククゥと笑う。緑色の羽の生えた手のひらで、くちばしのように尖った唇を抑えて笑う姿は何だか少し不気味だなと犬は思う。

「まぁいいや。テレビでも見よう」

 鳥が意地悪なのはいつもの事で、それ以上教えてくれないことを知っている。真っ白なリモコンを手に取って、白い回し車の隣にある真っ白なテレビに向かって電源を押すと、ブゥオンという音がして白い画面に色が付く。かかっているのは何時も似たような映像だ。

「今日の虹は、黒が真ん中なんだねぇ」

 犬が感心して頷くと、犬の頭にとまった鳥が「珍しいこともあるもんだ」とテレビ真っ黒い縦筋を見ながら言っている。鳥は犬が来るずっと前よりも家に居るらしい。その鳥が珍しいというものだから、相当珍しいのだろう。

 テレビの画面に浮かんだ虹が、右へ左へ揺らめいている。真っ白い部屋の中、赤や黄色や青を見られるのはテレビの画面だけだった。いつもは黒は両端で、原色が真ん中に来ることが多いけど、黒い色が真ん中で揺れるのは普段と違ってちょっと面白い。

「ねぇ鳥、どうしてここにはテレビと僕たち以外に色が無いのかな?」

 波のようにゆがみ続ける色の光を吐き出す画面を見ながら犬が尋ねると、鳥はそんなことはとっくに知ってるという風にまたクククゥクククゥと低く笑った。

「そりゃお前、ここが夢の国に他ならないからなのさ」

 笑いながら得意げに言う鳥を見て、その度に犬は『鳥』という生き物は、どうしてこんなに不気味なんだろうと思った。


 ○  ○  ○


 子犬の頃は覚えてない。

 気が付くと、この真っ白い部屋に居て、ご主人と鳥が居た。

 ご主人の体は犬よりずっとずっと大きくて、その肩にとまった鳥が偉そうにふんぞり返ってる。

「よう犬。一応挨拶してやるぜ。俺は鳥だ。お前よりも『ご主人よりも』ずっと前からここにいる。ご主人と俺に粗相があったなら、お前はたちまち廃棄だぜ」

 そうしてまたクククゥと笑う鳥の頭を小突いた主人は無言のままで、犬の優しく頭を撫でてくれた。

 無機質な部屋の中、犬は手のひらの暖かさだけは覚えてる。

 ただ、どうしてだろうか。

 ご主人が犬を見る顔を見て、犬は何故だか胸の底がきゅうっと締められる感じがした。


 ○  ○  ○


「飯は一日二回。テレビは見放題。運動したくなったら、まぁ回し車でも回しとけ。ご主人が部屋に居る間は絶対邪魔するんじゃないぞ。質問は?」

 早口な鳥に聞かれたが、質問なんてそんなに急に出てこない。

 たっぷり十秒くらい考えてから、おずおず「あの、おトイレはどこですか?」と聞いてみると、鳥はこれも早口に教えてくれた。

「便所は回し車の後ろのドアだ。小穴があるからそこにしな」

 回し車の後ろには、なるほどよく見ると確かに小さなドアがある。犬の背丈の半分くらいのドアをそっと開くと、これもやっぱり白い部屋。だけど、広さは居間の九分の一くらいだし、白いタイルの真ん中に小さな穴が開いてるだけだ。中をそっと覗いてみると、底は暗くて全然見えない。それからもう一つ気になることがある。

「ねぇ、匂いがしないんだけど……」

 頭の上にとまった鳥に聞いてみると、鳥はまるで馬鹿にするようにクククククゥと笑って言った。

「匂い? 何言ってるんだお前、匂いなんてまだお前にはもったいないだろ?」

 言われて犬はそこで初めて気が付いた。

 そういえば、鳥にも自分にもご主人にも、白い食事にも匂いなんてついてない。

「まぁ、便所なんて本当は必要ないけどな」

 そこでまた鳥は笑う。

 クククゥ、クククククゥ。

 何が面白いのか、笑い続ける鳥を見て、犬は不気味な奴だなぁと考えた。


 ○  ○  ○


 そもそもやることのある日なんかないけれど、やることのない日は寝てるか鳥と取り留めのないことを喋っているか。

 ご主人は一日二回、犬と鳥に食事を用意してくれるが、それ以外は大体外に出ているか、自室で『脳みその雨』を降らせているか、無言でテレビ横の回し車でクルクル走っているかの大体どれかだ。

