追憶
「・・・・・・行ったな」
朱音は椅子に座り込んで溜息をついた。
「待っててくれ、か・・・・・」
〝大丈夫だ、必ず帰ってくる。出来るだけ早く片付けてくる。だから・・・待っててくれないか〟
五年前、必死に引き止める自分にあの男はそう言ったのだ。
「十年も一緒に暮らしただけのことはあるね・・・やっぱり」
緋里は彼の想いをしっかりと受け継いで育ったようだった。
「アカル・・・・・・」
遠い日の記憶に、朱音は思いを馳せた。
朱音と紅流は幼馴染だった。同い年だったこともあって、昔は何をするにも一緒で行動していた気がする。
だが一族に女があまり生まれなかった所為で、朱音は成長するにつれ普通の生活を送ることが難しくなっていった。
「アカネ、俺と結婚しないか」
男たちは子孫を残すため、数の少ない女をなんとか物にしようと躍起になった。朱音もその対象とされることは多々あり、それをなんとかかわしながら日々暮らしていた。
「・・・そういうことは、まだ考えられない」
「そうか・・・。あの、付き合うだけでも―」
「ごめん、約束があるから・・・・・じゃあ」
朱音は逃げるようにその場を去った。
「また迫られたのか」
約束の家に着くと、紅流が険しい顔をしてそこに立っていた。
「そんな強引なのじゃなかったよ。心配しないでいい」
「でも顔色悪いぞ。本当に大丈夫か?」
どんなに隠しても顔に出るらしく、紅流にはすぐ知れてしまう。それが本当に嫌だった。
男好きのする身体をしているのはなんとなく分かっている。本当に忌まわしいと思った。好きな男に見てもらえないのなら、こんなものは邪魔でこそあれ価値などないのだ。
「・・・とりあえず家入れ。何か飲ませてやるから」
肩に触れる手の温もりに朱音の心臓はいつだって跳ね上がるのに、この男にとってそれは兄としての気遣いでしかなかった。
紅流を意識しだしたのは、いつのことだっただろう。はっきり思い出せないほど昔のことなのは間違いない。
朱音が多くの男から言い寄られていることに紅流は何も言わず、その代わり強引に迫られたときなどは必ず助けに来た。いっそ〝俺の女に手を出すな〟とでも言ってくれればそのまま紅流のものになってしまえるのに、そういうとき彼は決まって〝朱音が迷惑しているから〟としか言わない。その優しさはひどく痛かった。
「ほら、あったかいうちに飲め」
差し出された湯を受け取り喉へ流し込む。溜息が出るほど温かかった。
そういう風にしか朱音を助けないくせに、紅流が他の女を想っている様子もなかった。女に無頓着なその性格は朱音を安心させる一方で、逆に不安にもさせる。
「あー、あったけえ」
この男は、誰かを愛することなど一生ないのではないかと――
「ん?どうした?」
そんな心配など露知らず、紅流はいつものように陽気に笑ってみせる。
いっそ自分から迫ってしまおうか。そう思ったことはこれまで何度もあったけれど、普段の勝気な自分からは信じられないほど、朱音は臆病だった。そのままずるずると、時は過ぎていく。
「――アカネ、この文書を銀族の族長殿のところまで届けてくれるか」
そう言って長老が手渡したのは、昨日赫と銀の妖が起こした乱闘騒ぎに対する説明文書、及び謝罪文書だった。朱音は長老の姪であったためこうした雑用を引き受けることも多かった。最近は赫陽が仕事を手伝うようになったのでその役目はもう終えたものだとばかり思っていたが、どうやら赫陽は別の用で出払っているらしい。銀族はちょっとすれ違った程度で因縁をつけてくることも多いのであまり気は進まなかったが、今日中に届けなくてはならない文書なので渋々引き受けることにする。
今思えば、それが不幸の始まりだった。
帰りに紅流の家に寄る約束があったので、朱音はいつになく上機嫌で森を白虎方へと進んでいった。木々を渡っているうちに突然足元がぐらつき、慌てて体勢を立て直す。