 ご主人が出ていくときには真っ白い玄関のドアから隙間が覗けないかと試してみるが、主人はするりと小さな隙間から出てしまう。外から入る空気は少し冷たいが、匂いはやっぱり解らない。

「ねぇ鳥、ご主人は一体どこに行ってるの?」

 テーブルの下で白くて柔らかい食事を食べながら、テーブルの上で何かを食べている鳥の声だけが聞こえてくる。

「脳みその雨の材料を取りに行ったんだろう?」

「ふぅん。脳みその雨って材料が必要なの?」

 すると鳥は心底馬鹿にした様子でまた笑う。

「そんなの、当たり前だろう? 材料が無くちゃ雨なんて降らせられるかよ」

「えぇと、それはつまり、雨を降らせるにも水が必要ってことなのかなぁ?」

 犬がぽつりと尋ねると、鳥は少し驚いたように瞬間黙りこむ。そしてバタバタ、テーブルの上から降りてくると、緑の体を反らして犬の顔をまじまじ見つめた。それからニヤリと口の端を歪めると、犬の足を短い脚でドカリと蹴った。

「お前、ちょっとお利口になったじゃねぇか」

 そんなに痛くは無かったけれど犬がびっくりしていると、鳥は再びテーブルの上に戻って行った。

 いったい、何だったんだろうと思いながらまた食事をとってると、そこではたりと思い出す。

 そういえば、どうして僕は『雨』なんてことを知っているんだろう。


 ○  ○  ○


 白い部屋には窓が無い。なのに外には、空があることを知っている。

 空は青いことも知っている。青がどういう色かも知っている。

 鳥が鳥だと言うことも、緑という色だというのも知っている。

 外には水の雨が降る。

 晴れたり曇ったり、時々テレビみたいな虹も出る。

 自分は、見たことも聞いたことも無いハズのことを知っている。

 鳥との食事を終えてから、犬は少しずつ自分の置かれている状況を疑問に思うようになってきた。

 確かにここの暮らしは悪くない。だけど、どうして自分は知っているんだろう。ここに来る前はどこに居たんだろう。そして、どうして今になって気になって来たんだろう。

 鳥にそのことを聞いてみると、鳥はやっぱり笑うだけ。

「それは、お前がお利口になってきている証拠だよ」

 そう言われたところで、何が何だか犬にはさっぱりわからない。ぐるぐるぐると考えるそのうちに、犬は苦しくなり始めた。どうしてどうしてどうしてと、どうしてが体を破ってあふれ出そうで苦しくって仕方ない。

「ご主人、どうして僕はここにいるのでしょう?」

 ある日たまらず、部屋から出てきたご主人に向かって問うてみたが、ご主人はちらりと犬を一瞥しただけで、回し車を五分ほどカラコロカラと回してから再び部屋に入ってしまった。

「ご主人、ご主人、僕は一体なんなのでしょう? どうして何も知らないはずなのにこんなに知っているのでしょう?」

 ご主人が回し車を回している間、犬は回し車の前に座り、そうしてずっと聞いていたが、ご主人は犬など居ない風だ。

 部屋の中にご主人が帰った後も、犬はずーっとドアの外から聞いていた。

「どうして、どうして僕は知っているのでしょう? 僕はどうしてここに居るんですか? 僕はどこから来たんですか?」

 ドンドンとドアを数回叩くと、鳥が慌てて飛んできて、犬の頭に思いきり爪を立てた。

「バカかお前! ご主人の邪魔したら廃棄って最初に言っただろうが!!」

 鳥に怒鳴られ、犬がしょぼんとしょげ返る。

「ごめんなさい。でも、僕って一体誰なの? どこから来たの? どうしてここに居るんだろう? ねぇ、鳥は知ってる?」

 弱弱しく尋ねると、鳥はフンと息を吐く。

「ちょっとお利口になってきたと思ったら、どいつもこいつもすぐ『こう』だ。まったくもって、実に下らんことで悩みだす」

「でも、僕は知りたいよ」

 それでも鳥に食い下がると、鳥はイライラした声で言う。

「知ってどうする? 知ったところでどうなるんだ? 知っていようが知っていまいが、お前に意味は無いんだぜ?」

 でも、でも、と小さく言ううちに、鳥は「話はこれでおしまいだ」と言ったきり、テーブルの上にパタパタ行ってしまう。真っ白な部屋に取り残された犬はただ一人、ドアの前で項垂れた。


 ○  ○  ○


 ドアの中から声がする。

 ご主人が外に出るとき困らぬよう、ドアの隣の壁でうとうとしていると、中からこそこそ声がした。

「だから、……にはもう……無理だよ」

 なんだろう。

「納期に……無理だ。廃棄に……あれは……いい」

 そっとドアに耳をくっつけると、中からご主人の声がする。ここへ来てから初めて聞くご主人の声に、犬はごくりと息をのむ。

「あの子も………してくれ」

 ところどころで聞こえないご主人の声。中で誰と話しているんだろう。でも、ご主人以外にこの部屋には居ないはずだよね? だってどんなに耳をすませてもご主人の声しか聞こえないもの。

 誰も見ていないのに、犬が首をかしげると、『雨なんてもうたくさんだ!』と怒鳴り声が聞こえて犬は死の程びっくりした。体がびくんと飛び上がるが、それでも足音が聞こえてすぐ我に返る。

 驚いてドアの前から飛び退ると、内側からドアが開き、中からご主人がのそりと出てきた。

 ご主人はじろりと犬を一瞥すると、それだけでやっぱり何もなかったように外へ出てしまう。

 どうしたんだろう? ご主人は誰と話をしてたのだろう?

 ご主人が出ていくのを見送って、犬があたりを見回してみると、いつも絶対ありえないことが起きていた。

 ご主人の部屋へ続く、あの真っ白いドアが、ほんの少し開いていたのだ。

(ダメだよ。あの部屋はご主人の部屋だから、勝手に覗いちゃだめだよね。ダメに決まってる。でも……)

 心の中では思うけど、犬は好奇心に抗えなかった。

 一体、今さっきご主人は誰と話していたんだろう?

 この部屋にはない窓があって、誰かがそこから入って来たてたとか?

 今ならまだ、誰か居るかもしれない。居ないとしても、窓から外が見られるかもしれない。

 隙間に誘われるようにして、そうっとドアの間から覗きこんでみる。中が暗くて解らないから、少しだけと自分に言い聞かせながら中に入ってみる。

 驚いた。

 ご主人の部屋の壁の部分には、一面本がぎっしりと並んでいた。赤や青のや黒や白やいろんな色の背表紙。大きいのや小さいのや、中くらいの本たちの、そのうちの一つをそっと指先でなぞってみると『動物図鑑』と読めて犬はもう一度驚いた。

 文字なんて、見たことも無いのに読めたのだから。

 それから、部屋の真ん中に転がっている大きなスイカはなんだろう。

 好奇心の赴くままに、白いタイルの床に転がり落ちている黒と緑の縞模様のついた丸い球に近づいてみると、それまで黙っていたスイカは突然真っ赤な口をあけ、犬の頭に噛みついた。

 驚いてしりもちをついた。外そうとしてスイカを引っ張ってみても、スイカは犬の頭に噛みついたままびくともしない。そのうち、頭の中にごうんごうんと鈍い音が響きだし、自分はこのままスイカに食われて死ぬんだろうと犬が思った時だ。

 脳みそに、雨が降る音がした。

 ざぁざぁ、ざぁざぁ

 不思議なノイズが流れ続けるそのうちに、真っ暗だった犬の視界は少しずつ綺麗になっていく。

 真っ白な世界だ。

 何もない、真っ白な世界が目の前いっぱいに広がっていた。

 ここはどこ?