「危ない危ない・・・」
もう少しで落ちてしまうところだった。上から覗き込むと、枝が一本落下しているのが見える。どうやら根元が腐っていたようだ。
何か、嫌な予感がした。
銀門が見える辺りまで来たところで変化を解く。幸い朱音の毛は紅流ほどではないにせよ赤みがあるので、頬の赤色を隠せる。余計な揉め事を起こさないよう、目立つのは避けたかった。
赫森を抜けて少し川沿いに進むと、そこに銀門はある。朱音がその前に立つと門、いや正確にはその向こうにある閂から低い声が聞こえた。
『――主は何者か?』
「赫族の長・赫空殿の使者、アカネだ。先日の乱闘の件で文書を届けに来た」
『――通れ』
閂が重い音をたてて動き、門が開く。何のことはない、この閂に憑いた妖が銀森の結界を一時的に解いただけだ。
無事に文書を届けてから森を出ようとすると、突然声がかかった。朱音はびくっと身体を震わせる。
「――おい、そこの貴様。その紋、もしや赫族ではないか?」
目聡い妖に見つかってしまった。全くついていない。
朱音は半ばうんざりしながらも、適当にあしらっても何をされるか分からないのでおとなしくその妖に捕まることにした。
「ったくいつまでもぐちぐちと・・・・」
先程の妖からようやく解放されたときにはもうすっかり日が暮れていた。
特別夜目が利くほうでもなかったので、木に登るのはやめて歩いて帰ることにした。このままでは紅流を待たせてしまう。一刻も早く帰りたかったが、川向かいは人間の住む町だ。下手に変化を解いて見つかりでもしたら面倒だった。
「あれから十五年か・・・」
あの豪快な妖を失ってからそれだけの月日が経った。今日は紅那の命日なのだ。
〝お前にうちのバカ息子をやる!〟
酒に酔うたびそう叫ぶ彼女に朱音はよく苦笑したものだったが、内心本当にそうしてくれたらどれほどいいだろうと何度思ったか分からない。多分紅那は、そんな朱音の気持ちに気が付いていた。あれは彼女なりの後押しだったのかもしれない。
紅流の母の命日を幼馴染二人で過ごす。なんでもないその行為にさえ、何かを期待してしまうのはいけないことだろうか。奇跡でも起こらない限り、あの男は振り向かない。ならば紅那にでも何にでも縋りたかった。
とにかく急いで帰らなくてはならない。そう思って駆け出した瞬間、
「――おっと、いきなり危ねえなおい」
ぶつかったのは赫族の妖――いや違う、頬の紋がない。
「人間・・・・・・?」
こちら側に何故人間がいるのだろう。川を無理やり渡ってでも来たのだろうか。
「ああ?なに言ってんだてめえ。いいから謝れ――いや、金を貸してもらおうか。ほら、とっとと出せ」
人間の男は低い声でそう言うと、懐から出した刃物をちらつかせる。背中を冷たい汗がつたうのが分かった。
「金・・・・金ね・・・・・・」
何も無い懐に手を差し入れながら、朱音は思考を巡らせる。この男一人なら、変化を解いて多少脅かしてやっても問題はないように思えた。何しろ身の危険が迫っているのだ。
「・・・おい、姉ちゃん」
気が付くと、男が薄気味の悪い笑みを浮かべて朱音の身体を舐め回すように見ていた。
「よく見たらなかなか良い身体してんじゃねえか、ええ?金はどうでもいいや、ちょっと触らせろよ・・・」
「はあ!?ちょっ、待っ・・・」
あっという間に後ろ手に縛られて背後の樹に押し付けられ、左手で口を塞がれる。恐ろしいほどに強い力だった。
「大きな声出すんじゃねえぞ・・・。ま、こんな森ん中誰も居ねえだろうけどな。だからこそ俺も安心して逃げてきた訳だし・・・」
男はどうやら何らかの罪を犯して逃げて来ているようだった。誰も住んでいないという予測は生憎外れているが、妖があまり通らない場所なのも間違いない。