 思ったとたん、目の前に文字が浮かんでいた。手を伸ばせば、触れられそうな近い位置に黒い文字はこんな具合で並んでる。

『空の色は、どんな色?』

 お空の色は、青い色。

 反射的に思ったとたん、上から雨が降ってくるのに気が付いた。

『空の、色は、青い、色』

 文字の雨は、こここん、と犬の頭にぶつかって、はじけて消えた。途端、頭上に広がる青い色。

(なんだこれ)

 犬の心が躍っていた。わくわくドキドキした気分に、両手を上げてくるくると回ってみた。ふわふわ浮いた、少し頼りない気分に下を向くと、そこはやはり白い世界。

 だから犬は小さく唱える。

『地べたは茶色』

 再び空から落ちてくる。犬の頭に当たってここんと落ちると足に広がる地べたの感触。

 青と茶色の二色の間で犬はくるくる回ってた。楽しくて、自分以外の色がこんなに鮮やかだなんて、とても懐かしくって仕方ない。

 きゃっきゃと楽しく笑っていると、何もしていないのに空から文字が落ちてきた。

『鳥が、犬を、突くのです』

 文字は緑の鳥へと変化して、犬の頭を固い唇で突きだした。

「痛い、痛いよ!!」

「お前、誰だ?」

 慌てて犬が逃げだすと、追いかけてきた鳥は黒い無機質な目を向けて、ぎろり犬を睨みつける。

「え、僕はい……」

 犬ですよ。と犬が自己紹介をしようとした時、後から後から雨が降ってきた。

『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を突くのです』『鳥が犬を………。

 すべての雨は鳥となり、寄ってたかって犬を突き出した。

「カエレ」「カエレ」「オマエノハ」「ツマラナイ」「カエレ」「カエレ」「カエレ」「オマエノハ」「ツマラナイ」「カエレ」「カエレ」「カエレ」「オマエノハ」「ツマラナイ」「カエレ」「カエレ」「カエレ」「オマエノハ」「ツマラナイ」「カエレ」「カエレ」「カエレ」「オマエノハ」「ツマラナイ」「カエレ」「カエレ」「カエレ」「オマエノハ」「ツマラナイ」「カエレ」

「わぁ、やめてよ! 痛いよ!! 突かないでよ!!」

 体のあちこち、頭と言わず耳と言わずを引っ張られたり突かれたり引っ掻かれたりで、犬がたまらず逃げ出すと、緑の鳥は笑いだす。げげげとかぎゃぎゃぎゃとか。これならまだウチの鳥の方がましじゃないかと思えるような不気味な鳥の笑い声に犬が耳を塞いでいると、そのうちの一羽が犬の前に立っていた。

「お前、初心者?」

 くぐもった青い鳥の声。涙目の犬がこっくりと頷くと青い鳥は「そか」と短く言った。

「そんなら、練習場にでやれ。初心者の雨は、ヒトの脳に悪いから」

「練習場?」

 犬が尋ねると、鳥がくわっと口をあけ「練習場」と唱えると、『練習場』の文字がココンと地に落ちてきた。瞬間、空の青も地の色もすべてがぐるりと消え失せて真っ赤なクレヨンで描かれた子供っぽいうず巻きが真っ白な空に現れる。

「ぐるぐる太陽、練習場。上手くなったら勝手に俺らが消すから」


 ○  ○  ○


 ご主人が部屋を出ていくと、犬は部屋へとこっそり忍び込む。

 本当はいけないことだと解ってる。だけど、脳みその雨を降らせる楽しさを知った犬にはこの楽しさに抗えない。

 慣れたようにスイカを被り、真っ白な世界で好きなことを塗りたくる。最初は空の色や地べたの色を一色、青や茶で塗りたくったりするだけだったが、そのうち文字を複雑に組み合わせれば組み合わせるほど複雑な情景を出せることがわかってきた。

 例えば、青い空の色と降らせると、青一色が天井に塗りたくられるのが、夕焼け模様の空の色、と降らせると、とろけそうな太陽から放たれる、橙色から闇色へと変わるグラデーションが出来上がる。

 そのうち、登場人物を数人出して人間模様を描いてみたりすると、これがなかなか面白い。

 残念ながら、自分と登場人物は話が出来ないけれど、彼らにストーリーを与えることが犬には出来た。

 彼と彼女をくっつけたり別れさせたり、『愛してるよ』と囁かせたり、『私はあなたが嫌いだわ』と言わせたり。

 たまに詰まってしまうけど、そんな時はご主人の部屋の本を読む。図鑑を見ては知らない生き物を知り、知らない言葉を知り、知らない言い回しを覚えていく。頭の中に知識が増える。

 脳の雨を貯めるとは、たぶんこういうことかもしれないと犬は思う。

 そのうちどんどん、降らせられる雨の量は増えてくる。

 複雑な情景や模様が出来ればできるほど、やってくる鳥は「まぁまぁだ」とか「全然だめだな」とか「結構面白い」とか勝手なことを言っては去っていく。

 それがとても楽しくて、犬はさらに雨を降らせた。

 どんどん、どんどん犬は言葉を降らせることが上手くなり、最近では降らせる言葉は豪雨のようだ。

 空の上から、ざらざらざらと降る雨は、地べたに落ちてはじけて溶けて色になり形になり、人になり情景になり感情になり、怒ったり笑ったりを繰り返す。

 脳みその雨が織りなす情景の山たちに、鳥は楽しげに笑いながら「おもしろいおもしろい」と口々に言いだして、とうとう空からクレヨンの太陽が消えていた。

「くひひ」

 犬はいつもの白い部屋の中。ご主人は脳みその部屋の中。

 テーブルの下で犬が思い出し笑いをしていると、鳥がテーブルの上からひょこりとさかさまに頭を出した。

「よう犬、お前、最近ガンガン脳の雨を降らせてるらしいな」

 小声で鳥に言われると、犬は小さく頷いた。

「うん。脳みその雨って楽しいね。昨日は沢山褒められちゃった」

 もう一度、昨日鳥から褒められたことを思い出し、犬が「くひひ」笑うと鳥は「クククククゥ」と不気味に笑った。

「そんなら、お前はもう犬じゃねぇな」

 鳥の言葉に「へ?」と犬が首をかしげると、鳥は嫌な笑いを見せながら犬に向かって小さく言った。

「お前、犬が脳みその雨なんて降らせられるわけねぇだろう。それが出来るってことはお前はもう犬じゃねぇよ」

 真っ黒な、全てを吸い込むような瞳で犬を見る。

「僕が犬じゃなかったら、なんなのさ」

 不気味な鳥の言葉に何だか急に怖くなり、犬が逆に尋ねてみると、鳥はまたクククククと笑いながら「さぁね」と言ったきり。テーブルの上にひょいと顔を戻して、もう喋らない。


 ○  ○  ○


 犬が本格的に脳みその雨を降らせるようになってから少しした頃。

 脳みその雨が織りなす言葉の山は、消えたように見えるけど、地面にたまって深く蓄積されている。だから新しく雨を降らせるとき、一見言葉は消えてるようにみえるけど、きちんと保管されていて、取り出す時は地べたから引っ張り出せば良いという。

 青い鳥が教えてくれた。

 なるほど確かに地べたに手を入れると、自分の降らせた雨の一端が少しずつ頭の中によみがえる。ためしに、この前書いた物語を引っ張り出すと、長く連なる言葉が大きな蛇のようにずるりと飛び出し、一列に天井まで飛び上がってばらばら言葉の雨が落ちだした。

 長い話なので、言葉が形になる前に「地面に戻れ!」と叫ぶと言葉はたちまち白い地面に吸い込まれた。

 真っ白い世界に、犬と青い鳥が取り残される。

「他になにか質問はあるか?」

 青い鳥が鳩みたいに膨れた胸を突き出すと、犬はうーんと唸ってからそういえば、と思い出す。

「そういえば、ここって僕以外にも脳みその雨を降らせる人がいるよね?」

 いままで、自分が雨を降らせることばかりに夢中だったけど、そういえばここではご主人も脳みその雨を降らせているはずなのだ。ご主人の事だから、降らせる雨はすごいものに違いない。