朱音はなんとか抵抗を試みたが、この姿のままで男の力に敵うはずもない。変化を解こうにも、この体勢では関節がおかしくなるのが目に見えている。声を上げようとする度、男は顔に痕がつくかというほど口を押さえつけた。
「おとなしくしてろって。大丈夫、ちょっと触るだけだって・・・」
この男がそれだけで満足するとは思えない。朱音は腿の上を撫でられる感触に全身が総毛立つのを感じた。こんなときに限って紅流は助けに来てはくれない。きっと朱音が来るのを待っているのだ、こことは全く反対方向にあるあの場所で。
朱音は固く目をつぶった。これから起こるであろうことを、網膜に焼き付けたくなかった。
「・・・いい子だ。そのままじっとしてろよ?」
この声も、感触も、匂いさえも全て分からなくなってしまえばいいのに。そう思えば思うほど感覚は鋭敏に研ぎ澄まされていく。
これは紅流の指だ。そう思い込もうとしても、彼はこんなに乱雑な触れ方はしないだろうということがはっきりと想像できて、余計に男への嫌悪感が増すだけだった。
こんなことになるなら、さっさと想いを告げてしまえばよかった。そうすればきっと今自分に触れているのはこの男ではなく紅流だった。
後悔してももうどうにもならない。目尻から涙が零れて、朱音は意識を手放す。
――どこかで、遠吠えが聞こえた気がした。ああ、とても・・・温かい。
気が付くと、どこか暖かい場所で寝かされていた。
「・・・気が付いたか」
ぼんやりとした視界に映ったのは愛しい男の顔。
「アカル・・・・あたし・・・・・・・・・」
「何も言わなくていい。・・・まだ、辛いだろう」
紅流は苛立ちと心配とがない交ぜになったような複雑な表情をしていた。身じろぎした瞬間身体に鈍い痛みが走り、自分の身に起こったことをはっきりと思い出す。
あの男。怯える自分を見て下品に笑った、あの男。
朱音は震える身体を懸命に抑えつけた。ひどく恐ろしかった。その腕をほどいて、紅流は朱音の頬を自分の胸に押しつける。
「堪えるな。全部吐き出しちまえ」
「――・・・アカル・・・・・・・・・ッ!」
そのまま泣きじゃくる朱音を、紅流は黙って受け止めていた――
そして、朱音の身体には子が宿った。
お腹の子を気遣って紅流はずっと一緒に居てくれた。本当に、幸せな一時。
だが、それも長くは続かなかった。
「――死んだ・・・・・・・・・?」
朱音は自分の身体が一気に冷えていくのを感じた。紅流はじっと下を向いて言葉を紡ぐ。
「生まれて、すぐに・・・・。本当に、すまない」
何度も口を開いては閉じ、朱音はようやく言葉を絞り出す。
「・・・・・・・・・あんたの所為じゃないさ・・・・・・うん、仕方ないよ」
産んだ直後子供を見た記憶がないから、おそらく紅流が介抱したのだろう。けれど赤子を乱暴に扱うような男ではないのだから、それで死んだというならきっともともと身体が弱かったのだ。あのおぞましい男の、その子だったかもしれないものを育てる苦痛を思えば良かったのかもしれない。
けれど一度自分の腹に宿り生まれ落ちた以上、それは愛しい我が子に違いなかった。
「・・・・ごめん、ちょっと・・・・・・・・独りにしてくれないか」
紅流は黙って部屋を出ていった。
それ以来なんとなく彼とは疎遠になり、朱音が家を移ったこともあって会うことも少なくなった。
想いが消えたわけではなかった。過ごした十ヶ月ほどを思えば、紅流は自分と結婚してもいいと考えてくれるだろうとも思った。けれど朱音にもう子を産む気力はなく、子孫を残す気がないのに彼を縛り付けてしまうのは嫌だった。
三年ほど経ったころだろうか。紅流が人間の子供を育てているという噂が耳に入った。あの時の子ではないか、と一瞬疑ったけれど、紅流が自分に黙って育てている以上その可能性は低いようにも思われた。朱音は何度もその子を見に行きたい衝動に駆られたが、本当に拾った子なら自分が口を出すべきではないと懸命に抑え込んだ。