 鳥はくい、と首をかしげてから「おお!」と声を出した。

「他人のな。他人の雨。ゲギャ!」

 そして嬉しそうにゲギャゲギャと笑うと、ぱかりと口を大きく開けた。

 鳥の口には舌は無く、代わりに針のついたチューブが物凄い勢いで飛び出して、犬の喉に突き刺さる。

 痛いという暇も無く、苦しいと思う暇も無く、ただ反射的に鳥を放り出して刺さった針を抜こうとすると針はとっくに抜けている。

 瞬き一つの後、気が付けば、鳥になって飛んでいた。

 飛んでいるのは、本棚だ。

 右も左も、上も下も、赤や緑や黒や茶色や、すすけてるのや真新しいのや、広大な本棚にギッシリ本が詰まってる。本棚でできた輪の中を鳥になった犬は飛んでいた。

 なるほど、他人の雨を見るには、鳥にならないとダメなんだ。

 翼を無意識に羽ばたかせながら、ご主人の降らせた雨はどれだろうと考えた。すると縦横無尽に敷き詰められた本たちの、そのうち一つに目が付いた。

 これにしよう。

 やり方は自然と解る。

 背表紙に飛び込むと、そこは雨が降っていた。

 言葉の雨と、本物の雨だった。

 ざらざらざらと言葉が落ちて、雨粒にはじけて情景を作り出す。

 大雨が降っている中で、一人の誰かがスイカに頭を食われていた。

 ぐつぐつと聞き取れないほど小さな独り言をつぶやきながら、その場に幽鬼のように突っ立っていた。

 スイカの頭には細いチューブがついていて、それが遠くに伸びている。ずっと遠く、見えないところまで伸びている。

 伸びている。どこまでも伸びている。

 言葉の雨と、水の雨が降りしきる中を、犬がチューブを追いかけて飛んでいくと、チューブは大きな箱につながっていた。

 犬が何千匹も詰め込めそうな、大きな大きな箱だった。

 そして箱にはさっきのチューブ以外にも、何千何百ものチューブがつながっていた。それは全て、スイカから伸びているチューブ。四角い箱はまるで、スイカのチューブから栄養を吸い取っているみたい。

『箱の中には人間が眠っているのです』

 言葉の雨がざららと降ると、箱がぱかんと二つに割れた。

 中にぎっしりと詰まっているのは、卵だった。

 虫の卵みたいな、縦長の白い卵が、カマキリの卵みたいにびっちりと詰まっている。よくみると、一つずつ息をしているように緩い動きを見せている。今にも次々と殻を破って飛び出してきそうな情景に、突然犬の頭が反転した。

 赤や緑や青や黄色や、いろんな色が頭の中でバチバチと乱反射して、飛んでいた犬は地面にまっさかさまに落っこちた。


 ○  ○  ○


 ご主人が、ものすごく怖い顔で立っていた。

 手に持っているのはスイカで、犬は床にあおむけに転がっていた。

「ほあ」

 間抜けな声と同時に、犬はご主人に部屋から乱暴に蹴り出された。

 謝る間も無かった。

「クククゥッ、ついにバレちまったな」

 白い部屋に戻されると、蒼白の犬を見ながら鳥が不気味に笑っていた。


 ○  ○  ○


 部屋の中から声が聞こえる。

「はは、あれは……じゃないよ」

 ごまかすような、そんな声だ。

「違うよ。あれは……じゃない。俺の空想さ」

 声が少しずつ、大きくなる。

「だから、……のじゃないって言ってるだろ?」

 大きくなる。

「違うって言ってるだろ!? あれは俺の雨だ!! これ以上俺らみたいなのを増やして何になる? 人間なんて戻ってくるはずがないんだ! こんな馬鹿な真似、続けてても無駄に決まってるだろう!?」

 外で聞き耳を立てている犬は、だんだん怖くなってきた。テーブルの下に逃げ込んで、ぶるぶる震えていると、鳥がテーブルの上からやってきて怖がる犬を見ながらニタニタ笑ってる。

「お前、とうとう犬じゃなくなったな」

 犬は怖くて何も聞けない。

「やれやれ、怖すぎて何も聞けないってか? だが、かなり良い兆候だ。好奇心も旺盛で、物事もよく見てる。脳みその雨の質も良いらしいな。まさに逸材ってか?」

 鳥はそこでクククゥククククゥと不気味に笑うと、なけなしの勇気を絞った犬が鳥に聞く。

「僕は、どうなっちゃうの?」

 すると鳥は回し車を指さして、ニタリと笑った。

「妄想工場の歯車さ」


 ○  ○  ○


「こちらにいらっしゃい」

 犬は、初めてご主人が喋ったところを見た。

 部屋の中へと通されて、犬はぺたりと床に座った。

 ご主人に上から見下ろされ、犬は生まれて初めて涙をこぼした。

「ごめんなさい」

 小さく言うと、あとからあとから零れだす。

「ごめんなさい。ごめんなさい。本当にごめんなさい。取り返しがつかないことして、ごめんなさい」

 ぼろぼろ涙を流して謝ると、頭の上にぽんとご主人が手を置いた。

 暖かい手におずおずご主人を見上げると、ご主人は悲しそうな、苦しそうな、なんとも言えない顔をしていた。

「脳みその雨を降らせるのは、そんなに楽しかったのかい?」

 こくん、と犬が頷くと、ご主人は仕方なさそうに大きなため息を一つつき、突然物凄い力で犬の首根っこを押さえつけた。

「!? な、何をするんですか!?」

 びっくりして犬が暴れると、拳が頬に飛んできた。

 きゃいんと間抜けな声が出て、犬がすっかり大人しくなるとご主人は犬の白い服を引っ掴んでずるずる外へと引っ張った。そして玄関の、犬が一度も出たことが無い外へ力任せに放り出す。

 外へべたりと倒れこみ、振り返る瞬間にバタンとドアが閉められた。

「ご主人様!? お願いです、中に入れてください! 中に、中に入れて!!」

 どんどん、だんだん、ドアを叩いてもご主人はドアを開かない。その場で崩れて泣き喚いても、ドアはびくとも動かなかった。

「おう、上手い具合に育ったもんだ」

 突然声がして、振り向けば鳥が居た。ご主人の所と同じ鳥に見えたが、羽の色は緑ではなく青だった。

「鳥?」

 犬がおずおず尋ねると、鳥は値踏みをするように上から下まで犬の体を眺めまわした。

「語彙量も良好だな。雨量破綻率も暫く低そうかな」

「あの、どうして鳥がここに居るの? それから、ここ、どこ?」

 外に放られたと思ったのだが、犬が居たのは小さな部屋だった。

 ご主人の部屋のような、壁一面にギッシリと本が詰められた部屋だ。いや、『ような』ではなく、まるきりご主人とおなじ部屋だ。

「どこって、ここは妄想工場に決まってるだろ」

 鳥があっけらかんと言ってのけると、いつものように不気味に笑う。

 ゲギャ、ゲギャゲギャゲギャ。

 そして転がり落ちてるスイカを犬の前まで蹴り出して、

「さぁ今から降らせろ。お前はもう『犬』じゃない。『歯車』だ。だから、暫く降らせられなけりゃ、お前は廃棄されちまうぜ。俺がずっと見てるから」

 そして再び笑い出す。

(あぁ、そういうことだったのか)

 鳥の笑い声を聞きながら、スイカを手にした犬はぼやんと思い出す。

(僕は、妄想工場の歯車だ)

 黒と緑の縞模様。

(僕は、最初から歯車だ)

 その時、犬は犬ではなくなった。


 ○  ○  ○


 脳みそに雨が降る。

 どざざぁどざざぁと音を立て、真っ黒な言葉の雨が降り注ぐ。

 言葉の雨はしずくとなって、はじけて消えて形になった。

 人の眠った棺桶は、楽しい夢見る棺桶だ。

 緑の鳥が歌いだす。

「こっちの雨は面白い。あっちの雨は詰まらない。こっちの雨は人の夢。あっちの夢は廃棄処分」



機能の投稿確認ふくめ、こっそりと投稿しなおしてみました。

犬がスイカで小説を書く話です。電波というか、神経症じみている話かもしれません。

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