本当は、ただ知るのが怖かっただけなのかもしれなかったけれど。
緋里が旅立って、「お母さん」と呼んでくれて思い出したのだ。
彼女と初めて出会った日、そして紅流が死んだ日のことを。
薄赤い茶色をした髪と、そしてあの眼。それは確かに彼の言葉が正しかったことを示していて。
愛する妖を失った日、朱音は確かな希望の光を、彼が残してくれたことを知ったのだ――
「――今までずっと、嘘を吐いていたことがある」
戦に出る前日、紅流はそう言った。朱音は胸にあった疑いが確信に変わっていくのを感じていた。
「お前の子は、あの時の子は生きている。今まで黙ってたが・・・」
「・・・分かってたよ、何となく。大体子供なんて隠そうとしたって無理に決まってんだろ。噂、こっちまで流れてきてたよ」
床に額をついて謝る紅流に笑ってみせる。強がりが気付かれなければいい、とそう思った。
「やっぱ隠し事とか向いてねえんだな。つくづく実感した」
詰めが甘えなあ俺も、と紅流はがしがしと頭を掻く。ふざけた中にも自分に申し訳ないと思っているのは充分伝わってきて、朱音は彼に乗って茶化してやることにした。
「十年もかけてそんなことに気付いたのかい?相変わらず馬鹿な男だね・・・流」
そう呼んだ瞬間、紅流は頭を掻く手を止めて朱音を見つめた。
「・・・久しぶりだな、そう呼んだのは・・・・・・音」
紅流は今までの十年間がなかったことのように、穏やかに微笑んだ。
「――そういえば、アカルの〝流〟とかアカマルの〝丸〟とか、下の字だけで呼ばれてることってあるよね。渾名・・・だっけ?アカネさんはそういうのないの?」
少し前に緋里にそう尋ねられたことがあった。
「あるよ。なんだと思う?」
「うーん・・・〝音〟だから・・・オンとか?でもちょっと変だよね・・・」
首を捻る緋里を見て微笑む。かつて紅流も同じことを言ったのだ。
〝お前って真名で呼ばれねえよな。何でだ?〟
〝音っていい読みがないだろ?だから無理に呼ばないのさ。母さんがこの字がいいからって強引につけたらしいけど〟
〝ふーん。でもせっかく付けてもらったんだから何かねえと寂しいよな。ちょっと考えてやるよ〟
幼き日の紅流はそう言うと、木の枝を拾ってきて土の上に不恰好な字で〝音〟と書いた。
〝おとか・・・このままじゃ何か呼びにくいしな・・・・・・音・・・・鳴る・・・・・・・・・鳴る?〟
紅流は両手を打って立ち上がった。
〝そうだ、音にしよう!おとが音、いい名前じゃねえか。お前の母ちゃんのおかげだな!〟
見上げた視線の先、木漏れ日の中で笑う紅流の顔。
〝音〟。その音は自分の耳にすんなり響いて、初めて自分の名を好きになれた気がした。彼がくれた名だと思うだけで嬉しかった。
「〝イン〟でも別に・・・・・あーでもやっぱりおかしいかも・・・あーもう、分かんない、教えてアカネさん!」
しびれを切らしてせがむ緋里に、朱音はいたずらっぽく笑ってみせる。
「内緒。自分で考えな」
紅流が付けた名前だから、紅流にだけ呼んで欲しい。そう思う自分は我侭だろうか。〝流〟という名すら、自分だけのものだったらいいのにと思ってしまうのだ。愛しい妖がくれた愛しい名前は自分にとって何より特別で、そう簡単には教えられない。
「音・・・・・・・か」
けれどもし緋里が無事帰ってきたら、教えてやってもいいかもしれないとふと思った。あるいはあの十年間で彼と同じ感性を培っていたとすれば、いずれ自分で正解に辿り着くかもしれない。
「さて、それを楽しみに待つとしようかね・・・」
彼女が帰ってきたときの楽しみをひとつ、またひとつと増やしながら、母はこの場所で娘を待ち続ける。